五月に或る人は言った。(仮)  -133ページ目

馬鹿も使い様

どうして皆、「疲れた」とか「もう嫌」とか「眠れない」とか簡単に口に出来るのか分らない。

それならそれなりに意思表示してください。ずっと、傍にいますから。

・・・なんて、こんなこと言う私は酷です。

普通は、きっと、そんな感情が自然に薄れるのを待ちながら自分の中に抱え込み、日々、友達とだらだら喋ったりして過ごすのでしょう。何かに紛らわして。

 そんなことすらできない、あなたたちよりもっと大変な人がいるんだ、私は、どうしたら良いか分らないんだ。だからお願い。そんなことで諦めないで。

私のそんな想いは酷です。

だって重荷ってのは、人と比べられるものじゃないから。―――

 そういうこと、頭ではわかってる。

けれどやっぱりイライラしてしまう。それを笑いで紛らわそうとして、私は不誠実になる。

だからそんな私を見て、皆さん罵ってくださって結構です。

「能天気だなあ」「馬鹿だなあ」「ウザイウザイウザイウザイウザイ・・・(笑)」・・・

まだ他人を怒れる元気があること、確認して。

私にとってはそれは全部、いつも言われていることだから、なんとも。

ほら、少しだけ元気になった? ・・・ならない?  

困ったな・・・。でも、馬鹿も使い様でしょう?



書くことで確認したいのだ。

いつもギリギリの、自分の位置を。

こんな凄い子じゃないのに、

せめて文章の中でだけでも居場所を与えようとして。

・・・やっぱりほんとに馬鹿だった。

誠実 ―母へ―

誠実であれ!

純粋であれ!


どんな思いも言葉にした瞬間に

虚構が加わってしまって

私は好意に報いることが出来ない


心配されると笑いに紛らわせて済ませてしまうこの性質を

なんとかしたい


待っていてくれますか

あなたに全て話せる日が来るまで

・・・来ないと分かっていても

待っていてくれますか

私の中に在る言葉たちを

信じていてくれますか



あの場所が楽しい人などいるでしょうか

自らの感性と涙と表現を殺さねばならないあの場所

私は頭でっかちで不器用だから

そのようにしか見れないのです

楽しいのは集団の魔力でしょう

真実などそこにはなく

ただ大きな籠の自由を知る鳥だけが羽ばたいている


一人では生きてゆけないのに

このように綴る私を許してください

世界と日々

舞ったと思った小さな木の葉は蝶だった

何故か訳のわからない懐かしさに笑いがこみ上げる

これっぽっちのことに世界の美しさと

水瓶から溢れるなめらかな水のような優しさを感じる僕は

どれだけ平和な光景に飢えていると言うのか

平和で美しいはずの日々の中で

僕の小さな心は身勝手に震えているのか


何も変わっていない

何もかも変わってしまった

日々は平穏なようで奇妙 奇妙なようで平穏


さて顔を上げて歩いてみようか

この奇妙な日々を


自らの日々を舞台にあげて面白そうに眺め

世界の美しさを残すための行列に少しは加わりながら




谷川俊太郎『ジャガールと木の葉』

谷川俊太郎さんの最新詩集。幸せ。

またも最初の帯出者だった。(図書館で借りた)

それってなんとなく嬉しいもの。(単純な奴)


追悼の詩が多かったので、「時間が流れたんだなあ」としみじみ思った。

まだ十五歳で、詩に出てくる方たちと一緒に時をすごしたわけがあるはずがないのだが、そのくらい身近に感じてしまった。谷川さんの過去の詩集を読むと、どんな人だったのか、が分かる気がするからかな。実質的なことは分らなくても、その人のまわりに吹く`風´が見えるような、そんな感じがしたことを憶えている。


『夜中に台所で僕は君に話しかけたかった』とか『世間知ラズ』とかの、昔の詩集と比べてみる。こんな若輩の私がいうのは変だし凄く偉そうだけど、根底で問うていることは同じなんだけど、切実さが薄れた気がする・・・いや、それじゃ語弊があるな、なんだろう・・・うん、もう諦めて筆者の言葉を借りてしまえば、「時代を超えた時空に属している宇宙が、自分のからだとこころのうちにあると信じ」られるようになった安心感の中で、問いを発し続けているから、そんな感じがするのではないだろうか。


詩は、「出来たての詩集のページ」にあるのではなく、「ひとりで歩いている」。「賑やかな雑踏」とか、「株式引取り所のトイレ」とかに遍在しながら、「言葉じゃないものに見つかるのを待っている」。

(「」内は、『詩は―〈かっぱかっぱらったかい〉のために』より引用)

この主張って、谷川さんが、さまざまなかたちでずっとしてきた主張だと思う。この考えが凄く好き。


殆ど全部好きだけど、今回一番好きな詩はこれ。

   飛ぶ

あのひとが空を飛んだ

とうとうほんとに飛んでしまった

ほんとに飛べるなんて思ってなかった

夢見てるだけだと思っていた


あのひとは野原をゆっくりと走りだし

綿埃みたいにふわりと浮き上がり

やがて高く高く青空に溶けこんでいった

地上に残した私のことはけろりと忘れて


いつあなたは捨てたの

何十年もためこんでいたあなたの人生を

あの哀しみ あの歓び あの途方もない重みを?


