◇北嶺大行満大阿闍梨、、


(二千日回峰、満行の日の酒井雄哉大阿闍梨)



我れ生れて自り此来、口に蠱言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり、努力(つと)めよ努力よ


傳教大師の遺訓である。


私は常に荒々しいことばを慎み、竹の鞭で打ったりしたことは一度もなかった。子どもはわれわれの後継者だ。同法(弟子)の人たちよ。子どもをたたいてくれるな、辛抱づよく導いてほしい。私はそれを大恩だと思う、という意味でである。


あんまり理屈を言うことはないんだ。朝ちょっとだけ早く起きて、部屋を掃除して、お茶を仏壇に供えて合掌する。それだけで、もう朝の新鮮な気分が、家じゅうにひろがって、親の心が子どもに伝わっていくんじゃないかと思うね。何もしないで、ご先祖さんは大切だ、仏さんを拝みなさい、と口で言ったって、子どもは手を合わせはしないんだ。親が実行しなくちゃ、何もはじまらない。子どもはするどい感覚をもってるから、親の心をすぐ敏感に読み取るわな。今は海外旅行にいく人が多いけど、外国にいくと、外国のいいところを見てくる。そうすると外国のよさが初めてわかる。子どもがよその家にいくと、その家のいい面も見てくるが、ここより自分の家のほうがご先祖や仏さまを大切にしてる、と感じる。そうなると、すべてのものがお師匠さんになってくるわけやな。だけど、そこまでいくには、親の積みかさねが必要だよ、回峰だって、一日一日の積みかさねなんだ


ごく普通の酒井雄哉大阿闍梨の言葉である。難しい言葉はまったくない。


回峰行を含めた行はそれ自体としては意味がない。強い信仰心を内に秘めて、相互の裏付けがあってこそ意義があり、「人間が人間でありながら、しかもそれ以上のものとなり得る」というのが天台宗の教えである。人間が「それ以上のもの」になり得るとはどういうことなのか。これは凡俗の徒には理解し得ない深淵な世界であるが、あえていえば、「現実的な現象」として顕現されてくる。『不思議な霊能力』はその一つかもしれない。


回峰行の始祖、相応和尚は天安二年(八五八年)、彼の外護者であった西三条良相の娘で、文徳天皇の女御(じょご)だった藤原多賀畿子が重病にかかり、危篤に瀕したため、その祈禱を懇請された。名医の治療、高僧たちの祈念もいっこうに効き目がなく、恩師慈覚大師円仁を通して西三条家から相応和尚が招請されたのである。相応和尚はそのとき十二年籠山中であったが、あえて山を下りて殿中に参上すると、殿中には諸方の名山大寺から集まった名僧知識たちが居並んでおり、みすぼらしい相応和尚の姿をみて軽蔑の目を向けた。委細かまわず、相応和尚は殿中には上らず、はるか庭上の白洲から病床を望んで祈禱を始めた。


修験祈禱の咒(じゅ)を誦しはじめた処、いくばくもなく一人の上臈(じょうろう)が几中(きちゅう)からまろび出て、飛ぶように和尚の座前に来り、転々しつつ高声を発したが、和尚の指示によってやがて平静の状に還ると静かに几帳の内に還って、さしもの奇病も立ちどころに平癒することとなった。西三条大臣の感謝と随喜は言うまでもない


三千日回峰の荒行を達成した大先達、奥野玄順師は、「電話主の声を聞いてその人の病気を治した」というほどの霊能力を持つにいたった。箱崎文應老師は何回となく不動明王を感応、感得した話を酒井阿闍梨に伝えている。


酒井阿闍梨もまた、『特殊な霊験』を示すことが多くなった。その一つが、瀬戸内寂聴尼が体験した『お加持』による力だった。


寂聴尼がいう。


私も最初は『お加持』なんて信じなかった。だけど、清水寺で阿闍梨さんにお加持してもらったとき、本当に効きましたね。宗教的な奇蹟というのは確かに起こり得ると実感しました。科学や哲学では説明できないことが宗教にはあると思う。それが神秘的にうつるわけですね。阿闍梨さんにはその後もお加持をしていただきましたが、降魔の剣でお加持してもらうと、あれはもっと効き目があります


京都大廻りのとき、信者たちが千日回峰行者の『お加持』わ求めて、道の両側に土下座して座っているのは、それなりの現実的な霊験があることを体験的に知っているからである。

昭和六十年八月の日航機墜落事故の際の『庭の鯉』の話も前述した。



(兜率天曼荼羅図)


修行を積み重ねた高僧として知られる明恵上人(一一七三〜一二三三年)は、現実に行う修行も夢も同等の価値あるものとして、密接に関連し合っているものとして受けとめ、自分のみた夢を克明に残している。この夢については河合隼雄が『明恵夢を生きる』で詳しく論証しているが、その中に承久二年八月にみた夢のことが記されている。


