谷川俊太郎『ジャガールと木の葉』 | 五月に或る人は言った。(仮) 

谷川俊太郎『ジャガールと木の葉』

谷川俊太郎さんの最新詩集。幸せ。

またも最初の帯出者だった。(図書館で借りた)

それってなんとなく嬉しいもの。(単純な奴)


追悼の詩が多かったので、「時間が流れたんだなあ」としみじみ思った。

まだ十五歳で、詩に出てくる方たちと一緒に時をすごしたわけがあるはずがないのだが、そのくらい身近に感じてしまった。谷川さんの過去の詩集を読むと、どんな人だったのか、が分かる気がするからかな。実質的なことは分らなくても、その人のまわりに吹く`風´が見えるような、そんな感じがしたことを憶えている。


『夜中に台所で僕は君に話しかけたかった』とか『世間知ラズ』とかの、昔の詩集と比べてみる。こんな若輩の私がいうのは変だし凄く偉そうだけど、根底で問うていることは同じなんだけど、切実さが薄れた気がする・・・いや、それじゃ語弊があるな、なんだろう・・・うん、もう諦めて筆者の言葉を借りてしまえば、「時代を超えた時空に属している宇宙が、自分のからだとこころのうちにあると信じ」られるようになった安心感の中で、問いを発し続けているから、そんな感じがするのではないだろうか。


詩は、「出来たての詩集のページ」にあるのではなく、「ひとりで歩いている」。「賑やかな雑踏」とか、「株式引取り所のトイレ」とかに遍在しながら、「言葉じゃないものに見つかるのを待っている」。

(「」内は、『詩は―〈かっぱかっぱらったかい〉のために』より引用)

この主張って、谷川さんが、さまざまなかたちでずっとしてきた主張だと思う。この考えが凄く好き。


殆ど全部好きだけど、今回一番好きな詩はこれ。

   飛ぶ

あのひとが空を飛んだ

とうとうほんとに飛んでしまった

ほんとに飛べるなんて思ってなかった

夢見てるだけだと思っていた


あのひとは野原をゆっくりと走りだし

綿埃みたいにふわりと浮き上がり

やがて高く高く青空に溶けこんでいった

地上に残した私のことはけろりと忘れて


いつあなたは捨てたの

何十年もためこんでいたあなたの人生を

あの哀しみ あの歓び あの途方もない重みを?


私は今日も空を見上げる

花のように私は咲く

はだしの足をやさしい春の大地に埋めて

 

大切な人をなくしたのかな。

この「私」は。

ふわりふわりと空を飛んでしまった「あなた」の代わりに、

この人は、「春の大地」に足をつけ続けるのでしょうか。今日も、「空を見上げ」ながら。

  これは私の勝手な解釈なんですが、(この解釈でも良いとすれば、)谷川さんの詩の中では、こういう詩が好きなんです。喪失と恵みが同居してるっていうか、二面性があるっていうか、そういうのが好き。でも優しいのが谷川さんの凄いところ。



 詩は勿論、今回のは装丁もお気に入り。落ち着いていて、でも少し淋しそうで、一人で漂っているような。でも心の何処かではとても幸福なような・・・そんな感じがする。中身の雰囲気に合っている気がする。

著者: 谷川 俊太郎
タイトル: シャガールと木の葉