今回のバスハイクの行き先の中で、何気に1番気になっていた金富神社⛩
宇佐神宮の元宮とかいう説がねぇ、気になるのよ。
この神社の、ではなく、その後回る予定の鬼伝承地を案内して下さる予定のガイドさん達とはここで合流。
写真には写っていないけど、なんだかえらく大人数でお出迎えして下さった😆
感激されているっ!
まあでもそれはさておき、金富神社を見て回る。
金富神社
福岡県築上郡築上町大字湊392-2
祭神
仲哀天皇
応神天皇
神功皇后
高龗神
木花咲夜姫命
仲哀・応神・神功皇后は分かりきっているとして、他2柱は、特別珍しい神様なわけではないけれど、あまり見ないから意外。
神亀元年(七二四)、宇佐神宮造営の木材を伐り出す御杣始祭(本庄の大楠)に先立ち、 金富の丘で斧立神事が行われたことにより創建されました。
とのこと。
これがあるから宇佐神宮の元宮説があるらしいんだけど、それでなんで元宮ってなるのか分からないのよー。
宇佐神宮作るために木を切った場所ってだけでしょ?
元宮って、何をもって元宮って言ってるの?
最初に社殿がここにあってあっちに移動したならここが元ってなるけど、あっちに作る予定があって、その時に新しくここに作ったんだったら全然元じゃないじゃんサブじゃん。
もしくはプレって感じ。
それは元とは言わないでしょーよ。
…でもまあ、宇佐神宮造成の際に重要な役を担った場所だという事は分かった。
以下、金富神社に「原始八幡神創祀遺跡(学説)」として書いてあった事。
社伝に曰く聖武天皇の神亀元年豊前守男人藤井連毛、人を奉じて宇佐小倉山に神殿を造営す神託に依って築城郡安之水戸 (一名赤坂湊) 金富岡に神幸あり、
三間の仮殿を造り榊山御滞在の上斧立の行事あり
それより本庄村に於て杣立ありてまた当社還幸あり、
その時より初めて大神首人字佐より来ってこの聖地に社殿を建立して八幡神を勧請し奉る是「日本勧請之最初也」
故に以来宇佐宮神殿再興の節は当社に行幸あること旧例なり
宇佐宮斧立の事並に当社行幸の事は「往昔之神秘也」
また、宇佐宮勅祭の行はるる年は、本宮より必ず当社に参向せらるる事「往昔之緑由」に依り永く恒例となすと謂ふ。
「日本勧請之最初也」の意味がよく分からない🤔
(八幡神が最初に出現した場所がどこかはさておき)宇佐小倉山に神殿を作る予定にはしていたけれど、八幡神を迎え入れて(仮の)社殿を作った最初の場所はここ、って解釈で合ってるかな。
さて。
そもそも「八幡神」って何でしょ?
今では一般的に「応神天皇」という事になっているけれど…。
「原始八幡神創祀遺跡(学説)」の、さっきの文章より前に書いてあった事を以下に。
三世紀の頃、 規矩、田川、京都、仲津、築城の五郡の地域に豊国があり、主祭神を息長大姫自命とも豊比咩玉依姫とも唱えて、辛島、長光、赤染等の同族によって斉き祀られていた。
あら、神功皇后(息長帯姫大神)⁉︎と思ったら、ちょっと違うよ❗️
この息長大姫大自命、福岡県田川郡にある香春神社に主祭神として祀られていて、朝鮮半島から渡来して来たとされている。
神功皇后との関連性がめちゃくちゃ気になるところ。
一応別人扱いなんだけど。
もしかしたらこっちが、神功皇后の本来の形っったりするんじゃないかなぁと、私は思わないでもない。
けど、それを語り出すと長くなるし香春神社にも行った事ないので語るのは止めておく。
豊比咩玉依姫は息長大姫大自命の別名なのか、豊玉姫や玉依姫なのか、また違う神なのかは不明。
京都郡に栄えていた辛島族は三世紀の中頃に南下を始めて、当時下毛上毛の二郡の地域にいて海神を祭る山国族と接触しこれ融合して共同の祭神として「ヤハタノ神」を創祀した
是れはヤマトヨ国の国魂の神であって、その地は綾幡郷(椎田町)の中央にあり、ヤバトヨ、 ヤバタ、ヤハタと呼ばれた。
京都郡は、4月のバスハイクの際に書いたように、豊国にある12代景行天皇が仮の都を置いたとされる場所。
山国族に豊国の一族(辛島族)が融合し、山豊国の神様としたのがヤハタノ神だそうな。へー⁉︎
此の社が矢幡八幡宮であって当金當八幡宮は、その古代宮趾である。
なんかまた違う神社名が出て来たわけだけど。
矢幡八幡宮は金富神社の旧名であるけど、祭神が違うから同一って書けなくて「古代宮跡」って書き方をしてる、ってな解釈で良いんだろうか。
其の後五世紀の頃、辛島族は矢幡の神を奉じて下毛郡高瀬に停まった。此の社が高瀬の矢幡八幡宮である。
更に南下して宇佐郡辛国宇豆高島に遷座した此の社が酒井泉社である
此の故に金富社を第一次、泉社を第二次原始八幡神の創祀と呼んでいる。
ふむふむ、
①.辛島族が山国族と融合して生み出したヤハタノ神を祀った。
②.①宇佐に移動させて祀った。
という事か。
此の地に於て辛島族は三女神を奉する宇佐族と統合して一時期小椋山 (小倉山亀山とも云う)に共通の族神を奉した。
此の新たに創祀の神を比咩神と唱え第三次原始八幡神が是である。
③.①と三女神を融合して祀った。
次で六世紀の末頃に大和の大神此義によって応神八幡神が発見され字佐に上陸して茲に大神辛島宇佐族の統合がなされ八世紀に応神八幡神が小椋山 (小倉山)に創祀された。
④.③と大神此義によって発見された神を融合して祀った。
降って人皇の時代となり貞観元年に石清水八幡宮の勧請のことがあり此時より始めて宇佐八幡宮と稱えられることになった。
⑤.清水八幡宮を作るにあたって、④は宇佐八幡宮と呼ばれる事になった。
当社は宇佐八幡宮の元宮とも言う可き原始八幡神顕現の霊地であって他に類を見ないものである。
①〜⑤によって、金富神社が宇佐神宮の元宮って言いたいわけね⁉︎
なるほど?
ところで、大分八幡宮が宇佐神宮の本宮ってのはどうなってるの?
①〜③の流れで、④で「大分宮に祀られていた応神天皇と融合した」だったら大変スムーズに理解出来るんだけど、上手に繋がってくれない。
でも、ここまでて分かった事には、関わる様々な人達が信じるものを仏教も含めて色々取り込んだ結果生まれたのが八幡神なんだろうなって事。
八幡神は息長大姫大自命や宗像三女神や応神天皇などをミックスした存在!
この件に関してまた色々書きたくなる事もあるだろうけど、既に相当頭使ったしわけ分からないので、ひとまずここまで。
バスハイクの件、続く。