白馬ジャンプ台に通って、まもなく30年になる。
冬シーズンの試合を初めて観たのは、1997年1月、五輪プレ大会のW杯だった。
ラージヒルでは優勝アダム・マリシュ🇵🇱、2位葛西紀明、3位原田雅彦‥「何度でも復活します」の名言はここから生まれ、この2ヶ月後に原田は世界選手権で日本人初となるラージヒルで金メダルを獲得する。
実は前日のノーマルヒルは大雪のため中止となった。
それまではさほど興味を持っていなかった妻が、公式練習を観たら大いにハマり大会の中止を悔しがった。
大雪で喜んでいたのが当時まだ3歳だった次男の智文で、玄関先で一生懸命雪玉を作っていた。
あまりの熱中ぶりに、宿のご主人がオタマを持って助っ人となってくれた。この御主人が長野五輪の時、136m地点の飛距離判定をしていた栗田さんだ。温泉の湯も良かったし、以来、本格的に白馬で合宿するようになるまでの定宿となった。
「東京の子どもにジャンプは無理だ」と言っていた栗田さんも下川でのジャンプ体験の作文を読んでから子ども達を孫のように可愛がってくれた。
長男が高2の6月。栗田の親父さんの急逝を知った。人違いではないかと願っていたが、民宿くりたには喪中の提灯が下がっていた。
その年の秋、サマーコンバインド(ジャンプ+ランニング)で長男が夢にまで見た初優勝を飾った。しかも、後のメダリスト渡部暁斗を抑えての優勝だ。この時、私は涙が止まらず帽子で隠して意味もなく歩き回った。
その日、すぐに栗田さんの仏壇に報告に行った。よくよく考えてみると、ジャンプ台の風となって見守ってくれているんだ、と思う。
一昨年の智文の全日本選手権優勝の時は、奥様が来られて涙を流して喜んでくれたが、やっぱりあの時も見守ってくれたのだと思う。
原田の計測不能ジャンプを打ち破る大ジャンプを観てもらった。
フライングの金メダルもW杯優勝も、きっと観てくれただろう‥
でも、一番驚いているのは、雪玉づくりを手伝った栗田の親父さんだろうな。
















