◇飯室回峰出峰へ、、



(ローマ教皇に謁見する、酒井雄哉大阿闍梨)


比叡山の荒行、千日回峰行とはいかなるものであろうか。


慈覚大師円仁が約十年におよぶ入唐求法の旅から帰国して、東塔の前唐院に住んでいた頃、一人の若い僧が目にふれた。十七、八歳の若い僧は毎夕、人知れず静寂な山中に入ると美しい花を摘んでは、根本中堂の薬師如来にお供えし、五体投地して一心不乱に拝んでいる。


円仁がその様子を黙って見ていると、若い僧は雨の日も風の日も雪の日も一日として欠かさず、その礼拝を続け、七年の歳月が過ぎていった。この僧は俗姓を櫟井(いちい)と称し、近江国の出身、十五歳のとき、東塔定心院十禅師の職についていた高僧、鎮操大徳の導きで初めて比叡山に上がり、十七歳で剃髪出家した。そして法華経を勉強するうちに、その中の「常不軽菩薩品」に深い感銘を受け、なんとか常不軽菩薩の境地に達したいと発願して、この礼拝行を続けていたのである。



(建立大師像 相応和尚)


ちょうど円仁が第三世座主に就任した時期にあたり、宗祖最澄が入滅してから三十数年しか経っていない。新興の気に満ちた天台教団には、なお多くの問題が山積していたことであろうし、円仁も大きな希望と抱負を抱いて、天台座主職を相承したと思われる。七年後、円仁は初めて二十五歳になった僧に声をかけ、自分の直弟子にした。斎衡三年(八五六年)のことで、僧は法名「相応」と呼ばれるようになった。その五年後、円仁から「不動明王法」「別尊儀軌護摩法」などの秘法を親しく授けられた相応は、山中さらに幽深の地を求めて、一段と激しい山学山修の行に入った。そうしたある日、相応は、根本中堂の薬師如来から夢告を受けた。


吾が山は三部の諸尊の峰なり。此峰を巡礼し山王の諸祠に詣でて遊行の苦行せよ。是れ不軽菩薩の行なり。読誦経典を専(もっぱ)らにせず、但し礼拝を行ずるは事に即して真なる法なり。行満せば不動明王本尊となり一切災いを除くべし


経典の読誦、勉強ばかりするな、礼拝苦行することが「真なる法」で、それを行満したとき不動明王そのものとなり、一切のわざわいが取り除かれるだろう、というお告げだった。これを「不専読誦、但行礼拝」といい、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」の天台の教えからきている。山や川、一木一草、石ころにいたるまで、みな仏性があるのだから、比叡山をすべて巡拝して行せよ、という夢告を受けた相応は、薬師如来が示された地に草庵を結び、苦修練行の日々に入った。これが東塔無動寺谷の歴史の始まりであり、千日回峰の起こりである。そのため相応は別名「建立大師」とも「無動寺大師」とも呼ばれる。


相応和尚によって始められた回峰行は、やがて玉泉坊流(無動寺回峰)、石泉坊流(正教坊回峰)、恵光坊流(飯室回峰)の三塔三流派に発展していったが、小寺文穎師の「比叡山回峰行の史的展開」という論文によれば、山林巡行時代、三塔巡礼時代、比叡山巡礼時代、比叡山回峰時代の四段階があり、「比叡山回峰時代」は、元亀の兵火で全山焼打ちにあい、比叡山復興が促進されるとともに巡礼がいつしか回峰と呼ばれ、現在のような回峰の形態とコースが確立したのではないか、としている。



(酒井雄哉大阿闍梨 護摩行)


現在行われている千日回峰は「十二年籠山」し、そのうち七年間かけて満行する。無動寺回峰の場合でいうと、一年目から三年目までは毎年百日間、四年目と五年目はそれぞれ二百日計七百日、一日約三十キロを歩き、七百日終了から九日間、不眠・不臥・断食・断水の「堂入り」がある。六年目は京都の赤山禅院往復一日約五十キロの行程を百日、七年目は前半百日を「京都大廻り」一日八十二四キロ、後半百日を一日三十キロ行歩して都合千日、これで満行になる。


しかし、飯室回峰の場合は巡拝するコースも異なるし、一日に歩く距離も無動寺回峰より長い。しかも無動寺回峰は、酒井阿闍梨もかって百日回峰で行歩したように毎年「新行さん」が歩くし、千日回峰行者もいるので、比較的に峰道も整備されているが、飯室回峰の場合は、箱崎老師が百日回峰して以来、大塚善忍師が歩いたが、それ以後は閉ざされている。


初百日は無動寺コース、百一日目からは飯室回峰という変則で、いよいよ酒井阿闍梨の千日回峰に挑戦する日が近づいてきた。


酒井阿闍梨は、昭和五十年の正月を迎えた。出峰する年である。いつ出峰するか、出峰の日を決めることになって、箱崎師がいった。


酒井よ、四月七日に出峰してはどうか、わしの誕生日なんじゃよ


その瞬間、酒井阿闍梨は心の中で、ああっ、と思った。その日こそ妻が自殺した日であり、今年は亡妻の十七回忌にあたっていた。箱崎師の誕生日と亡妻の命日が同じ日であったとは、何という仏縁であろうか。しかも、その日に自分が千日回峰に出峰する。まさにこの世の生と死、祝と弔いが一如となった数奇な出峰である。


千日回峰は同時に「十二年籠山」に入ることを意味する。これより十二年間、比叡山の結界から俗界へ、いかななることが起きようとも一歩たりとも出ることは許されない。煩悩がうごめくニュースであふれる新聞、テレビ、ラジオも遠ざけ、ひたすら厳しい仏道に修行しなければならない。そして行が中断するときは自害するのが掟である。もはや後戻りすることはできない。


次回、「ナーマク サーマンダー バーサラナン‥‥‥」



続く、、





参考文献


生き仏になった落ちこぼれ 酒井雄哉大阿闍梨 二千日回峰行

長尾三郎  著  講談社文庫