玄奘三蔵の本名は、陳褘(ちんい)。
西遊記の主役だけど、隋の時代に生まれ、
唐の太宗の庇護を受けた実在の人だ。
玄奘の父、陳恵さんは長身で眉目秀麗な
人気者だったというし、祖先である
後漢時代の陳寔(しょく)さんは、一介の県長
なのに、葬儀に三万人も集まったという
伝説の人気者。人徳者なのだー(^^)
現在でも多くの陳さんが陳寔の子孫を称し、
著者の陳舜臣先生もその一人。
ということで、千三百年後の陳先生が
御先祖玄奘三蔵さんの足跡を辿る旅、
三蔵法師って、リアル歴史の偉人なんだな~
さらにリアルなことに、玄奘の青年期は
政争、宗教論争の真只中。
長安では太宗李世民によるクーデター、
玄武門の変を体験している。
前年に高祖李淵は、「三教」の序列を、1老子
2孔子、3釈迦と定め、仏教は排斥される。
でも李世民は直ちに廃仏令を取り消したんだ。
当時、仏教は異国の宗教として敵視された。
日本の飛鳥時代と同じなんだなぁ。
実は李世民も、仏教は政体を乱す元だ、と
思っていたけど、国家建設の新たな活力
として利用した、ということらしい。
玄奘は間もなく国禁を侵し、西域に出発する
んだけど、旅の最中、李世民の威勢のお陰で
仏教は国教の様相を呈し、唐の西域支配は
進み、どんどん旅がしやすくなっていく。
だから、密出国したにも拘わらず、各地で
国賓待遇を受けたし、17年後に帰着した際は
唐でも大歓迎された。もう李世民様々だね。
かよう、権力にすり寄った・・という批判も
されるらしいけど、多くの民を救済するべく
仏典を翻訳し、筆写することは、金のかかる
国家的事業なので、これで良いのだ。きっと
そもそも玄奘インド行きの目的は、最先端の
ナーランダー学院で学ぶこと。
新しい仏教の傾向である「唯識論」に傾倒し、
教義上の疑問を解決する必要があったんだ。
「あらゆる存在は、心の働きで作り出された
影像にすぎない。即ち仮の存在である。」
AD.3~4世紀にヨーガの修行僧から誕生し、
「空観」に立つ般若教の思想の流れの上にある。
ただ玄奘の当時、すでに釈迦が悟りを開いた
菩提樹は、イスラムやヒンズーの破壊に遭い
教義も枝葉末節に走り、衰頽しつつある。
玄奘は10年以上インドで学び、学林随一の
英才となったけど・・最も尊崇する100才近い
戒賢法師から、帰国を勧められたという。
これは、160年後の恵果が、中国における
密教の衰亡を予見して、東海の国から来た
空海に全てを伝え、阿闍梨位を授け
帰国させたのと、とてもよく似ているのだ。
今回、陳先生が訪れたナーランダーには、
学生寮や食堂などの建物だけが残り、近くの
「玄奘記念館」は、中味が空っぽだったし、
今のインド人は仏教を、ヒンズーの一派、
位にしか思っていないとか。寂しいなぁ。
それにしても、火焔山は実在するんだなぁ。
高山病になる「大頭痛山」では、悟空の頭の
輪っかみたいに、頭締めつけられただろう。
帰りは象に経典を運ばせたけど、盗賊に遭い
河で溺れ死んじゃった・・・って、
やっぱ物語みたい。
三蔵とは
経→(仏陀の言葉、それに準じるもの)
律→(僧侶の生活に関する規則)
論→(経や律についての注釈、論文など)
の三部門に秀でた人の意味。
だから有名な高僧は皆、三蔵と呼ばれたし、
空海も「日本国三蔵空海上人」と尊称された。