●ドキュメント東京電力企画室 @田原総一朗 | ★50歳からの勉強道~読書録★

★50歳からの勉強道~読書録★

本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

日本で最初に作られた電力会社は
東京電力の前身「東京電燈会社」明治16(1883)
エジソンが白熱電灯の実用化に成功(1879)
してから、わずか4年後だ。


スタッフ11人の最初の仕事は
鹿鳴館に白熱電燈をつけたこと。
そして首相官邸(伊藤博文)の仮装舞踏会、
外務大臣邸(井上馨)での団十郎天覧歌舞伎。



電気の需要は日清・日露戦争の好景気で伸び、
すわ有力産業!・・と電力会社は乱立し
大正の終わりには738社もあったそうな。






この混沌からダンピング合戦、過当競争を
九州から中国、関西へと攻め上ってきたのが
「電力の鬼」松永安左エ門!


「東京電燈」に対し「東京電力」なる紛らわしい
新会社で、一夜にして強引に電柱立てちゃう!
・・なんて、どぎついやり口で吸収した。

松永安左エ門は福沢諭吉門下で、
娘婿の福沢桃介とも電力仲間だ。






この「電力王」松永安左エ門の懐刀として
東電を運営していくのが、木川田一隆で、
描かれるのは、二人が動かす電力会社側と
電力を国家管理したい通産省の熾烈な争い。


木川田一隆元東電社長。
出身地の福島に原発誘致。






電力の歴史もまた、戦争なしには語れないん
だなぁ。。ということを痛感する。。



昭和12年に日中戦争勃発すると、
翌13年電力国管法、国家総動員法成立、
14年(1939)、日本発送電会社が創立する。


電力国管法によって、電力会社は配電だけを
する会社となり、発電所や主要な送電線の
設備は、この国策会社に奪われたんだ。



◆「お役所仕事で電力事業などできる訳ない」
(*`Д´)ノ!!!
◆案の定、停電は頻発し、挙げ句
電力消費規制・・って、国家権力発動かっ!
◆近衛内閣の昭和研究会、大政翼賛会だって
平和推進のために「統制」を提唱したのが、
逆に戦争に向かう原動力になったんだろっ!


・・と、東電の「管理アレルギー」は根深い~~
これがこの先も重要なキーポイントになる。


日本発送電が最後に完成させたのが
高知県吉野川の長沢ダム1949




戦後、GHQの後押しで通産省ができ、この
日発が解散すると、隠遁中の松永安左エ門を
白洲次郎が引っ張り出し、民間による
九電力編制を創り上げる。国に遺恨を晴らす
見事な豪腕に、白洲も圧倒されたという。




だが、九電力体制の外に通産省が巧みに一つ
残した、電源開発株式会社。(電発)
ここを反撃の砦に、「電力の自立」を掲げる
東電との争いはさらに続く・・道具は原子力。


銀座の電源開発本社  「でんぱつ」 「J-POWER」





日本の原子力発電のルーツは、戦犯が収容
されていた巣鴨プリズンにあるという。


のち、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一など
日本再建の表と裏で連繋する、怪しげな人脈
の中、元大政翼賛会事務総長の後藤文夫が
巣鴨プリズンで原子力の電力開発を知る。


これを聞いて実践、民間企業を大同団結する
原子力産業会議を発足したのが
「日本原子力界の陰の首領(ドン)」 橋本清之助

巣鴨プリズン1945




以後、原子力の主導権争いに関して
アイゼンハワーの「雪どけ」声明(1953)
第五福竜丸、1954
鮭缶と原子炉のバーター取引、1957
資源エネルギー庁、原子力産業室1973
核燃料サイクル戦争、原子力の国産化、
電源三法1974、幻のMA-T計画1976、
ソフトエネルギーパス
バカチョン原子炉(簡易な小型原子炉構想)
代替エネルギー公団構想・・など、




衝撃的な話てんこ盛りの中、
第一次1973第二次1979、オイルショックの時
実際は石油の輸入量は減っておらず、
OPEC(石油産出国)と
メジャー(巨大石油会社)の争いによる、
いわば「メジャーショック」に踊らされただけ
だった、という事実は、文字通りショック。

1957年、日本最初の原子炉JRR-1 東海研究所





世間一般や記者たちは、電力会社と
ノートリアスMITI(悪名高き通産省)の戦いの
構図ばかりを喧伝するけど、、読んでみると


両者ともに原子力の危険を警戒してるし、
特に通産省は早くから長期エネルギー計画に
着手していて、原子力は単なるつなぎだ、
太陽光など自然エネルギーを急がねば!

もうどっちが先でも関係ない、日本の将来が
かかっているのだ!!という熱意に驚いた。
切迫感が両者に協調を生み始める、1980年。



なのに、この本から既に40年。
不幸な事故を経験し、ようやく止まった
原子炉を、また稼働させなきゃならない実情
は、なんとしたことか。

福島原発事故を受けて、再版されている。
前書きで田原さんは、この事故は本当に
予想外だった・・・と自戒を込め告白している。