シェイクスピア全集5「リア王」 松岡和子訳 | 五月に或る人は言った。(仮) 

シェイクスピア全集5「リア王」 松岡和子訳


全集なのに文庫書き下ろしっていいですね。お手軽。(とか言いながら全部図書館に買って貰った(ぁ))


もの凄く読みやすい。

間柄によって、口調が砕けさせたり、丁寧に言わせたり。

人称代名詞の訳し方などにもこだわりがあって面白かったです。

註が楽しい。

当時の歴史的背景とか、性的比喩(これがねぇ、嫌な感じじゃなくて笑えるんですよ。えーっ、そうだったのか・・・、という感じで)、揶揄っぽいものの解説とか。





リア王

「ハムレット」と「リア王」がお気に入り。でも「リア王」が一位。それは多分、`母性´(の欠如)みたいなものがこの作品の根底にあるって事が、註・あとがき・解説からわかって、とても興味深かったことと、四大悲劇の最高峰と言われながら最後のほうに希望のようなものがあるってのが面白かったこと、道化がかなり出てきたこと、色んな要素が重なって重層構造っぽくなってたこと、善悪が簡単に分からないこと、などが、原因ではないかと。(多いな!)

最終的に、特に印象に残った台詞は、リアの

「可哀相に、俺の阿呆が絞め殺された!」(五幕三場)

註によれば

「阿呆(fool)」は親しい者への愛情を込めた呼び方。ここではコーディリアのことと解釈するのが最適だと思う。だが「道化(fool)」を指すとする説も少数ながらある。錯乱しかけたリアの頭の中では、彼に最も忠実だった者として道化と愛娘の姿がダブっているのかもしれない。戯曲の上では両者はけして同じ場に登場しないこともあって、この二役は同じ役者が演じたとする説もある。

とか。


好きなので連続でその話題になりますが、道化関係で興味深い文章が解説にあったのでそれを書いておわりにします。

喜劇の世界にこそふさわしい道化が今度は名前も与えられないまま、この過酷な悲劇の世界に登場してしまうこと事態が、リアの置かれるべき状況の転覆を指し示している。

 道化は、その劇的機能から言えば、主人公に影のように付き従い、運命を共にする影法師(分身)であると同時に、その鋭い洞察力によって主人公の影 (略) を明らかにする働きがある。劇中、リアがいかに愚かであるかを道化が繰り返すのは、それが道化の仕事だからだ。 (略) 一幕四場、リアは叫ぶ。


リア 誰か教えてくれ、俺は誰だ?

道化 リアの影。


(略)

リアが正気を失い、道化の言葉通り、自ら無となり影となってしまうと、リアの愚を指摘する役割を担った道化はお役御免となる。リアが狂気を自ら担う以上、道化は存在理由を失うのだ。

・・・と言う事は道化を心の中に持っている以上、狂気には陥れられないと?(あくまで希望的感想にしたい。)

道化ってのは哀しいけど、「希望」だと思うんですよ。色々な本を読んできて、理由が分からずに道化ってものが好きだったんです。それは憂いとか悲しみの中の楽観、皮肉が好きだったのではないかと、最近になって分って来ました。 (微妙な終り方!)


著者: シェイクスピア, 松岡 和子
タイトル: シェイクスピア全集 (5) リア王