●天璋院篤姫(上・下) @宮尾登美子 | ★50歳からの勉強道~読書録★

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本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

篤姫さんは、安政3年(1856)
第13代将軍徳川家定の3人目の妻となる。


結婚生活1年7ヶ月で家定が死去。


篤姫23才。
以後、天璋院と称し大奥にあって
第14代家茂の養母となり、そこへ
皇女和宮が降嫁、姑となるわけだ。






姑・天璋院は、薩摩の田舎大名
島津家の出身、しかも分家の娘だ。
対する嫁・和宮は、現孝明天皇の実の妹。


そこで始まる大奥バトル。
どっちが上座?挨拶の順番は?
姑の用意した調度品は京風じゃないから
使えない!
   

  「おや、この可笑しなお道具は
     みなみな片付けて頂かされ~」


大奥が大いなる無駄使いの巣窟で
あることがよくわかる。

揚州周延     「千代田の大奥」





“京都千年の都” 攻撃!   に
大奥 がっちゃがちゃ~。は当然だけど、
それそのまま、幕府の混乱そのもので。


結果、14代家茂はわずか21才で死去。
15代将軍となった慶喜は
あっという間に一年で大政奉還だ。


徳川征討軍は二人の実家、薩摩と皇室。


共に政治の道具として使い捨てられた
同じ身の上。。 篤姫は潔く、和宮は
泣く泣く、、諦めるしかなかった。


皇女和宮




その後も徳川の嫁として生きた二人。
和宮32才、篤姫48才で死去するまで
江戸に住んだ。


維新後は一転、仲睦まじくなり、
勝海舟宅で遊んだりしているが、
今でも京都では、和宮をイジメた天璋院は
たいそう嫌われてるそうな。こわいよねー


さらに篤姫は、夫 家定と  家茂が
一橋慶喜サイドに毒殺されたと信じていて

以後徳川宗家は、慶喜の一族と婚姻しない
ように固く遺言している。あぁこわい。



天璋院篤姫




争いついでに、、将軍薨去の際には
芝の増上寺と上野の寛永寺が、毎度
熾烈な墓所争いするんだって。


結果、増上寺に6人、寛永寺に6人の
将軍が埋葬されており、
家定と天璋院は寛永寺
家茂と和宮は増上寺にいる。



怖や怖や。大奥バトル、寺バトル。
徳川、島津の毒殺サバイバル。
寒気はするけど、、、暑すぎて効果なし。 
 (´д`|||)


あおいちゃんは可愛い。