私は今日も空を見上げる

花のように私は咲く

はだしの足をやさしい春の大地に埋めて

 

大切な人をなくしたのかな。

この「私」は。

ふわりふわりと空を飛んでしまった「あなた」の代わりに、

この人は、「春の大地」に足をつけ続けるのでしょうか。今日も、「空を見上げ」ながら。

  これは私の勝手な解釈なんですが、(この解釈でも良いとすれば、)谷川さんの詩の中では、こういう詩が好きなんです。喪失と恵みが同居してるっていうか、二面性があるっていうか、そういうのが好き。でも優しいのが谷川さんの凄いところ。



 詩は勿論、今回のは装丁もお気に入り。落ち着いていて、でも少し淋しそうで、一人で漂っているような。でも心の何処かではとても幸福なような・・・そんな感じがする。中身の雰囲気に合っている気がする。

著者: 谷川 俊太郎
タイトル: シャガールと木の葉

シェイクスピア全集5「リア王」 松岡和子訳


全集なのに文庫書き下ろしっていいですね。お手軽。(とか言いながら全部図書館に買って貰った(ぁ))


もの凄く読みやすい。

間柄によって、口調が砕けさせたり、丁寧に言わせたり。

人称代名詞の訳し方などにもこだわりがあって面白かったです。

註が楽しい。

当時の歴史的背景とか、性的比喩(これがねぇ、嫌な感じじゃなくて笑えるんですよ。えーっ、そうだったのか・・・、という感じで)、揶揄っぽいものの解説とか。





リア王

「ハムレット」と「リア王」がお気に入り。でも「リア王」が一位。それは多分、`母性´(の欠如)みたいなものがこの作品の根底にあるって事が、註・あとがき・解説からわかって、とても興味深かったことと、四大悲劇の最高峰と言われながら最後のほうに希望のようなものがあるってのが面白かったこと、道化がかなり出てきたこと、色んな要素が重なって重層構造っぽくなってたこと、善悪が簡単に分からないこと、などが、原因ではないかと。(多いな!)

最終的に、特に印象に残った台詞は、リアの

「可哀相に、俺の阿呆が絞め殺された!」(五幕三場)

註によれば

「阿呆(fool)」は親しい者への愛情を込めた呼び方。ここではコーディリアのことと解釈するのが最適だと思う。だが「道化(fool)」を指すとする説も少数ながらある。錯乱しかけたリアの頭の中では、彼に最も忠実だった者として道化と愛娘の姿がダブっているのかもしれない。戯曲の上では両者はけして同じ場に登場しないこともあって、この二役は同じ役者が演じたとする説もある。

とか。


好きなので連続でその話題になりますが、道化関係で興味深い文章が解説にあったのでそれを書いておわりにします。

喜劇の世界にこそふさわしい道化が今度は名前も与えられないまま、この過酷な悲劇の世界に登場してしまうこと事態が、リアの置かれるべき状況の転覆を指し示している。

 道化は、その劇的機能から言えば、主人公に影のように付き従い、運命を共にする影法師(分身)であると同時に、その鋭い洞察力によって主人公の影 (略) を明らかにする働きがある。劇中、リアがいかに愚かであるかを道化が繰り返すのは、それが道化の仕事だからだ。 (略) 一幕四場、リアは叫ぶ。


リア 誰か教えてくれ、俺は誰だ?

道化 リアの影。


(略)

リアが正気を失い、道化の言葉通り、自ら無となり影となってしまうと、リアの愚を指摘する役割を担った道化はお役御免となる。リアが狂気を自ら担う以上、道化は存在理由を失うのだ。

・・・と言う事は道化を心の中に持っている以上、狂気には陥れられないと?(あくまで希望的感想にしたい。)

道化ってのは哀しいけど、「希望」だと思うんですよ。色々な本を読んできて、理由が分からずに道化ってものが好きだったんです。それは憂いとか悲しみの中の楽観、皮肉が好きだったのではないかと、最近になって分って来ました。 (微妙な終り方!)


著者: シェイクスピア, 松岡 和子
タイトル: シェイクスピア全集 (5) リア王