銅鏡とは | 筑前由紀のプチトリップ

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  銅鏡とは

 

銅で出来た鏡。

古代中国に起源をもつとされている、中国、朝鮮、日本の遺跡から発掘される青銅製の鏡を指すことが多い。

製作は、鋳型に鋳造したのち研磨、錫メッキ、研磨という手順で作られる。

 

なお、今日博物館等でみる銅鏡は緑色で鏡として利用できないが、これは長い年月の間に酸化して緑青が形成されたからであり、作られた当時の銅鏡の反射面は白銀色ないし黄金色の金属光沢を呈していた。

 

 

 

中国

漢代から三国・六朝時代・唐代にかけて盛行した。

 

形態は円形が多いがまれに方鏡もある。
直径は数十cm程度。


磨かれた鏡面の裏側には中心に鈕(つまみ)があり、その周囲にさまざまな画像や文様が鋳出されている。

古代中国製の銅鏡には、神像と動物文を鋳出した神獣鏡が多く、その他、背面の文様によって「方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)」「海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)」「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」などさまざまな形式に分類されている。

用途としては、現在使われている鏡のように単純に物の姿を映し出す道具としてではなく、祭祀・呪術用の道具として用いられたと考えられている。

 

 

日本

日本においては、弥生時代から古墳時代の遺跡で多くの銅鏡が発掘されている

 

出土する鏡は、大陸からの輸入品の舶載鏡(はくさいきょう)と、それを模した国産の仿製鏡(ほうせいきょう)に分類される。

種類としては、北部九州の弥生遺跡から出土する方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や内行花文鏡(ないこうかもんきょう)、大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。

 

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出土品としての銅鏡

銅鏡は、銅鐸とともに弥生時代を特徴づける出土品とされ、分布により銅鏡・銅鐸文化圏などが論じられている。

弥生時代の中期、北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。

銅鏡は宝器として珍重され、後期になって副葬され始めるようになった後漢鏡は、不老長寿への祈りを込めた文が鋳出され、その鏡を持った人は長寿や子孫の繁栄が約されるというものだった。

また、誰でもが銅鏡を所有出来るのではなく、有力者や司祭者などに限られていた。

北部九州でも玄界灘沿岸の地域では、平原遺跡1号墓40面、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡などで20枚や30枚もの大量の鏡を副葬した甕棺があり、王の墓の豪華さが分かる。

墓に銅鏡を副葬するという風習は、古墳時代にも引き継がれて、全国に広まった。

 

古墳前・中・後期には、いわゆる漢鏡もしくは漢式鏡であったが、終末期古墳では隋・唐鏡になっている。しかし、それはあくまで様式名であり、実際に隋や唐の影響を受けたわけではない。

 

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信仰対象としての銅鏡

日本においては、鏡は神道の信仰の対象となっている。日本神話に登場するものとしては、三種の神器の一つの八咫鏡や日像鏡・日矛鏡などがあり、鏡を神体として社に祀っていることがある。

平安時代以降、鏡面に仏像を線彫りにして信仰礼拝の対象とした「鏡像」(きょうぞう)が盛んに製作され、これは後に銅板に半肉彫りの彫像を取り付けた「懸仏」(かけぼとけ)に発展した。

江戸時代にはキリスト教禁止により隠れ切支丹鏡などが製作された。