◇【外伝】叡山の和尚さん 叡南祖賢大和尚 ①





葉上照澄大阿闍梨と固い法縁を結び、叡南覚照 叡南覚範 小鴨覚禅 村上光田 堀澤祖門 中野英賢 各大僧正、小林栄茂 光永澄道両大阿闍梨を弟子に持ち、孫弟子・曾孫弟子には、叡南俊照 高川慈照 栢木寛照 上原行照 光永覚道 宮本祖豊 叡南浩元 光永圓道師ら錚々たる『比叡山比丘』を育成され、昭和、平成、令和と今も比叡山に脈々と流れる法脈の『素』、『坂本で和尚さんといえば祖賢さん』と謳われた、『叡南祖賢大和尚』をご紹介させていただきます。


昭和の比叡山を語る中で、自らも千日回峰行を満行し、現在の比叡山の隆盛の礎を築いた一人として叡南大和尚を外すわけにはいきません。


残念ながら、大和尚の人となりを示す資料は少ないのですが、昨年(令和四年)山田恭久氏により「戦後初の北嶺千日回峰行者 叡南祖賢大阿闍梨」が刊行されました。


読売新聞に同本の紹介記事が書かれていましたので一部抜粋して、


 

高僧が高僧を語る オーラルヒストリーから見えてくる人生訓


「偉いお坊さん」の一生を「偉いお坊さん」が振り返るオーラルヒストリー(口述歴史)が出版された。天台宗で最も過酷な荒行とされる「 千日回峰行せんにちかいほうぎょう 」を戦後初めて満行(達成)し、「百年に一度の比叡山の傑僧」といわれた比叡山延暦寺の 叡南祖賢 大和尚(1903~71)(以降、祖賢大和尚と表記)の生涯を、その弟子たちが語る『叡南祖賢大阿闍梨』(善本社)だ。


弟子といっても、祖賢大和尚のことを語るのは叡南 覺範探題、村上 光田 善光寺 長臈 、藤光賢探題、堀澤 祖門 探題(登場順)というそうそうたる顔ぶれだ。「探題」は天台宗における最高法階、「長臈」は高僧や前住職に対する敬称・役職で、4師とも戦後の天台宗を導いてきた方々だ。いずれも90歳以上、日本仏教界の重鎮といってよい。


祖賢大和尚は天台宗にとどまらず、多くの宗派と交流があり、この4師のほかにも日本仏教界の重鎮となっている方々の多くは、直接または間接に祖賢大和尚の薫陶を受けている。弟子だった方々の記憶が明確なうちに、業績を記録に残すべきではないか――。覺範探題と村上長臈の会食に同席した善光寺福生院史料研究員の山田恭久さんが、「自分たちはこれ以上ない師匠に育てられた。それは人生で最高の幸せだった」と語りあう2人の会話を聞いたことが、オーラルヒストリーをまとめるきっかけだったという。


千日回峰行を満行した祖賢大和尚は、「寺の総理大臣」と呼ばれる延暦寺の 執行しぎょう となり、弟子たちはその側近として、ともに延暦寺を支えた。4師は苦労話を交えつつ、師匠への思いを語ることで、比叡山の知られざる戦後史を語っている。高僧が師匠を語る、といっても、難しい仏典や説話の話はほとんどない。俗人には知り得ない秘話が詰まっており、それぞれの話がたいそう面白い。


学者から行者、教育者で経営者


 覺範探題が「祖賢大和尚は学者でもあり行者でもあり教育者であり、叡山の大経営者だった」と振り返っている通り、祖賢大和尚は実にさまざまな顔を持っていた。


 祖賢大和尚は愛知県豊富村(現・一宮市)の生まれ。7歳で愛知県の賢林寺で得度し、龍光寺住職の養子となって僧侶への道を歩む。次第に学僧として頭角を現し、昭和5年(1930年)に西部大学専修院本科を卒業。原稿用紙2000枚にわたる卒業論文『台密諸流史の研究』は、京都大学教授も務めたインド文化・仏教史学者の松本文三郎氏が読んで「きちんと考証すれば学位論文になる価値は十分」と太鼓判を押したという。


 比叡山延暦寺に入った祖賢大和尚は、前に千日回峰行を3回達成した奥野玄順老師が昭和15年(1940年)に遷化(死去)した後を継ぎ、 無動寺谷明王堂の輪番に就任する。明王堂は平安時代に北嶺回峰行を創始した 相應和尚が創建した根本道場だ。挑戦する僧がいなくなり、千日回峰行が途絶してしまうことを心配した祖賢大和尚は、自ら学僧から行者に転じることを決意して明王堂に入ったのだ。堀澤探題によると、修行を始めてから祖賢大和尚は学問のことを弟子に一言も言わず、行者になりきっていたという。


