●雄気堂々(上・下) @城山三郎 | ★50歳からの勉強道~読書録★

★50歳からの勉強道~読書録★

本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

日本資本主義の父と言われる渋沢栄一は
設立した企業500、関係した公共・社会事業
600、近代日本の無数の礎石を築いた
偉~いお方なのだ。(^ー^)


ところが元はバリバリの幕末攘夷志士。


農民→お尋ね者→幕臣→大蔵官僚→実業家
結果、現在東京のあちこちに銅像が、、
という、秀吉クラスのサクセスストーリー





渋沢栄一は天保11年(1840)
埼玉県深谷市の藍玉・養蚕農家に生まれた。


幕末攘夷思想のまっただ中。
栄一も農閑期に江戸へ遊学しては
北辰一刀流道場へ通い、
ついには地元仲間と高崎城乗っ取り!
からの~横浜焼き討ち!を計画する。


ところが天誅組の壊滅や京での長州藩失脚
を知り、直前に中止。逃亡!!


縁あって、一橋慶喜の側近、平岡円四郎の
家来となり逮捕を免れる。( ̄▽ ̄)=3
元治元年(1864)    25歳。


一橋慶喜は当時、将軍後見職で攘夷志士の
希望の星。栄一は慶喜を戴いて
天下に号令するべく、
一橋兵力の増強に奔走したんだ。


護衛についた新選組の近藤勇を押し留め、
死を覚悟して危険を冒したこともあり、
慶喜にも認められる存在となる。さすが。


ところが二年後、当の慶喜が将軍になって
しまって、さあタイヘン!
倒幕どころか、自分がいる所が幕府になった。自分は幕臣。なんたることか。






もう生きている甲斐がない、、

と思った矢先、フランス博覧会への
お供を仰せつかり、幕末維新の動乱期に
まるまる日本を離れる。


ラッキーだねぇ。
日本に残った養子も従兄も義兄も
彰義隊に加わり辛酸を舐めたんだ、、、


2年間フランスにいて帰国したのは
明治元年11月。
慶喜が隠居する静岡へ帰ったが、
出仕は辞退。。   その代わり
フランスで見てきた実業家の世界に転身し、
商法会所を作り、民業の側面から
静岡藩財政難を救済することになる。


すると、手腕を見込まれ大隈重信から
声がかかった!
「日本国の経済の仕組みを作ってほしい」


かくして渋沢租税正(そぜいのかみ)が誕生。
なんと新政府の高官になってしまった! 
 明治3年。31歳。


元気な若者たちの頭脳が、新制度を立案
する。大隈重信、伊藤博文、前島密・・・

税制、貨幣制度、全国測量、度量衡、
駅逓法、鉄道敷設、郵便事業、、、
いっぱいやった。でも活発すぎて、、


江藤新平と衝突。コンビで頑張ってきた
井上馨と共に辞表を叩きつけ、
政府を去って実業家に戻る。明治6年。





その後実業家として、株式会社を組織し、
銀行を改革し、商工会議所を作ったり、
その功績は数知れず、、


経済界の“仁義なき戦い”もやったるで~。
三菱の岩崎弥太郎とは海運で徹底抗戦!
生糸外商との「横浜大戦争」に勝利した。


反面、「時の氏神」と呼ばれ、
もつれにもつれた事件が、栄一によって
よく解決する。とにかく明るく公平で
誰からも好かれる性格なんだ。(*^^*)


亡くなったのは昭和6年。91歳。
江戸~明治~大正~昭和。
文字通り命を張って、
幸運を掴み取り、人にも分け与えた人生。


銅像を見かけたら拝むべし。
かなり、ご利益ありそうだ。