身体が柔らかいほうが勝ち…!? 投げつけられた言葉を躱(かわ)せるようになったら世界が変わる?! | スピリチュアル コンサルタント YoUMe(ユミ)の部屋

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心・身体・感性に同時にアプローチするYoUME Method/ユミメソッドを考案したスピリチュアル コンサルタント YoUMe(ユミ)こと、舟生侑未(ふにう ゆみ)の
人生観や生き方、物事の考え方などについてのブログです。

前回のブログで、本当は、今回のタイトルのような話を書こうと思っていたにも関わらず、書いているうちに違う方向に行ってしまって。

しかも書いているうちに、意外といろいろなことが頭の中をよぎり、結構、書き上げるまでに時間がかかってしまったのが前回のブログです。

 

なので、もう一回、トライ。

私が書きたかったのは、今、目指しているのは、こういうことなんです。

 

そう、「柔らかい身体で、投げつけられてくるものをヒョイヒョイと躱(かわ)しながら、軽やかなステップで人生を歩んじゃいましょう」ということなのです。

 

 

私もそうですが、時として(ん? 本当は、英語で言うusuallyだったりして…)、高い感受性を持った人や敏感な人は、他の人にとっては何でもない言葉に戸惑ったり、ショックを受けたり、傷ついたり…。

そのために、それらの言葉や言動から自分を守るために、身体を固くしていることが多いのです。

 

傷つかないように、ショックを受けないように、過敏な反応をしないように…

 

自分が持てるアンテナをフル稼働させて、これらの言葉や言動にぶつからないように身を縮めて、目立たないようにして隠れているのですが…

 

悲しいかな、避けてるはずなのに、当たっちゃうんです。

ふとした瞬間に、周りの人の言葉や視線が、身体の中に、心の中に刺さっちゃうんです。

だから、より身を固くして、アンテナを張り巡らせて、

 

「お願いだから、来ないで~!」って身体中で叫びながら、神経をピリピリとがらせて、警戒警報を鳴らして、自分を守り続けているのですが、まぁ、正直なところ、この行動そのものが、周りの人から見ると、気になるというか、目立つというか、どうも自分たちとは違うなと感じさせてしまったりしている原因となっているのですが、当の本人からすれば、必死です。

なぜなら、当たるととても痛いからです。

でも、残念ながら、これらの行動は、本人が思っていることとは真逆の効果になっているのが実情です。(こう言えるのは、私自身が長い間、つまりこれらの感覚をコントロールできるようになるまでの間、このジレンマに陥っていたからです)

 

いずれにしろ、こんな風に常に神経をとがらせて、身構えていたら、身体がガチガチになっちゃいますよね?

 

スポーツをしたことがある人は誰でも知っていると思いますが、緊張して身体がガチガチになっていると、実力の半分も発揮できないので、試合の時は緊張せずにリラックスした状態に自分を持っていくことが大切だと言われています。

 

日常生活でも同じです。

自分の能力を発揮しようと思ったら、緊張せずにリラックスすることが大切です。

でも、過敏だったり、感受性が高い人は、この緊張をしていない状態、神経をはり詰めていない状態を作ることがとても苦手なのです。

なぜなら、気を抜いたら、いつ、痛い目に遭うかわからないからです。

なので、常に、神経を張り巡らせ、周りの人たちから投げつけられるもの(ほとんどが故意によるものではないのですが)に当たらないように気を付け、または当たったときに痛くないように身体を固めているのです。

 

そのため、過敏だったり、感受性が高かったりする人の動きは、身体が固まっているせいで、どこかぎこちないのです。

もちろん、「あの人、ぎこちないなぁ~」と明確に感じるか、「言われてみたらそうだね」ぐらいで感じるかというところは、個々人で差はありますが、こういう動きを人は察知する能力を誰でも持っています。だから、ある程度の年齢が行くと、「あの人、神経質だよね?」とか「あの人、本当に神経が太いよね~」といった会話が生まれるのです。

