熊野神社
福岡県飯塚市立岩1380
社伝に曰く、その昔神武天皇が九州より大和に攻め上られた時この地にて嵐に遭い停滞を余儀なくされた。
そこで神武天皇は祖先の神々に祈願された。
すると天より巨岩が雷光と共に落ち、大地に突き立ち、雨はやみ、戦にも勝利し、村々は平穏になったと言う。
この神霊の宿る岩をお祀りしたのが立岩神社であり「立岩」の地名の由来である。
飯塚市立岩は、古事記にも記載がある岡田宮に続く、遠賀川の流れる場所です。
(↑青い線が大体の遠賀川を示す。)
古事記には宇佐の後、「其地より遷移りまして、竺紫の岡田宮に一年坐しき。」としか書かれていません。
なので、宇佐から海沿いに移動したようなイメージを持つ人も多い…というか、私自身がそうイメージしていました。
でも、実際はそうではなく、どうやら途中から遠賀川を使って移動したらしいのです。
ちなみに、日本書紀には「天皇至筑紫國崗水門」と記載があります。
この崗水門があったと伝わる神武天皇社は、遠賀川最下流、遠賀郡芦屋町にあります。
熊野神社の階段を登った先に、巨石が並んでます。
これが天から落ちて来たという巨石でしょうか⁉︎
ここは昔、熊野崎(または熊野、熊崎)と呼ばれていたようです。
境内案内板にあった熊野神社の縁起には続きがあり、神武天皇より後の時代についても書かれていました。
立岩丘陵の周辺は一面の沼地であった。
斉名天皇の御世、朝倉宮が造営された年(六六一年)の六月、熊野崎(現熊野神社の地)に異人が漂着し三日後全員が急死した。
その後立岩の地に疫病が蔓延し、多くの村人が死亡した。
その時村長の元に「我は伊耶那岐命である。 お前達は我が宮をこの熊野崎に建て謹んで奉祀すべし」とのお告げがあった。
村長は、このことを朝倉宮に上申し、認可を太宰府長官より得て神殿を造営し二神をお祀りした。
すると、瞬く間に疫病が治まったと言う。
以上が熊野神社の縁起である。
そんなわけで、熊野神社の祭神は、伊弉諾・伊邪那美です。
この遠賀川流域は、国内の交通の要所だったのみならず、海外との交流もあったようです。
立岩堀田遺跡では後漢鏡が出土しており、考古学会では魏志倭人伝に出て来る不弥国はここの事ではないかと言われていたりもします。
伝承地としても申し分ない場所ですよね‼️
ここが立岩2号墳であり、古墳の上に祠があります。これが貴船神社ですね。
「貴船」という名が、ここが船の安全を祈る場所であった事を伝えています。
熊野神社の別の由緒には、以下のように記載されています。
御祭神 伊弉諾神 伊弉卌神
筑前績風土記に曰く其昔立岩柏森二村の産神なりし
昔は伊弉諾神伊弉卌神手力男神大己貴神少彦名神以上立岩権現五神三座を祀る
社記に曰く神武天皇御東征の砌り雷雨俄に起り山嶽鳴動天地咫尺を辨ぜず時に巨岩疾風の如く飛来して此の山頂に落下す 其状拾も屏風を立てたるが如し
電光赫々の中岩上に神現れて曰く
「我は天之岩戸神名を手力男神と言ふ
此の処に自ら住める惡鬼あり 其状態に似て熊に非ず 蜘蛛に似て左に非ず 手足八ツありて神通力自在空中を飛行して其妙術は風を起し雨を降らす
彼今怪力を恃みて恣に天皇を惑はんとす最も憎む可きなり 我巨岩を擲て其賊を誅す
自今吾が和魂は此の岩上に留って筑紫の守護神たらん
又荒魂は天皇の御前に立ちて玉體を守護すべきなり」と
爰に天皇 駒主命をして厚く祭らせ給ふ
三十六代清和天皇の御宇 大巳貴神少彦名神を別殿に斎き奉り
三十七代斎明天皇の御世 諾册二神を今の熊崎に移し奉る熊崎詞後熊野宮と言ふ
※三十六代は孝徳天皇の間違いかな?
昔の祭神は、伊弉諾神・伊弉卌神・手力男神・大己貴神・少彦名神だったという。
大己貴・少彦名の由緒は不明。36代天皇の時代に別殿へ。
37代天皇の時に伊弉諾・伊邪那美を今の熊野神社の場所に移して祀った。
そして手力男だけは、元の場所に祀られている。この感じを見るに、かつては手力男と不動明王が同一視(神仏習合)されて祀られたのでしょう。
それにしても手力男、あなた、神武天皇にも加勢していたのね❗️
とここで、アレ?と気になったこと。
日本書紀より以下
六月乙未朔丁巳。軍至名草邑。則誅名草戸畔者。遂越狹野而到熊神邑。且登天磐盾。仍引軍漸進。海中卒遇暴風。
〜現代語訳〜
六月二十三日、軍は名草邑に着いた。そこで名草戸畔という女賊を誅された。ついに佐野を越えて、熊の神邑に至り、天磐盾(あまのいわたて)に登った。そうして軍を率いてさらに進んでいった。
海を渡ろうとするとき、急に暴風に遇った。船は波に奔弄されて進まない。
《中略》
天皇獨與皇子手研耳命。帥軍而進至熊野荒坂津。因誅丹敷戸畔者。時神吐毒氣。人物咸瘁。由是皇軍不能復振。
〜現代語訳〜
天皇はひとり、皇子である手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着かれた。
そこで丹敷戸畔という女賊を誅された。
そのとき、神が毒気を吐いて人々を弱らせた。このため皇軍はまた振わなかった。
そしてこの後、神武天皇は武甕雷の剣に助けられるわけですが、このくだり、熊野神社に伝わる伝承に通じるところがありますよね⁉️
熊野という地名。
いわたて=たていわ?
船で移動中に暴風に遭遇。
神が毒気を吐いて人が弱ったのは、漂流した異人が亡くなり疫病が蔓延した状況に似ている、とまで言うのは、ちょっとこじつけかもしれませんが。
もしかしたら、ここ立岩の伝承が形を変えて伝わったのが、古事記や日本書紀にある神武天皇が武甕雷の剣に助けられる辺りの話になったのではないか。
そんな風に感じるのです。
ほら、最初に載せた縁起にも「天より巨岩が雷光と共に落ち」ってあるし。
神武天皇を助ける為に、手力男は巨石を投げ、武甕雷は剣を投げたのかも知れないよね、と。
そんな風に思うのでした☺️
〜以下、飯塚の宣伝〜