角鹿(敦賀)の都怒我阿羅斯等 | 筑前由紀のプチトリップ

筑前由紀のプチトリップ

2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

敦賀駅

福井県敦賀市鉄輪町1-1-24


駅前に、地名の由来となった人物の像がある。



伝説による都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)


日本書記の巻第六の項に「一に曰く崇神天皇の世に額に角有ひたる人 一の船に乗りて越国の筍飯浦(けひのうら)に泊れり 故其處をなずけて角鹿(つぬが)と曰ふ・・・。」の記事がみえている。

任那(みまな)の王子 都怒我阿羅斯等はひたいに大きな角のようなものがあったとか 又異人を浜辺にみた人々が恐れてその偉大さをたたえて口にしたものとか あるいは王子の正装の冠とか武装して上陸したのであれば冑ではなかろうか-、など古代人によせる後人の思いはさまざまである。


今回都怒我阿羅斯等の像を有識者各位の説を参考にして、敦賀ライオンズクラブが建立した。

都怒我阿羅斯等の額には角があったことから角額(つのぬか)と呼び、これが縮まって角鹿(つのが)となり、その後 元明天皇の和銅6年に敦賀(つるが)という字に改められたという。



以下、日本書紀の11代垂仁天皇の章で、都怒我阿羅斯等に関係がある部分の現代語訳。




この年(垂仁2年)、任那の人である蘇那曷叱智(ソナカシチ)が、「国に帰りたい」
と言った。
先皇の御世に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。

彼を厚くもてなされ、赤絹を100枚を持たせて任那の王に贈られた。
ところが、新羅の人が途中でこれを奪った。
両国の争いはこのとき始まった。




一説によると、崇神天皇の御世に、額に角の生えた人が、ひとつの船に乗って越(こし)の国の笱飯の浦(けひのうら)に着いた。
それで、そこを名づけて角鹿(つぬが→敦賀)という。
「何処の国の人か」と尋ねると、
「大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、またの名は于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本の国に聖王がお出でになると聞いてやってきました。穴門(長門国の古称)に着いたとき、その国の伊都都比古(イツツヒコ)が私に、『私はこの国の王である。私の他に二人の王はない。他の所に勝手に行ってはならぬ』と言いました。しかし、私はよくよくその人となりを見て、これは王ではあるまいと思いました。そこで、そこから退出しました。しかし、道が分らず島浦を伝い歩き、北海から回って出雲国を経てここに来ました」と述べた。



このとき、天皇の崩御があった。
そこで、留まって垂仁天皇に仕え三年たった。


天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられ、「自分の国に帰りたいか」
と問うと、
「大変帰りたいです」
と答えた。
天皇は彼に、「お前が道に迷わず速くやってきていたら、先皇にも会えたことだろう。そこでお前の本国の名を改めて、御間城天皇(みまきてんのう)の御名をとって、お前の国の名にせよ」と言われた。

そして、赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された。
ゆえに、その国を名づけてミマナの国というのは、この縁によるものである。

阿羅斯等は賜った赤絹を自分の国の蔵に収めた。
新羅の人がそれを聞いて兵を伴いやってきて、その絹を皆、奪った。
これから両国の争いが始まったという。


また別の説によると、はじめ、都怒我阿羅斯等は国にいたとき、黄牛(あめうし)に農具を負わせて田舍に行った。
ところが、黄牛が急にいなくなった。
跡を追って行った。
足跡がある邑の中に留まっていた。

一人の老人が言った。
「お前の探している牛は、この村の中に入った。村役人が言うのに、『牛が背負っていた物から考えると、きっと殺して食べようとしているのだろう。もしその主がやってきたら、物で償いをしよう』と言って、殺して食べてしまった。もし『牛の代価に何を望むか』と言われたら、財物を望むな。『村にお祀りしてある神を欲しい』と言いなさい」と言った。
しばらくして、村の役人が来て言った。
「牛の代価は何を望むか」回答は、老人に言われたようにした。
その祀る神は、白い石であった。
それで、白い石を牛の代りとした。
それを持ち帰って寝屋の中に置いた。
すると、石は美しい乙女になった。
阿羅斯等は大変喜んで交合しようとした。
しかし阿羅斯等がちょっと離れたすきに、娘は失せてしまった。

阿羅斯等は大変驚き、妻に尋ねた。
妻は答えて、「東の方に行きました」と言う。
探して追って行くと、海を越えて日本国(やまとのくに)に入った。
探し求めた乙女は、難波(なにわ)に至って比売語曽社神(ヒメゴソノヤシロノカミ)となった。
また、豊国の国前郡に行って、比売語曽社神となった。
そして、この二箇所に祀られているという。