身心凝燃として、在るが如く、亡きが如し、虚空中に三人の菩薩有り、是れ、普賢、文殊、観音なり


これは、「おそらく身も心もひとつになり、しかも、それは極めて軽やかな、あるいは、透明な存在になったのであろう。明恵の場合は、修行を通じて、その身体的存在が心と共に変化するところが特徴的である」と河合は分析している。


明恵上人は、空から降りてきた瑠璃の棹によって、「兜率天(とそつてん)」へと上昇するが、そのとき引き上げてくれたのが普賢、文殊、観音の三墓であり、兜率天に昇る明恵上人の体には大きな変容が生じる。まずその顔が「明鏡の如く」になり、次に体全体が「水精の珠」のように、さながら「透体」のような状態になる。そのとき「諸仏、悉く中に入る。汝今、清浄を得たり」という声を聞くのである。兜率天とは、将来、仏となるべき菩薩の住処て、釈迦もかつてここで修行され、弥勒菩薩が説法をしていると説かれる欲界六天の第四番目の天のことである。


酒井阿闍梨の修行もまた、明恵上人のような境地にたどりつくための行にほかならないだろう。


京都大廻りは七月五日に満行した。この荒行がいかに凄まじいものか。世界的な冒険家の植村直己が生前、ある新聞紙上でこう脱帽した。「自分がなしとげた五大陸最高峰登頂の記録など、回峰行者に比べれば、恥ずかしい限りだ



(滝行をする酒井雄哉大阿闍梨)


酒井阿闍梨が京都大廻りを無事に終えてまた山に帰って行くとき、赤山禅院まで見送った息障講や朝の会の信者たちが名残りを惜しんで三々五々と散る中にあって西村泰治がいつまでも阿闍梨の後ろ姿に絶叫していた。


「阿闍梨さあーん。気をつけてお帰りくださーい」


阿修羅のようか顔から滂沱(ぼうだ)として涙が落ちていた。阿闍梨によって魂を救済された男が初めてみせた涙だった。渡辺丈吉は、ひっそり最後まで阿闍梨を見送って立ちつくしていた。



(霊山院でお茶を飲む 酒井雄哉大阿闍梨)


酒井阿闍梨は、昭和六十二年三月二十八日から七月五日まで、最後の三塔十六谷の山内の巡拝を行った。霊山院に寄ると、必ず一杯のお茶が用意されている。小寺文穎師は昭和五十七年二月二十八日、四十九歳で亡くなった。霊山院は次男が継ぐが、長男康穎は今、阿闍梨の弟子として修行中である。小寺夫人の心づくしの茶を喫しながら、阿闍梨は亡き小寺師に毎日、何を語りかけているのだろうか。


大行満の七月五日、酒井阿闍梨が長寿院を出峰するときは凄まじい豪雨だった。さすがの犬たちもお伴をしない。着茣蓙(きござ)をつけ、油紙で巻いた蓮華笠をかぶって出峰した阿闍梨が、朝八時に多数の信者やマスコミが待ち受ける長寿院に戻ってきたときは、雨がすっかりあがり、信じられないような上天気になっていた。


これも仏さまのおぼしめしだ」と感謝した阿闍梨は、二千日回峰を満行し、飯室回峰を天正十八年以来、実に三百九十年ぶりに完全に復興させて、


北嶺飯室大行満大阿闍梨』となった。二千日回峰は正井観順、奥野玄順の両師に次いで三人目、戦後は無論初めてである。地球を二回り約八万キロ踏破したことになる。


九十歳を超えた、第二五十三世天台座主・山田恵諦猊下は、凛然として話す。


傳教大師は、愚の中の極愚、狂(おう)の中の極狂、いわれておるが、仏教では行にのみ専念して学のないものを愚といい、学にのみ片よって行がないのを狂という。一つではだめなんです。酒井阿闍梨は、時間の短さ、奥の浅さ深さは別にして、学を修めてから行に入ったのでうまくいった。いつも菩薩の心を失わないかぎり、生き仏といってさしつかえない


酒井阿闍梨は昭和六十三年三月十七日から二十四日まで八日間、二千日回峰を満行したあと、悲願としていた二度目の十万枚大護摩供を奉修した。焚いた護摩木は実に十八万三百六十八枚、再び紅蓮の炎につつまれ、生きた不動明王として、ひたすら衆生の幸福を祈り、併せて国家の平和を祈願する酒井雄哉大阿闍梨。昭和の「生き仏」の姿がそこにあった。


次回、『人生こそ無始無終の行』、、


続く、




参考文献


生き仏になった落ちこぼれ 酒井雄哉大阿闍梨二千日回峰行

長尾三郎  著  講談社文庫


行道に生きる 比叡山千日回峰行者 酒井雄哉

島一春  著  佼成出版社