【外伝】鳥井信治郎 サントリー創業者

    1879年〜1962年2月20日


今日二月二十日は、サントリー創業者・鳥井信治郎の命日である。大阪の寺社仏閣には鳥井信治郎を始めサントリーの寄贈の鳥居、梵鐘、灯籠が点在する。


比叡山延暦寺においても、鳥井信治郎の寄進は多く特に戦後初めての千日回峰行者『坂本の和尚』の異名をとり、戦後比叡山の中興の祖、叡南祖賢大阿闍梨の大信者にして、大スポンサーであった。今の坂本の姿は叡南大阿闍梨と鳥井信治郎の手によって再興されたといって、過言はないと思う。


鳥井信治郎の『やってみなはれ』は叡南大阿闍梨の言葉


 

「戦後初の北嶺千日回峰行者 叡南祖賢大阿闍梨」

高僧が高僧を語る オーラルヒストリーから見えてくる人生訓


「やってみなはれ」と財界人の背中を押す


祖賢大和尚のもとには、政治家や財界人、学者など名士から、近所の農家のおばさんまで、さまざまな人が話を聞きたくて連日会いに来た。覺範探題によると、祖賢大和尚はその人たちに難しい説法をするわけではなく、いろいろな話をして笑わせた。人々は、比叡山に来て良かった、話を聞くことができてありがたかったと満足して帰っていった。人々が帰る時、祖賢大和尚は必ず玄関まで出て見送ったという。


オーラルヒストリーでは、祖賢大和尚には財界に多くの協力者がいたことが明かされ、富士銀行(現・みずほ銀行)の金子鋭頭取、日興証券(現SMBC日興証券)創業者の遠山元一氏、近鉄の佐伯勇社長や日本生命の弘世現社長、安田生命(現・明治安田生命)の竹村吉右衛門社長、「財界の政治部長」といわれた経団連の花村仁八郎氏など、そうそうたる顔ぶれが登場する。昭和31年(1956年)、延暦寺の大講堂などが焼失した時には、財界の支援者の集まり「法灯護持会」を設立し、復興資金の支援獲得に奔走した。


サントリー創業者の鳥井信治郎社長とも深い交流があった。サントリーが新たにウイスキーやビール事業に進出する際、鳥井社長が自らの経営哲学「やってみなはれ」をつぶやいて社員の背中を押したエピソードはよく知られているが、この言葉はもともと、相談に来た鳥井社長に対する祖賢大和尚の励ましの言葉だったという。





(叡南祖賢大阿闍梨)


大我に生きる 陰徳あれば陽報あり【鳥井信治郎】


『陰徳あれば陽報あり』


人に見えないところで徳を積み重ねておれば、それは必ず自分に巡り戻ってくるはずだ

――という意味であるが、この言葉をモットーにしていたのが、 サントリー創業者の鳥井信治郎である。 いかにも仏教的な「因果応報」の思想である。


毎朝、般若心経や観音経などの小一時間の勤行。 その後は柏手を神棚で打つという日課。 ところが信治郎はこれといった固有の信仰があったわけではなく、 とにかく神様とか仏様と名のつくものに、無条件に敬意を払ったと言われる。 かつては社内に「神仏課」を置き、全国の神社仏閣に、 祭事があるたび寄付や自社のウイスキーを奉納していたという事実がある。


この信仰心の深さは幼少の頃から、母親によって育てられた。 明治12年生まれの信治郎の時代は、また国民全体が貧しく、 そんな人達にいやな顔ひとつせず小銭を与える母であったそうだ。 小銭をもらった人が大声で何度もお辞儀するのを楽しげに見つめる信治郎に、母は

「見るもんやおへん、ふり返ったらあかんぇ」

と厳しく戒められて育った。


『わしが陰徳、陰徳というのはなぁ、あんときのお母はんの教えによるところが大きい。 ある者ない者に施しをする。そんなんは当たり前や。 いばることもないし黙ってしてやったらよろし。 これをしたげたさかいに見返りを求めるなんちゅうのは論外やで。 人間、どんなときでも慈悲の心を忘れてはいかん』


と、周囲の人にことあるごとにこの言葉を繰り返していたという。 また、社会福祉法人を設立し、夫人とともに恵まれない学徒のために 奨学金を内密にして提供し続けてもいた。  


戦後には、会社をあげて大阪市内での炊き出しの救済活動。 その時も幹部の反対する声に



『アホやな、おまえらは。そんなことを言うとるさかい、 なにひとつでけへんのや。日本中が困ってることくらい、 わしにもわかっとる。というて、誰もなにもせんだらどうなるんや。 復興はますます遅れる、遅れる分だけわしらの仕事もやれんことになる。 だいいち一人でも二人でもおカユをやれる力があるなら、 それを実行するのが人の道やないか。』



鳥井信治郎の「陰徳精神」


ところが非常に残念な調査結果が、野村総合研究所によって、2005年12月5日に発表された。

現代社会は、上場企業に20~30歳代の正社員の75%が

「現在の仕事に無気力を感じている」

というのである。同社は

「仕事での成長実感や社会的意義を感じられず、 容易に転職を考えがちな若者の姿が浮き彫りになっている」

と分析した。  体力も気力も、また夢も一番持ち合わせている世代が、 今なぜそのような無気力になっているのであろうか?


能力主義・年俸制とさまざまなことが変化している現代の企業。 反面、人としての智慧を蓄積することなく、 だた成績だけが重視され、働くことの意味を見いだすことのできない 無気力な若い世代は、心貧しい人生を生きようとしている。 それはそれで仕方がないと他人事になっている場合ではない。 若者が無気力であるということは、 どの会社の将来も先がないということと同じであり、 さらに日本に未来はない、といっても過言ではない。 これは社会全体、日本全体の重要な問題とみなければならない。





少なくとも、鳥井信治郎の時代のサントリーには、 そういった社員は一人もいなかったようだ。 当時から、華麗でスマートな花形会社として、 文化系大学生の就職人気ナンバーワンにまでなっているサントリーは、 裏腹に真面目かつ非常に厳しい会社であった。 どの工場も床や階段は磨き上げられ、従業員の仕事ぶりも整然そのもの。 前の晩どんなに遅くなっても朝は8時50分までに出社が義務づけられていた。 日中は問屋や小売店へのセールス、夜は担当地区の料理店や居酒屋などへのサポート。 帰りが午前様は当たり前。 現代の若者であれば、さっさと退職するような環境かもしれないが、 当時の営業マンは不平不満を洩らさず、 嬉々として働いていたとされている。それは何故か?



「任せてくれるんですよ、仕事を。 (会社としての)スジさえ外さなければ上の人は何も言わない。 それが伝統のようになっていて、うちの会社では、 むしろ自分で考えて自分なりのやり方を通す者が好まれるんです。 家族主義もまた安心して働ける要素です。 失敗してもなにをしても、とにかく骨は拾ってやるから思い切ってやってみろ、 という風土がここにはあるんですよ」


個人商店的な側面があり、家族的な団結によって作られた当時のサントリーの土壌は、 鳥井信治郎の「陰徳精神」なくしてはできなかったと言われている。 また戦後、この心で陰徳を積んだ多くの日本人によって、 戦後から見事な復興をなしたのである。


今の世の中、損得利害中心になってしまっているが、 会社だけでなく社会が、日本がよくなるためには、 鳥井信治郎の「陰徳精神」に目を向け、人と人との生かし合い、 支えあう精神を持った経営者が今こそ求められているのではないだろうか?


それこそが日本型経営であり、企業づくり構想のコスミカリズムマネジメントなのである。


引用 経営者を支えた信仰~ 池田政次郎著より