皇子(応神天皇)を背負って出立した負立八幡神社 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。




負立八幡神社(おいたつはちまんじんじゃ)

福岡県飯塚市柏の森312



御祭神
多岐都姫命、市杵島姫命、多紀理姫命、菟道椎子、仁徳天皇、応神天皇、仲哀天皇、神宮皇后、武内宿祢


肝心な神功皇后の漢字を間違ってるのが解せないのだけど!


宗像三女神をちゃんと1人1人名前を挙げているところや、仁徳天皇と、更に菟道椎子(元々応神天皇が後継者として指名してた人物)まで名前が挙がっている事におお、となった。けど、これは単に、宇佐八幡宮に忠実であろうとしただけかなあ。




八幡神社由緒

当八幡宮は其昔八幡老田宮という、境内坪数一一八二坪、筑前風土記に曰く立岩別府府内当神社の神廟は聖武天皇天平十一年宇佐八幡宮より神人時枝内膳御勧請し奉る。


負立八幡神社ものがたり

むかし、仲哀天皇の夫人神功皇后が朝鮮征伐の帰路、九州の筑紫でホンダワケ(後の応神天皇)を出産しました。その子が生まれた土地「産み(宇美)」といいます。現在の宇美八幡とされています。
翌年の春、京に上がるため軍隊を引率され、粕屋と嘉穂の郡境の険しい峠を竹で編んだザルすなわち(ショウケ)に生まれて間もないホンダワケを入れて武内宿祢が担いで峠を越えたとされ、「チョウケ越え」と名付けられました。
「大分」の地名は、従軍の兵士に戦利品を分け与え、軍隊を解散したことから「大分かれ」から「大分」になったとされています。「大分」でしばらくとどまって行宮を営み、筑紫のまつりごとを行ったことで、宇佐宮託宣集に穂波郡大分宮は我本宮なりとあり、筥崎宮の元宮でもある。
皇后はついに東に遷都しようとして武将達に自分の国に戻るように伝えた。武将達は曩祖の林で酒宴を催した。祭壇を設けて遠祖と天地の神々を祀った。その林を「曩祖の杜」といい、後世発音が同じなので「能祖」と書くようになった。皇后の「いづれの日にか逢おう」から「いづれ」「飯塚」、船の帆が風をはらんで「帆と波が競っているようだ」から「帆波」「穂波」ここからきているそうだ。

この辺りは直接この負立八幡神社の話じゃないけれど、飯塚市内で共有されている市内の伝承( ・`д・´)


我が家からわりと近くにあるのに知らなかったこの神社。

案外立派で橋もある。


右側には蓮。


左のこちらは、花菖蒲かなぁ。




階段の手前。


右は猿田彦神社。


左は高木神社。


高木神社の鳥居の向こうにある4つの碑。


3つは猿田彦だったけど、この丸が描いてあるのが高木神で間違いなかろう。

他の高木神社でも同じ物を見たことがある。


この丸が何を意味するか、誰か教えて欲しい。


奥に階段が見えるがひとまずは無視。


もとの場所へ戻って階段を登る。


ちゃんとした門。


花の彫刻。


門の向こうに社殿が見える。



皇后が都へ赴かせ給う時、ここで朝饌「朝食」を聞きし召されました。



聖武天皇の天平十一年祠を立てて、柏森八幡で宇佐八幡の社領だったことを皇后に申し上げると「彼の地より迎え祭るべし」とおしゃられた。←この部分だけ急に時間が違う。



武内宿祢命が皇子「後の応神天皇」を負い奉りて、神功皇后が休息の地を出発されたことにより、負立八幡の名がついた。



他の福岡県内の多くの八幡宮がそうであるように、元々神功皇后の伝承があるところに、後から宇佐の八幡信仰がやってきて、神功皇后や応神天皇を祀る八幡神社が出来たのであろうと思われる。


社殿の右側には、今は使われていなさそうな神楽殿がある。


狛犬の顔は割れてしまっている。


神楽殿の向こうに鳥居や祠。



右から、須佐神社⛩️


恵比須神社⛩️


宮地嶽神社⛩️



こちらの狛犬は、欠けてはいるけどまだ顔が残っている。


こちらにも鳥居が並ぶ。


ちなみにナナメ横から見た社殿。


こちらは左から天満宮⛩️


貴船神社⛩️


志賀神社⛩️

祠は託宣神社、五穀神社。

撮れてないけどもう1つ、薬師如来もあったみたい。


ところで、天満宮の左奥は開けている。


公園だ!

藤棚がある。


ブランコ。

奥にはトイレ。


鉄棒。


滑り台もある。

そういえば二の鳥居の側には公民館もあったわけだし、昔は結局子供が使っていたんだろうなと思われた。