●黙阿弥 @河竹登志夫 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

河竹黙阿弥は、江戸末期から明治にかけて
の狂言作者。つまり「歌舞伎の脚本家」で
現役名は、二代目「河竹新七」という。


この時期、他に高名な作者は無く、
正に歌舞伎界の大黒柱。世話物、白浪もの
で人気を博し、私もTVで「三人吉三」を観た時、余りの面白さにビックリしたっけ。

カバーは黙阿弥が父の五十回忌に配った
浴衣の模様、「五十(いそ)の浪」。
白浪作者から「五十」を「磯」に見立てた。






黙阿弥と名乗るのは、明治14年の引退後
なんだけど、「●阿弥」は、一遍上人の時宗の
名前なので、ちゃんとココ藤沢の清浄光寺
(遊行寺)に来て、授かったそうだ。(^^)v


この「黙」の字には意味があり、この本では
通説よりもさらに深い、黙阿弥の秘めた
想いを探る。血縁こそ無いものの、河竹家を
継いだ曾孫であり、演劇評論家の登志夫さん
ならではの研究考察は、とても貴重。






なんだけど、それより興味深いのは
歌舞伎の地位の低さと、その変遷!
将軍や大名お抱えの「能」とは、扱いに
雲泥の差があったんだなあ。

七代目團十郎→五代目海老蔵に。今と逆だー




天保の改革では風紀を乱す元凶とされ、
江戸三座は埋立て地に強制移転(猿若町)、
関係者は一般人と交わらぬよう、
芝居小屋の近くに住むべし。


外出時に編笠を被らない役者は召し捕られ
一匹、二匹、と数えられた。ひどいもんだ






維新で自由になるかと思いきや、新政府は
歌舞伎を娯楽から、「教化の具」とする。


貴人や外国人が見物するので、親子で見るに
耐えないような場面を禁じ、羽柴秀吉を
「真柴」とかにするのも、子供が誤って覚える
からダメ、狂言綺語(虚構)もやめよ、と。


「散切物」(ざんぎりもの)というやつで、
文明開化の風俗を登場させ、
お金は両じゃなく円、時刻は何時何分、
衣装は洋服。
大衆劇作りのプロ黙阿弥は、そんな世相をも
反映し、書き続ける。多少皮肉まじりに。。






さらに演劇界に親しい医師、松本良順の
紹介で大久保利通、伊藤博文、福地桜痴ら
政府高官も介入する。。歌舞伎の地位は
高まったけれど、芝居界は上流化され、
高尚まじめ、史実尊重の芝居が至上命令に。


伊藤博文の婿、末松謙澄が中心となって
「演劇改良運動」も始まり、
これの極みが、明治20年、井上馨の私邸で
行われた、「天覧歌舞伎」。


各国公使も招待され、社会の底辺だった
歌舞伎は、「条約改正の為の洋化政策」を
推進する、政治の道具にされてしまった。

天覧歌舞伎。「勧進帳」





ところが、天覧歌舞伎と併せて行われた、
仮装舞踏会でのスキャンダルが報道されると
これを口火に第一次伊藤内閣は崩壊、
鹿鳴館時代は終わり、演劇改良会も消滅する。


その後、演劇改良は別の流れとなって
帝国劇場建設、女優の登用、新派、新劇
などの、セリフ劇を産むに至る・・・


福地桜痴は現在に繋る「歌舞伎座」を建設。
お蔭で歌舞伎は妙ちくりんな洋化を免れ、
旧路線に復したわけで、伊藤博文の女グセの
悪さに感謝・・・・かな?  (^^;

明治22年。第一期の歌舞伎座誕生。




歌舞伎って、政治の影響をずーっと色濃く
受け続けてきたんだなぁ。


官憲学者らド素人に、脚本を勝手に添削され
たり、無理難題の注文をされたりしても
全てに耐え、求めを受け容れ書き続けた。


色々説はあるけれど、これはもう、
どう考えても、崇高なる「黙阿弥」だ。