三年春三月、新羅の王の子、天日槍(アメノヒホコ)がきた。
持ってきたのは、羽太の玉一つ、足高の玉一つ、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ、出石(但馬国のこと)の小刀一つ、出石の样一つ、日鏡一つ、熊の神籬一具、合せて七点であった。
それを但馬国(たじまのくに)におさめて、神宝とした。

一説に、はじめ、天日槍は、船に乗って播磨国(はりまのくに)に来て、宍粟邑(しさわのむら)にいた。
天皇が三輪君(みわのきみ)の祖の大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖の長尾市(ながおち)を遣わして、天日槍に、
「お前は誰か。またどこの国の人か」と尋ねられた。
天日槍は、「私新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、私の国を弟である知古(チコ)に授けてやってきました」と言う。

そして奉ったのは、葉細の珠、足高の珠、鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子、出石の槍、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀、合せて八種類である。
天皇は天日槍に詔して、
「播磨国の宍粟邑と、淡路島の出浅邑の二つに、汝の心のままに住みなさい」と言われた。
しかし天日槍は申し上げた。
「私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるなら、自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を 選ばせて頂きたい」と言った。
そのお許しがあった。
そこで、天日槍は宇治河を遡って、近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。
近江からまた若狭国を経て、但馬国に至り居処を定めた。
近江国の鏡邑の谷の陶人(すえびと)は、天日槍に従っていた者である。
天日槍は但馬国の出石の人、太耳の娘である麻多烏(マタオ)を娶って、但馬諸助(タジマモロスク)を生んだ。
諸助は但馬日樁杵(タジマヒナラキ)を生んだ。 
日播杵は清彦(キヨヒコ)を生んだ。
清彦は田道間守(タジマモリ)を生んだとされる。

(略)


八十八年秋七月十日、群卿に詔して、
「新羅の王子、天日槍が初めてやって来た時に、持ってきた宝物はいま但馬にある。国人に尊ばれて神宝となっている。私は今、その宝を見たいと思う」
と言われた。
その日に使者を遣わして、天日槍の曽孫である清彦に詔された。
清彦は勅を受けて、自ら神宝を捧げて献上した。


羽太の玉一つ、足高の玉一つ、鵜鹿鹿の赤石の玉一つ、日鏡一つ、熊の神籬一つである。
ただ、刀子が一つだけあり、名を出石という。
清彦は急に刀子は奉るまいと思って、衣のなかに隠して、自分の身につけた。
天皇はそれには気づかれず、清彦を労うため御所で酒を賜った。
ところが、刀子は衣の中から現れてしまった。

天皇はご覧になって清彦に尋ねて、
「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」
と言われた。
清彦は隠すことはできないと思って白状して、
「奉るところの神宝の一つです」
と言った。
天皇は、
「その神宝は仲間と一 緒でなくても差し支えないのか」
と言われた。
そこでこれを差し出し奉った。
神宝は全部、神府に納められた。

その後、神府を開いてみると、刀子はなくなっていた。
清彦に尋ねさせられ、
「お前が奉った刀子が急になくなった。お前の所へ行っているのではないか」
と言われた。
清彦は答えた。「昨夕、刀子がひとりで私の家にやって来ましたが、今朝はもうありません」
天皇は畏れ慎しまれて、また欲しがろうとはしなかった。
この後、出石

の刀子は、ひとりでに淡路島に行った。
その島の人は、それは神だと思って、刀子のために祠を立て、今でも祀っている。

昔、一人の人間が小舟に乗って、但馬国にやってきた。
「何処の国の人か」
と尋ねると、こう答えた。
「新羅の王の子、名を天日槍という」
そして但馬に留まり、その国の前津耳の娘の麻拕能烏(マタノオ)を娶とって、但馬諸助(タジマモロスク)を生んだ。
これは清彦の祖父である。


九十年春二月一日、天皇は田道間守に命じて、常世国に遣わして、「非時の香果」を求められた。
現在の橘のことである。九十九年秋七月一日、天皇は纏向宮で崩御された。
時に、年百四十歳。

冬十二月十日、菅原の伏見陵に葬った。

翌年春三月十二日、田道間守は常世国から帰ってきた。
持ってきたのは、非時の香果を八竿八縵である。

田道間守は泣き嘆いて言った。
「命を承って遠く遥かな国に行き、万里の波を越えて帰ってきました。この常世国は、神仙の秘密の国で、俗人の行ける所ではありません。そのため、行ってくるのに十年も経ちました。本土に再び戻れるとは思いもかけなかったことです。しかし、聖帝の神霊の加護により、やっと帰ることができました。今、天皇は既に亡く、復命することもできません。私は生きていても何のためになりましょうか」
天皇の陵にお参りし、泣き叫んで死んだ。

