「〇〇ちゃんは、お利口さんだから、良い子だね~」
「△△ちゃんは、今度のテストで100点を取ったから、良い子だね~」
「◇◇ちゃんは、言いつけを守ったから、良い子だね~」
「××ちゃんは、可愛いから、良い子だね~」
気が付いたら、いつも私たちは、条件付き。
親から愛されるためにも、条件つき。
友達から好かれるにも、条件付き。
大好きなあの人から愛されるためにも、条件付き。
神様…
この世の中に、条件なんて関係なくて、このままの私のことを愛してくれる人はどこかにいないのですか?
神様、お願いです。
このままの私を愛してくれる人を、どうか私に授けてください…
でも、哀しいかな、そんな儚い願いは叶うことはなく、日は昇り、気が付けば、私たちの毎日は「条件付き」で過ぎていく…
だから、皆んな、頑張る。
周りから愛されたいから、頑張る…
褒められたいから、頑張る…
そして、毎日、頑張る。
そう、頑張る、頑張る、頑張る、頑張る…
そのうち、何のために頑張っているのかわからなくなって、自分がどこに行きたいのかすらわからなくなって、終いには、自分が誰なのかわからなくなって、途方に暮れて、どうしたらいいのかすらわからないのに、足を止めることが怖くて、ただ、身体が慣れ親しんだ「頑張る」という行為にしがみついて、本当は泣きたいのに、微笑んで見せる…
気が付いたら、私たちは哀しいピエロ。
本当の私に気付いてほしくても、誰も気付いてくれない…
だから、赤い糸を信じてしまう。
ソウルメイトを探してしまう。
赤い糸で結ばれた人に出会えたら、本当の私を見つけ出し、本当の私を愛してくれるから…。
ソウルメイトだったら、自分がどんな人間だとしても、受け入れてくれるから…。
条件をクリアしていなくても拒絶されることのない世界。
本当はただ、何も言わず、ぎゅっと抱きしめてもらいたかっただけ。
「お前は悪い子じゃない」って、信じてほしかっただけ…
98%の理解は要らない。
欲しいのは、残りの2%。
そこに私が潜んでいるから。
いつか、どこかで見つけてくれると信じて隠れている私がそこにいるから…
私たちは、あまりにも「条件付き」の世界にどっぷりとつかってしまっていて、いつの間にかその痛みを感じることすらできない状況にいるのだと。
でも、私たちが望んでいるのは、本当は条件なんて関係ない、ただ、今、そこにいる私を愛してほしい、抱きしめてほしいということ。
なのに、哀しいかな、その私たち自身が、他の人たちを考えるとき、様々な条件でその人の評価をしてしまったり…。
例えば、
「あの人はお金持ちだから」
「あの人は、いい会社に勤めているから」
「優秀な大学に行っているから」
「良いところのおぼっちゃま/お嬢様だから」
「イケメン/美人だから」
「頭がいいから」
「××だから、好き」
これは何も人だけ限らず、「栄養価が高いから好き」とか、「ブランド品だから好き」とか、私たちは、知らず知らずのうちに、自分たち自身で、条件付きの好き嫌いという世界を作り上げ、そのことで自分自身をがんじがらめにして…
そして、自分自身がその輪の中から抜け出すことができなくなってしまって…。
そう、まるで何か条件が付かなければ、価値がないような…
確かに、資本主義の世界においては、価値を上げるためのアイテムとしての条件は必要だけど、時に、そのアイテムとしての条件は、パラダイムシフトすることもあるのだと心に留めておくことは、本当に大切…。
以前は、コピーしたくてもできないことが、最高級の価値とされたけれど、今は、1回もコピーされないものには価値はなく、100万回コピーされて、初めて価値が認められるというような…。
でも、結局、それは条件の設定が変わっただけ。
条件が必要であるということは変わりない。
悲しいかな、私たちは生きていくために、提示された条件をクリアしていかなければならない。
でも…
提示された条件をクリアできたから、
収入が増えた、
生活レベルがアップした、
ステキな恋人ができた…
でも、何かが心の中で、ざらつくのです。
そして、ある日、気が付くのです。
むき出しの自分を、一体、誰が愛してくれているのかということを。
でも、もし、人生において、たった一度でもいいから、ただ、そこにいる自分を抱きしめてもらった経験を持っているのであれば、それは永遠を生きることができる切符を手に入れたのと同じことだと気が付くことが大切なのではないかと思ったりするのです。