うーん、傑物揃いの幕末史の中、
またもやスンゴイ人物発見!
この人相当ユニークだわー!
第15代将軍徳川慶喜。
父は水戸の烈公 徳川斉昭。
母は正妻である有栖川宮家の吉子さま。
一橋家に養子に出たのは、慣例として
水戸家から将軍には立てないからだ。
小さい頃からそれはそれはタイヘンに
将来を嘱望され、家康公の再来やら
救国の主やら、世上の評判ひとり歩き。
一部幕閣から草莽の攘夷志士に至るまで
その期待たるや、ほぼ信仰に近いものが
あったという。
あの安政の大獄だって、実は将軍継嗣で
徳川斉昭 ( 一橋慶喜擁立=攘夷)
VS
井伊直弼 (紀州慶福擁立=開国)
の争いなわけで。 そして
井伊大老は斉昭派に暗殺されるわけで。
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そしてついに、文久2年(1862)
将軍後見職として政治表に出たのが25才。
ところがですよ。
この尊皇攘夷総本山たる水戸家に育った
烈公斉昭の秘蔵っ子が、何を隠そう
バリバリの開国論者だった!
という、大!ドン・デン・返ぇし~!
「攘夷なんかできるか!」 (`へ´*)ノ
そうです、彼は旧体制である幕府トップにあって、実は勝海舟、坂本龍馬並みの
先見の持ち主だったのです。
それゆえか「得体の知れぬお人」
と言われ、良くも悪くもエピソード満載。
禁門の変では戦禍の真っ直中に斬り込んだ!こんな将軍他にはいないぜ。
酔ったふりして公卿や藩主を面と向かって
罵倒。言うだけ言って寝てシカト。
兵庫開港に反対する朝廷に乗り込み、公卿らを20時間缶詰め、喋り倒して屈服させる。
鳥羽伏見では、勝てぬ、と判れば
兵士たちに「出陣だ!」と号令だけして
素早く江戸まで逃げちゃった、とか。
慶喜が将軍位に就いたのは、ラストの僅か
一年なのだが、如何なる大名や公卿も議論で勝てる者は無く、天下第一の弁論家。
恐るべき将軍とされた。
桂小五郎いわく、
「彼の胆略は家康の再来を見るが如く。
彼が敵である以上、余程腹を決めねば
薩も長も千仭の谷に落とされるだろう」
大政奉還のとき30才位。
以後、絶対恭順を貫き、身分も無く
旧臣とも会わず、明治天皇に謁見したのは
維新30年後の62才の時だった。
大正2年没。
こんな強烈な千両役者が将軍だったとは!
興味津々。幕末は深い。深すぎる。