群臣はこれを聞いて皆、泣いた。
田道間守は三宅連の先祖である。



古事記には、都怒我阿羅斯等は出て来ない。

垂仁天皇の章には、多遅摩毛理(田道間守)だけ出て来る。


天皇は、三宅連らの祖先で、名は多遅摩毛理(たじまもり)という人をはるか遠い常世国に遣わして、時を定めずに良い香りを放つ木の実(橘)を求めさせられた。
それで多遅摩毛理は、ついにその国にやって来て、その木の実を採って、縵橘八本、矛橘八本をたずさえて帰って来る間に、天皇は既にお亡くなりになっていた。
そこで多遅摩毛理は、縵橘四本と矛橘四本を分けて皇后に奉り、縵橘四本と矛橘四本を天皇の御陵の入口に供えて、その木の実を捧げ持って、大声で叫び泣きながら、「常世国の時じくの香の木の実を持って参上いたしました」
と申しあげて、ついに泣き叫びながら死んでしまった。
その時じくの香の木の実というのは、今の橘のことである。


また、古事記において天日槍(天之日矛)は、15代応神天皇の章の後に出てくる。



昔、新羅の国王の子で、名は天之日矛という者がいた。
この人が我が国に渡って来た。
渡来した理由は次のとおりである。

新羅の国に一つの沼があって、阿具奴摩(あぐぬま)といった。
この沼のほとりに一人の賤女(しずのめ)が昼寝をしていた。
このとき、太陽の輝きが虹のように女の陰部を射した。
一人の賤男(しずのお)がいて、その有様を不審に思い、いつもその女の行動をうかがっていた。するとこの女は、その昼寝をした時から妊娠して、赤い玉を生んだ。
そこでその様子をうかがっていた賤男は、その玉を所望してもらい受け、いつも包んで腰につけていた。


この男は、田を谷間に作っていた。
それで耕作する人夫たちの食料を、一頭の牛に負わせて谷の中に入って行くとき、その国王の子の天之日矛に出会った。天之日矛がその男に尋ねた。
「どうしておまえは食料を牛に背負わせて谷に入るのか。おまえはきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」と言って、すぐその男を捕えて牢屋に入れようとした。
その男が答えた。「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」
けれども天之日矛はやはり許さなかった。
そこで男は、その腰につけた赤玉の包みを解いて、その国王の子に贈った。


天之日矛はその賤男を許して、その赤玉を持って来て、床のそばに置いておくと、玉はやがて美しい少女に姿を変えた。
それで天之日矛は少女と結婚して正妻とした。
その少女は、いつも様々なおいしい料理を用意して、いつもその夫に食べさせた。
ところが、その国王の子は思い上がって妻を罵るので、その女は、
「だいたい私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」
と言って、すぐに密かに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。
これは難波の比売碁曾神社の阿加流比売という神である。


天之日矛は、妻が逃げたことを聞いて、すぐに跡を追って海を渡り、難波に着こうとしたところ、その海峡の神が行くてをさえぎって難波に入れなかった。
そこで一度戻って、但馬国(たじまのくに)に停泊した。
天之日矛はそのまま但馬国にとどまり、但馬の俣尾(またお)の娘の前津見という名の人と結婚して、生んだ子が多遅摩母須玖(たじまもろすく)である。


この人の子は多遅摩斐泥(たじまひね)であり、その子は多遅比那良岐(たじまひならき)である。
その人の子は、多遅麻毛理(たじまもり)、次に多遅摩比多訶(たじまひたか)、次に清日子(きよひこ)の三人である。

この清日子が、当摩野咩斐と結婚して生んだ子が、酢鹿之諸男、次に妹の菅竈由良度美である。
そして上に述べた多遅摩比多訶が、その姪の由良度美と結婚して生んだ子が、葛城の高額比売命である。
この人は息長帯比売の母である。

天之日矛の持って渡って来た宝物は、玉つ宝という珠の緒、浪を起こす領巾、浪を鎮める領巾、風を起こす領巾、風を鎮める領巾、沖つ鏡、辺つ鏡、合わせて八種である。
これらは伊豆志神社に祭る八座の大神である。


氣比神宮内にある角鹿神社⛩




古事記には、天日槍の事を垂仁天皇の章でもなく神功皇后の後でもなく、応神天皇の後に書いてるのが不思議。

垂仁天皇の、長く喋る事が出来なかった息子の名前、誉津別/品牟都和気(ほむつわけ)命が応神天皇=誉田別と名前が似てるのも気になる。
まあ、それをいうと仲哀天皇にもう1人、誉屋別ってのもいるから、当時としてはよくある名前でありたまたま似てるだけなのかもしれないけど、応神天皇は角鹿で名前の交換をした結果、誉田別って名前になったわけだから、なんか関係ありそう。
(あと、応神天皇の5世来孫って事で即位した継体天皇の出身地もこの辺りだとかいうのも、気になる。)

少なくとも、都怒我阿羅斯等や天日槍は、神功皇后や応神天皇にとっても大事な人物だろうと思われて気になる。