隼鷹神社
福岡県小郡市横隈164-1
すぐ前に池が。
鯉あり。
手前の狛犬はまだ2歳!
この神社、最近綺麗にされたのね〜。
1800年記念とな。
歴史ある神社ですな。
仲哀天皇が熊襲征伐の際、高御産巣日神が鷹の姿となって現れ、この場所の松の梢に止まったという神社由来の伝承があります。
仲哀天皇がまだ生きている時、現在の御勢大霊石神社の場所で天神地祇(天の神様、地の神様)を祀っていたら、鷹が現れ、北に飛び、松の枝にとまり、そして去っていった。
後々、あれはタカミムスビの化身だったのだろうって事で祀る事にしたらしい。
松のあった場所がこの、隼鷹神社。
ただ鷹が現れて木に止まっただけなのに、何故それを神の化身だとしたのか。
それは、仲哀天皇が亡くなったからだろう。と、そういう話。
社殿。場所によって明らかに年代が違う。
この部分はとても新しい。
木鼻の部分は造りが立派だから残したんだろうな。
牙の部分とかも、左のヤツのはヒビ入ってるかもだけちむ、全体的にはよくもまあ綺麗に残っているよね。
伝承の松の木は枯れてしまい、現在は大楠を御神木としているとのこと。
↑の記事の中にリンク貼ってる記事(大行事神社)見て思い出した。
この「大行事」も、タカミムスビを指すってことで良いんだろう。
繰り返しになるけれど。
古事記では仲哀天皇が死んだのは、香椎で御神託を受ける儀式の最中って事になっていた。
でも実際は違う。実際はきっとこの辺りで敵にやられて死んだんだろう。
その時、神功皇后やその他の方々は強く思ったはず。
「どうして仲哀天皇は死んでしまったの?」
もしかしたら◯◯をした/しなかったせいかもしれない。
あの時に見た●●は、死を予言するものだったのかもしれない。
ありとあらゆる事を考えたんだろう。
その中の1つが「あの時の鷹は、この死を予言して出て来た神様だったのかもしれない」。
神功皇后は朝鮮出兵という偉業を成したわけだけど、それは、仲哀天皇の死を意味あるものにする為だったのかなぁって今、思う。
「きっとこれは、神様が(仲哀天皇が反対していた)朝鮮出兵をさせたいが為に起こした事なんだ」って、そう思って励む事により、悲しみを乗り越えた。
「敵にやられて死んだ」だと戦う気が失せるから、戦う気になる為の動機付けが必要で、それが、古事記に残る話なんだろう。