 

でも、この身体を固めてしまうという現象ですが、何も神経が過敏な人や感受性が高い人だけの話ではないと私は思うのです。

全ての人において同じだと、私は思うのです。

 

例えば、いじめなどがそうです。

それまで普通に元気だった子や人が、周りの人たちから寄ってたかって叩かれ続けたら、同じように身を固め、動作がぎこちなくなります。

それまでなんでもなかった言葉が、自分をズタズタに切りつけるナイフのように感じるようになるのです。そして、ちょっとした視線が、自分に対してネガティブな評価をしているのではないかと常に怯えるようになるのです。そして、どんどん、自分の殻の中に籠(こも)るようになるのです…。

 

その状態が長期に渡ると、鬱になったり、強迫神経症や被害妄想になったり、もっとひどくなると、手首に刃物を当てたくなったり、電車が駅に入ってくる瞬間が魅惑の時に見えたりするようになるのです。そして、残念ながら、その魅惑に勝てずに実行してしまう人はいるのですが。

(こういう状態にいるときの向こうの世界は、甘く魅惑的なのです。なぜなら、そこに救いがあるように思えるからです)

 

ただ、私的には、そういう状況に陥ってしまうことが、イコール、弱いということではないと思うのです。

一度、経験をしたことがある人はわかると思いますが、そこには抗(あらが)いがたい何かがあるのです。

そこから抜け出しおうせた人だけがわかるのですが、自分でも「なぜ、あの時、あそこまで思いつめてしまったのか」わからないのです。

 

以前のブログでも書きましたが、本当に死を誘(いざな)う魔物はいるのだと思うのです。

 

 

訳もなく身体中から哀しみがとめどなくあふれ出し、自分ではどうすることもできないのです。

この哀しみや苦しみから逃れるための手段が自分を消滅させることしかないように思えるのです。

 

そんなバカなと思われるかもしれませんが、本人にとっては、それが真実なのです。

他の人がどう言おうと、それは自分自身にとって変わらない事実なのです。

なぜなら、これらの拭ってもぬぐっても湧き出てくる消滅衝動といった思いは、自己の閉じた世界の中で起きている現実からです。

 

なので、この時、「そんなの自分の思い込みだよ」という助言は、まったく役に立たないのです。

言われたほうからすれば、「あぁ、この人はわかってくれていない」と思うのだけなので、何の救いにもならないのです。

その思い、今、感じていることが、その人にとって紛れもない真実であるということを、本人と同じレベルで体感し、共感したときに、初めて、その人との回線がつながるのです。

 

ただ、人が自分自身を消滅させようとするパワーは、人ひとりを消滅させるためのパワーであり、そのパワーはとてつもなく強力です。

下手をすると共感した人も道連れになってしまいます。

これは昔から「ミイラ取りがミイラになる」と言われるように、臨床の現場ではよくあることなのです。

心が現実世界に戻れなくなるのです。

自己消滅をさせたい人の世界から抜け出せなくなるのです。

 

なので、それをしないために、私が習っている気功/ヒーリングでは、身体を鍛えることが推奨されています。

身体にそのパワーを跳ね返すだけのパワーがあれば、または闇の中から、その人を抱きかかえて引きずり出すだけのパワーがあれば、メンタル(マインド)を守ることができるからです。

 

 

もちろん、メンタル(マインド)を鍛えておく必要もあります。

でも、メンタル(マインド)の踏ん張りが効く、効かないは、やはり身体によるところは多いのです。

想像してみてください。

もし体調が悪い時に、「あと、もうちょっと頑張って」と言われても気合が入らないのと同じです。

なので、身体をトレーニングしておくことは大切なのです。

 

と話が反れちゃいましたが、いずれにしろ、「身体が固まってしまうような状況には陥りたくない!」ですよね?

