泣いて、叫んで、苦しんで。
泣いて、叫んで、苦しんで。
そして、もう一度、泣いて、叫んで、苦しんで。
ここまで来たら、あなたはどうする?
もう一回、泣いて、叫んで、苦しんでみる?
それとも、立ち上がる?
「泣いて、叫んで、苦しんで…」
人って面白いものだなぁって思うんです。
なぜなら、これを何度も繰り返すと、徐々に、そんなことをしている自分自身がイヤになってくるからです。
私、一体、何やってるんだろう…、って。
そう、ふとある時、気が付くんです。
こんな、な~んにもならないことに、一体、どれだけの時間を費やしちゃったんだろうって。
着の身着のまま、家の中は散らかしっぱなし。
何かをやる気も起こらない。
でも、これで本当にいいの?
私、本当にいいの?
なんだか、こんな自分、嫌じゃない?
何かしなくちゃ。
何か始めなくちゃ。
昔、ある人が、「下手に落ち込まないようにするよりは、落ち込むときは、とことん、もう、これ以上落ち込めないっていうところまで自分を追い込むのがいいと。そうしたら、もう落ちようがないから、這い上がるしかない」って。
それは、きっとそう。
呆然とするぐらいまで落ち込んで、自分が何をしたらいいのかわからなくなるぐらいまで、目の前の何かを失って…
でも、生きている限り、人は、いつか必ずその足を1歩前に踏み出すことを選択するんです。
ただ、そうするまでに時間が必要で、それがいつやってくるのか、私たち自身にはわからなくて…。
お願い、神様、私をここから連れ出して…
毎日、毎日、お祈りして。
いつかきっと神様が自分の声を聴いてくれると信じて…
でも、結局、私たちは、ある時、自分自身の足と力で立ち上がるしかないのだと気が付くのです。
待っていても誰も私のことを救ってくれないのです。
本当に救われたいなら、自分自身で立ち上がらないといけないのだと。
そして、自らその手を差し伸べないといけないのだと。
そして、目の前に差し出された、その手を握らないといけないのだと。
でも、私たちはとっても我儘で、その差し伸べられた手を試してしまうのです。
本当は、その手がこの地獄から自分のことを救ってくれるのだと気付いているのに、「私のことを本当に救う勇気があるの?」って。「そこまでの覚悟があるの?」って。
どうして、そんなに疑うの?
僕は、私はただ、手を差し伸べたいと思っているだけなのに…
それはとってもわかっているのです。
ただ、でも、そう…、分かっているのは、その手を握った後、その手を失ってしまう恐怖に私たちは勝てないから、その手を握ることが怖いのです。
そう…、本当は、単にその手を握る勇気が自分にないだけなのに、素直にその手を握れば終わるはずなのに、何度も何度も相手のことを試してみて、「これでも、あなたは私の手を握ろうとしてくれるの?」と繰り返し確かめて…。
で、結局、残るのは、空っぽな手のひら…
そして、自分を納得させるために、「ほぅらね、やっぱりあの人も違った…」ってつぶやいて…
でも、本当のところ、そんな人生を送りたいわけじゃない。
本当はそんな人生を送りたいわけではなくて、本当は、その手を握りたくて、そして、できれば自分自身が手を差し伸べる方になりたくて。
なぜなら、差し伸べる手を振り払う人の気持ちが痛いほどわかるから。
本当は差し伸べられたその手を握りしめたくて、本当に握りしめたくて、でも、その手を握ってしまったら、相手を自分と同じ地獄に引きずり込んでしまうんじゃないかと、ギリギリのところで自分にストップをかけて…。
確かに、それはそうかもしれないけれど、でも、一歩踏み出せば、それが全く違うものに見えるのだから。
自分が手を握ったら、その人の人生を狂わせちゃうとか、自分と同じように不幸にさせてしまうなんてことができるのなら、それは同時に、相手の人生を幸せにすることができるということだから。
私たちは、なぜか、「自分は他人を不幸にすることはできる」と思っているにもかかわらず、「自分は他人を幸せにすることができない」と思っているという、この不思議。
それは10円玉の裏と表と同じ世界。
裏を表に返すことも、表を裏に返すことも、皆、おんなじ世界。
ただ、分かっているのは、多くの人が、自らの手で幸せになるのではなく、誰かの手によって、自分をこの不幸せから救い出してほしいと願っていること。
聖母マリアはどこにいる…
確かに、人生はとっても痛いのです。
どうして、こんなにも痛いの?と思うほど、人生は痛いのです。
でも、そんな時は、とことん泣いて、叫んで、苦しんで、そして、バッサリ髪を切って、過去の自分にさよならして歩みだしましょう。
また、そんな風にしている間に、去っていく周りの人たちをつなぎとめるのも止めましょう。
でも、そんな状況でも必ず、私たちのことを見守って、私たちが自らの足で立ち上がり始めた時に、前と同じように話しかけ、付き合ってくれる人は、必ずいるのだから。
そういう本物を見つけましょう。
そんな人、マジにいないです…っていう人は、まっすぐ前を向いて、ものを見る勇気を持ちましょう。
怖いかもしれないけれど、危険を冒し、ダイヤを探しに行く人にだけ、ダイヤの原石は手に入るのですから。
もし、今、あなたが、相手の眼を見て、話をすることができないのであれば、まずはそこから始めましょう。
事実を見る訓練をすることが大切です。
そして、もし他人を視ることができないのであれば、まずは鏡の中の自分をきちんと見つめましょう。
そして、その中に移っているものと対面して、そこから何かを始めましょう。
ひどい世界かもしれないけれど、そこから始まるものはあるのだらから。