ペリー来航後、ロシアのプチャーチンと
1854年日露和親条約を締結した、
幕末きっての名官吏。
礼儀正しく、粘り強い交渉で
“樺太現状維持”など、国益を守った
「理想の外交官」
秘書官ゴンチャロフも
「彼の一言一句、一瞥、物腰まで全てに
良識と機知と炯眼と練達を顕していた」
と、手強かった交渉相手を賞賛する。
吉村昭さんは、この人の卓越した功労と
優れた人間性をとても尊敬し、
迷うことなく小説の題材に選んだそうだ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150713/08/yume-nomata-yume/48/eb/j/o0720096013364494456.jpg?caw=800)
川路は洋学研究集団である「蛮学社中」の
一員で、蛮社の獄で処分された渡辺崋山、
高野長英や、韮山反射炉の江川坦庵とも
親しい開明派。
でも生活は質素、一汁一菜、公務期間中は
禁酒。そんな“質実剛健”を、今回も
吉村先生がたっぷりと徹底密着レポ。
敬愛ぶりが伝わるなー(^з^)-☆
詳細な記録を読むと、幕府の命で
長崎へ江戸へ下田へ京都へ江戸へ下田へ、、、雨だろうが槍だろうが全速力!
ほんとに昔はタイヘンだ!
川路聖謨53歳。
毎朝欠かさず行う、早足歩行訓練は、
間宮林蔵に倣って夏は裸足!足の裏が柔らかくならないようにね。&甲冑着用!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150713/08/yume-nomata-yume/59/f9/j/o0179020313364494459.jpg?caw=800)
日露和親条約の交渉中は、下田を大地震と
津波が襲い、下田の町は壊滅し、
ロシア船ディアナ号も沈没!
そりゃあもう、タイヘンだったのだ。
計らずも日露双方が助け合うことに!
「魯人は死なんとする人を助け、
厚く療治の上、按摩までするなり。
助けられし人々、泣いて拝むるなり」
川路聖謨「下田日記」
そして数日後、戸田港で沈没したディアナ号から船員を全員救助し、暖をとらせ
着物や食料を提供した地元民たち。
ロシアの航海誌には、
「誠に善良な、博愛の心に満ちた民衆よ!
この善男善女に永遠に幸あれ!」 と。
現代と変わらぬ交流が行われていたんだ。
安政元年。まだ吉田松陰も生きている
頃で、、、全国的には攘夷思想だけど、
現場にいればこの通り。。( ゜o゜)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150713/08/yume-nomata-yume/5a/f5/j/o0320039413364494467.jpg?caw=800)
川路は安政年間の将軍継嗣問題で
一橋慶喜擁立派であったため、
井伊の大獄で謹慎処分となってしまう。
その後病臥。
一橋慶喜が将軍職を放棄したこと、
さらに江戸開城を悲観する余り、切腹の上
自ら拳銃で命を絶つ。
日本でのピストル自殺第一号、
なんて言われるようだが、
幕府は彼の“全て”だったんだ。。。
真面目で実直。妻を心から愛し、
ユーモアにも富んでいた、という川路。
プチャーチンは「川路はヨーロッパでも
珍しいほどのウィットと知性を兼ね備えた人物であった」 。。と。 (^o^)v
日本人の誇りと美徳を、
余すところなく国外に示し、
幕府に殉じた、隠れた英雄。
心からの敬意を表しまする。(`◇´)ゞ
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でっかい抹茶ミルクを飲んだんじゃ。80
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150713/08/yume-nomata-yume/28/32/j/o0720096013364494473.jpg?caw=800)