●天竺への道 @陳舜臣 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

玄奘三蔵の本名は、陳褘(ちんい)。
西遊記の主役だけど、隋の時代に生まれ、
唐の太宗の庇護を受けた実在の人だ。


玄奘の父、陳恵さんは長身で眉目秀麗な
人気者だったというし、祖先である
後漢時代の陳寔(しょく)さんは、一介の県長
なのに、葬儀に三万人も集まったという
伝説の人気者。人徳者なのだー(^^)


現在でも多くの陳さんが陳寔の子孫を称し、
著者の陳舜臣先生もその一人。

ということで、千三百年後の陳先生が
御先祖玄奘三蔵さんの足跡を辿る旅、
三蔵法師って、リアル歴史の偉人なんだな~






さらにリアルなことに、玄奘の青年期は
政争、宗教論争の真只中。
長安では太宗李世民によるクーデター、
玄武門の変を体験している。


前年に高祖李淵は、「三教」の序列を、1老子
2孔子、3釈迦と定め、仏教は排斥される。
でも李世民は直ちに廃仏令を取り消したんだ。

唐の太宗・李世民




当時、仏教は異国の宗教として敵視された。
日本の飛鳥時代と同じなんだなぁ。
実は李世民も、仏教は政体を乱す元だ、と
思っていたけど、国家建設の新たな活力
として利用した、ということらしい。


玄奘は間もなく国禁を侵し、西域に出発する
んだけど、旅の最中、李世民の威勢のお陰で
仏教は国教の様相を呈し、唐の西域支配は
進み、どんどん旅がしやすくなっていく。





だから、密出国したにも拘わらず、各地で
国賓待遇を受けたし、17年後に帰着した際は
唐でも大歓迎された。もう李世民様々だね。


かよう、権力にすり寄った・・という批判も
されるらしいけど、多くの民を救済するべく
仏典を翻訳し、筆写することは、金のかかる
国家的事業なので、これで良いのだ。きっと

著書「大唐西域記」




そもそも玄奘インド行きの目的は、最先端の
ナーランダー学院で学ぶこと。
新しい仏教の傾向である「唯識論」に傾倒し、
教義上の疑問を解決する必要があったんだ。



唯識の概念。難しい。

「あらゆる存在は、心の働きで作り出された
  影像にすぎない。即ち仮の存在である。」
AD.3~4世紀にヨーガの修行僧から誕生し、
「空観」に立つ般若教の思想の流れの上にある。





ただ玄奘の当時、すでに釈迦が悟りを開いた
菩提樹は、イスラムやヒンズーの破壊に遭い
教義も枝葉末節に走り、衰頽しつつある。


玄奘は10年以上インドで学び、学林随一の
英才となったけど・・最も尊崇する100才近い
戒賢法師から、帰国を勧められたという。


これは、160年後の恵果が、中国における
密教の衰亡を予見して、東海の国から来た
空海に全てを伝え、阿闍梨位を授け
帰国させたのと、とてもよく似ているのだ。

菩提樹は幾度も破壊され、燃やされ、根腐れ
の薬を撒かれ、、でも芽を出し、復活した・・





今回、陳先生が訪れたナーランダーには、
学生寮や食堂などの建物だけが残り、近くの
「玄奘記念館」は、中味が空っぽだったし、
今のインド人は仏教を、ヒンズーの一派、
位にしか思っていないとか。寂しいなぁ。




それにしても、火焔山は実在するんだなぁ。
高山病になる「大頭痛山」では、悟空の頭の
輪っかみたいに、頭締めつけられただろう。

帰りは象に経典を運ばせたけど、盗賊に遭い
河で溺れ死んじゃった・・・って、
やっぱ物語みたい。

ここには芭蕉扇を持つ悟空の碑もある。




三蔵とは
経→(仏陀の言葉、それに準じるもの)
律→(僧侶の生活に関する規則)
論→(経や律についての注釈、論文など)
の三部門に秀でた人の意味。

だから有名な高僧は皆、三蔵と呼ばれたし、
空海も「日本国三蔵空海上人」と尊称された。