●ふぉん・しいほるとの娘(上・下) @吉村昭 | ★50歳からの勉強道~読書録★

★50歳からの勉強道~読書録★

本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

シーボルトがまじでクソ野郎な件について。         (^w^)



本当はドイツ人のシーボルトが、オランダ
商館付きの外科医として来日した目的は、
「政府から依頼された、日本の国情調査。」  


文政6年(1823)当時、日本はまだガチ鎖国で、 外国人は長崎の出島から一歩も
外へ出られないんだけど、、、
シーボルトの外科手術や医療知識は
日本人の絶大な尊崇を集め、一人、
外出診療を許されて、鳴滝に塾まで開く。


シーボルトは、この特別待遇を大いに利用し
しかも相当貪欲に、日本を調査する。
完全に医療行為は、二の次なわけさ。







ヒドいなー。。と思ったのは、オランダ語の
学習と称して、塾生に論文をどっさり書かせ
たこと。与えたテーマは
日本の産科について、年代別の病気、
季節の病気、平均寿命や男女の人数、
地域の特長、捕鯨の実状・・?  なんだそれ


塾生は、こぞって素晴らしい論文を提出し
シーボルトは「免状」を与えて、賞賛する。
労せずして様々な情報をゲットする、
ウマイ手を考えたもんだ。ぶひ。


秘かに猟師を3人も雇って、動植物の採取も
してたんだよ。



フィリップ・フランク・フォン・シーボルト






商館長のお供をした江戸の旅は、またとない
チャンス!地勢、産物、風俗、気象、水質・・
と精力的に調査し、勝手にあちこち
測量もする。見咎められても
「天文ノ機械デ、時刻ヲ測リマス。」
六分儀を知らない役人は、簡単に騙された。


シーボルトの名声は江戸にも聞こえ、
本当に尊敬されていたんだ。特に
「珍品を贈ると、とても喜ぶ」ので、それは
もう、オ・モ・テ・ナ・シの嵐だったわけ。

長崎のシーボルト通り。





でもシーボルトには、もっと欲しいモノ
があった。葵の御紋の羽織と、地図。
この御禁制の品については、「強引に自ら」
要求している。ひどいなぁ。


幕府天文方の高橋作左衛門影保は、貴重な
洋書と引き換えに、、眼科医・土生玄碩は
瞳孔散大薬の知識と引き換えに、、、


シーボルト事件で、高橋作左衛門は獄死したし、土生玄碩は改易蟄居、その他助手や
通訳、塾生など、多くの親しい人達が
拷問され、遠島など刑罰を受けた。


それを知りながら、シーボルトは
シラナイ、ワスレタ、とトボけ、地図を
隠し続けた。もー打首獄門でしょ。

丸山の遊女からシーボルトの妻となった、滝。女医楠本イネを産む。





一応「永久追放」されたシーボルトは
世界に二人といない 「日本通」 として
名を馳せる。そりゃそーだ。
みーんなで親切に教えてあげたんだからさ。


30年後に再来日するんだけど、、当初は
なんと、ペリーの黒船に同乗するつもり
だった! 自分を顧問として採用しろ、と。


これはペリーがオランダに主導権を渡したく
ないので、断った。すると直ちに
ロシア政府に手紙と「日本の地図」を送り、
様々助言する。シーボルトは日本の平和的
開国に、中心となって関わりたかった。

シーボルトの娘、稲。
宇和島藩主伊達宗城が、「楠本伊篤」の名を
つけてくれた。優しいわぁ。





結局、ペリーの6年後、オランダ貿易会社
顧問として来た、63才のシーボルト。


本当は「駐日大使」の地位が欲しかったようで
幕府の相談役として重用されると、
派手に活動して、各国公使の反感をかう。


遂には 「過去の栄光をひけらかす厄介者」
扱いされて、解雇、帰国命令。。
通訳を務めた、三瀬周三(孫娘の婚約者)は
とばっちりで投獄されるし、マジ疫病神。


しかもこの滞日中、2人の若いお手伝いに
手をつけ、子供まで作ったので、元妻や娘は
大いに幻滅。。。あっちもこっちも
ヤル気満々シーボルトは、家族からも
国からも、見放されてしまった。


若い頃から尊大で、同僚から嫌われていた・・
と、吉村さんの筆も冷たいけど、
私もGet out!と思ったよ。

稲の娘、タカ。→高子
楠本イネは結婚しなかったけど、シーボルト
の弟子・石井宗謙に犯され、子を産んだ・・





あ!大事なことを。。楠本イネさんは
シーボルトの弟子、二宮敬作に指導されて
日本初、産科の女医になった。


診察を恥ずかしがって、医者にかからず
死んでしまう女性患者を無くす為に、
貴女が頑張りなさい、と。偉いわぁ。



二宮敬作