 

とはいえ、人生、それこそ、山あり谷あり。

やはり辛いことがあると、身を縮めて、身を固くしてしまいます。

それが短期間であれば、身体は直ぐに回復しますが、それが長期間になると、身体を元に戻すのも一苦労です。

 

自慢じゃないですけれど、私もそんなこと、何回もあります。

ついこの間、ハマったのはド級でしたが(笑)

 

気が付いたら、肋骨がまるで自分を守る鎧兜のように硬くなっていて、「えっ、これ、私の身体じゃない?!」って (^^;;

 

セルフヒーリングをいくらやろうが、砂に撒く水状態…

身体をいくら緩めようが、心が警戒警報を鳴らし続けていたので、直ぐに身体が元の硬い状態に戻ってしまっていたのです。

この時ほど、人間の心のダイナミズムを実感したことはありませんでした。

今回に関しては、心、メンタル(マインド)パワーの勝ち!(ん? ここは勝ち負けなの話…?)

 

それから約9か月。

自分の身体が回復することで、今まで以上に感じるものが多くなっています。

特に、周りで同じような苦しみの中にいる人たちのことが、前以上にわかるようになっています。

 

「あぁ、この人、ここに引っかかりがあるんだなぁ…」とか、「うわ、痛そうだなあ…」とか

 

そして、その人たちが、私と関わり合うことで、少しでも自分が持っている能力を発揮できる状態に戻ることができた時には、今まで以上に嬉しいなと思うのです。

そして、「できれば、もう、元の身体を硬くしなきゃいけないようなことにならないでね」とも思うのです。

 

だからこそ、身体が硬くなってしまわないように、上手に躱(かわ)す方法を身に着けましょうと。

それには、柔軟な身体が必要だと。

 

身体と心が常に連動していることは、多くの人が知っています。

身体が柔らかければ、心も柔らかく、目の前の相手に対して、真正面から切り込まなくてもよくなります。または相手から受け取るのがイヤなもの―ナイフとか、トゲとか、いが栗のようなトゲトゲしいものだったりとか―を投げつけられたときには真正面から受け取らないという、つまり、受け流すだとか躱すということができたり…

 

身体が柔らかいと頭も柔らかい状態になっているので、受けなくてもいいことを上手く避けることができるのです。

 

具体的な例で話をすると、正にドッチボールです。

例えば、身体が硬くなっている状態でドッチボールをした場合、投げつけられたボールを避けようとしても、身体が上手く動かないために、簡単にボールに当たってしまいます。

身体が硬くなればなるほど、標的です。

なぜなら、身体が硬い状態では、身体が敏速に動かないからです。

 

私も子供の頃、ドッチボールをやるときは、そういう子を標的にしていました。

特に、こういう子たちは、狙われていると思った途端、更に身体が硬くしてて動けなくなるのです。

あまりにもよく狙われる子には、逃げるのではなく、ボールを取りに行くことを教えてあげましたが。

ただ、ボールに当たったら痛いという経験を積んでいると、このボールを取りに行くということがなかなかできないのですが…。ただ、面白いことに、ボールが取れるようになると、狙われなくなるんですね。これって、人間の真理ですけど。

 

 

「社会とドッチボールは全然違う!」と言われるかもしれませんが、でも、社会においては、ボールならぬ、言葉や視線、態度といったノンヴァーバルなものが終始、飛び交っています。

その中には、人の心に刺さるナイフやトゲのようなものも沢山あります。

 

だからこそ、これらに当たらないように、身体を柔軟にしておきましょうと思うのです。

「あっ」っと思ったときに、ヒラリと躱(かわ)せるように、いつも心と身体に柔軟性と余裕を持たせておきましょうと思うのです。

 

そして、余裕があるときに、万が一、こういった柔軟性と余裕を失ったときに頼れる場所を作っておきましょうと思うのです。

 

それは別に人とは限らないかもしれません。

「場」なのかもしれません。

何かしらの世界なのかもしれません。

 

時間だけが自分を癒してくれるというのでは、あまりにも寂しすぎますから…。