「有り金全部を京都の祇園や大津の料亭でスッカラカンになるまでつこうて」から無動寺谷にのぼり、昭和19年(1944年)の明王堂参籠(断食断水)満行を経て、昭和21年(1946年)9月19日、千日回峰行を満行する。疫痢にかかり、何度も雨中に倒れた末の満行だった。


 昭和28年(1953年)に明王堂輪番の座を譲ってからは麓の坂本(滋賀県大津市)に下り、人手に渡りかけていた里坊の整備を手がけた。僧侶に給料制を導入するなど、延暦寺の制度改革にも取り組んでいる。


 大僧正、 擬講などを経て昭和44年(1969年)に延暦寺長臈に任じられるが、すい臓がんを患う。昭和46年(1971年)の初めに危篤となるが、弟子たちが寝台車に乗せて僧房に移すと、重体であるはずの祖賢大和尚は目を開け、弟子たちの顔を一人ひとり見て言葉を発した後に、息を引き取ったという。


「絶対にうそをつくな、ごまかすな」


 祖賢大和尚のすごいところは、戦後の食糧難の時代に非常に厳しい荒行をしながら、その最中に弟子を受け入れたことだ。多いときは30人の弟子と寝食を共にして、僧としてのふるまいや仏の教えをたたき込んだ。時期は異なるが、4師はもちろんその中にいる。オーラルヒストリーの記録は、祖賢大和尚が過酷な条件下でどのように人を育てたかを記す「教育書」でもある。


 祖賢大和尚が弟子たちに徹底的にたたき込んだのは、「とにかくお坊様としてうそをついてはいけない。ごまかしてはならないということ」(藤探題)だった。村上長臈は、瓶に入った蜂蜜を勝手になめて、減った分は水を入れてごまかそうとして祖賢大和尚に物すごく怒られ、火箸で頭を打たれた。覺範探題は、金の茶釜を一生懸命磨きすぎて金をすべて剥がしてしまったが、ごまかさず正直に 顛末てんまつ を話したところ、祖賢大和尚は「一生懸命磨いたのだからしょうがない。寄進した信者には私が謝っておく」と一切責めなかったという。


 うそに厳しかったのは「人はだませても、仏はだませないという信念」(村上長臈)があったから。火箸で頭を打った翌朝、祖賢大和尚は「腫れているな。どうだ痛かったか」と優しく頭をなでてくれた。「必ずこうしたフォローがあったので、 僻ことはなかった」と村上長臈は振り返っている。自らに厳しい修行を課しているさなかに、失敗した弟子を叱りつつフォローを忘れないというのは、なかなかできることではない。


「やってみなはれ」と財界人の背中を押す


祖賢大和尚のもとには、政治家や財界人、学者など名士から、近所の農家のおばさんまで、さまざまな人が話を聞きたくて連日会いに来た。覺範探題によると、祖賢大和尚はその人たちに難しい説法をするわけではなく、いろいろな話をして笑わせた。人々は、比叡山に来て良かった、話を聞くことができてありがたかったと満足して帰っていった。人々が帰る時、祖賢大和尚は必ず玄関まで出て見送ったという。


オーラルヒストリーでは、祖賢大和尚には財界に多くの協力者がいたことが明かされ、富士銀行(現・みずほ銀行)の金子鋭頭取、日興証券(現SMBC日興証券)創業者の遠山元一氏、近鉄の佐伯勇社長や日本生命の弘世現社長、安田生命(現・明治安田生命)の竹村吉右衛門社長、「財界の政治部長」といわれた経団連の花村仁八郎氏など、そうそうたる顔ぶれが登場する。昭和31年(1956年)、延暦寺の大講堂などが焼失した時には、財界の支援者の集まり「法灯護持会」を設立し、復興資金の支援獲得に奔走した。


サントリー創業者の鳥井信治郎社長とも深い交流があった。サントリーが新たにウイスキーやビール事業に進出する際、鳥井社長が自らの経営哲学「やってみなはれ」をつぶやいて社員の背中を押したエピソードはよく知られているが、この言葉はもともと、相談に来た鳥井社長に対する祖賢大和尚の励ましの言葉だったという。


 財界人とは積極的に交流した祖賢大和尚だが、政治家は法灯護持会に入れなかった。法華経「 安楽行品」の「修行中は権力に近づくな」という教えに従ったためだ。ただ一人の例外となったのは、通産大臣や衆議院議長などを務め、「政界の三賢人」といわれた前尾繁三郎氏だけだった。前尾氏は政治家というより学者のような人だったという。


続く、


引用抜粋 二〇二三年四月一〇日 読売新聞 調査研究