ショウケ越と神功皇后腰掛石 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。



飯塚観光協会作成の「神功皇后伝説めぐりマップ」にある③ショウケ越と④腰掛石。

これは、Googleマップや他の何を探しても出てこないので、バイクに乗って探してきました🏍️

 

場所が分かった上で改めてGoogleマップを見たら写っているのが分かる。

「ショウケ越」で検索して印がつくよりも飯塚寄りの場所。

住所的には、福岡県飯塚市内住。

 

「県道飯塚大野線 県道内住篠栗線 開通記念」の碑がある。

 

(糟屋郡)須恵町・大野城市← 福岡市・(糟屋郡)篠栗町

 

ショウケ越開削誌

 

仲哀天皇九年、粕屋郡宇美にて応神帝誕生、その翌年の春、神功皇后は幼帝を竹篭(ショウケ)に寝かせて、この難所を越え、山麓にある大分の行宮に向かわれたとの伝承により「ショウケ越」と呼びならっている。

これら皇后伝説は周防灘と松浦潟を結ぶ北部九州横断道の諸難に多く伝えられる。

「八幡宮本紀」には延喜廿二年六月二十一日詫宣により、この峻坂を越えて八幡大神を大分本宮に遷し奉ると誌されている。従ってこの峠道は嘉穂郡の西璧をなす砥石山の鞍部(標高五百米)をぬける要衝ので、やがて筑紫野に沿ったことが知られる。

記録にあるのは千年前だが、恐らく「米ノ山越」を迂回する大宰府裏官道(八世紀)以前に遡る何百年も昔の道であろう。昭和以降に於ても千古の面影を深溪にとゞめ、樹林にからむ蔦の細道には殆んど通行も絶え果てたが、新らたに三郡山系地塁を開削し、十年余に亘る難工事をへて漸く竣工、今ここに開通を見るに至る。 林田展明識

 

玉垣と石碑がある。

 

大きな石!

サムネイル

​これが、神功皇后がここを越えて行く途中に腰を掛けて休んだという石ね!

 

 

この感じは磯良塚のたもと石に似ている。

発掘したら、人骨の入った甕棺が出てくるのではなかろうかとドキドキしてしまう。

 

腰掛石とか何か書いてありそうだけど全然読めない。

 

「神功皇后御遺跡之碑」と書いてあるらしい。

 

神功皇后、應神天皇という字は見えるけど、他はほとんど読めない
 
サムネイル

​神功皇后が本当にこの石に腰を掛けたかどうかはさておき、こうやってこの地にはっきりと伝承が残っていることが嬉しい。