●名をこそ惜しめ~硫黄島魂の記録 @津本陽 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

硫黄島は文字通り硫黄が噴出する火山島で、
小笠原諸島の南端にある。


只今噴火成長中で話題の西之島から南へ→
父島→母島→硫黄島、、
なんと東京都なんだね!    ( ゜o゜)


とはいえ草木も生えぬ荒地、真水は無く、
地熱は50度。なぜこんな過酷な所で戦闘が
行われたのか・・・?


米軍が欲したのは日本軍が造った飛行場。
B29が日本の都市爆撃行うための中継基地
として、必要な島だったのだ。


つまり硫黄島を守ることは日本を守ること。
少しでも長く米軍を足止めする!
それが硫黄島守備隊の死命。






硫黄島決戦が行われたのは昭和20年(1945)
2月~3月。

前年7月サイパン陥落し、10月レイテ沖敗戦、連合艦隊は壊滅し、海空共に硫黄島への
援助には、もう来られない。


そんな玉砕覚悟の島に、なんと二万もの
兵が集められた。隊長は映画「硫黄島からの
手紙」のモデルとなった栗林中将だ。


小笠原方面陸海軍最高指揮官、栗林忠道。




栗林中将はサイパンの失敗例から水際作戦を
やめ、地下陣地での徹底抗戦を決める。


米軍をあえて上陸させ、至る所でのゲリラ
攻撃で敵の出血を強いる。バンザイ攻撃は
一切行わず、決して無駄死にをするなと。

日本軍は3本の飛行場を造っていた。




兵士たちの士気も凄い。どうせ死ぬなら
一人でも多く道連れにしてやろう!
一人十殺。むざむざ殺られてたまるか。


真水が飲めない過酷な環境で、この士気も
凄いけど、造った地下壕がまた凄い。
全長18キロメートル、なんと三層構造で
重要部の壁は厚さ1メートルもある。


設計も巧妙で、1トン爆弾が落ちた時も
通信室では将棋の駒が倒れただけだった、
というから、ここにも光る日本人の匠。

摺鉢山への攻撃は熾烈だった。




対する米軍兵力11万。
火力はなんと、日本の3500倍。!Σ(×_×;)!


硫黄島には炎熱の地下壕で火炎放射器に
焼かれ、手りゅう弾で自決、、という
日本兵の悲惨なイメージがつきまとう。

だけど、、


硫黄島は米軍にとっても、地獄だった。
戦死6800名。損害は日本より多かった!!
22000名の戦傷者の9割が重傷、という異例さで、その酷さに軍医が驚くほどだった。

摺鉢山のてっぺんでは数日間にわたり、
星条旗と日章旗が入れ替わった。





結果的に、栗林中将の作戦は成功したと
言えるのではないか。


栗林自身は3月26日、白襷で400人を率いて
敵幕舎を急襲、3時間の死闘で甚大な損害を
与え、戦死する。   しかし、、


日本軍の戦死者は全体の約3割にすぎず、
玉砕が発表された後も、地下壕にはなお
一万以上が生き残っていたという。


5月13日まで生き残っていた工兵の一団を含め、壕内で自殺した者は一万名前後になると
推測される、、そうだ。


大本営から「みんなやめろ」という命令が
出ていれば、一万人は助かったのではないか、、と述懐する元司令官もいる。


今でも硫黄島の地下壕には12000人もの
英霊が眠っているのだなあ。。    合掌。



今では自衛隊の基地がある。