戦後の日本、特に今日では、戦前の日本と思想的な立ち位置や評価するモノサシに大きな違いがあります。「違いがある」ということは、「良い悪い」を価値判断すること、とは異なります。識別したり区分・区別したりすることは、分析のための整理であって、知的な論理性で判別・認識するための基礎作業であり、それはあくまで正確に理解するための過程〔理解過程〕なのです。

   そうした構造的な理解を、あるパラダイム(例えば社会学的乃至は文化人類学的分析)に基づいて行った上で、その分析・整理した結果に対して、自己の持つ価値観、自分が選び取った価値基準に則って評価・批判する価値判断の過程〔評価過程〕に入ります。ここでは、その評価・批判する人物がどのような思想的立ち位置にいるか、によってその評価の結果が、当然大きく異なることになるのです。

 例えば、左翼的思想を抱く人と、右翼的思想を抱く人では、同じ対象を捉えたとしても、その評価は大きく異なるのです。ところが、分析の視角・視点を変えて見てみると、両者の評価が一致するような場合も出てきます。それは、評価するモノサシ、つまり価値基盤に連接性や同属性があれば、一致した立場からの評価や批判もあり得るのです。

 現代日本のモノサシで捉えると、元日本社会党委員長にして同党の思想的中核たる社会党社会主義理論委員会委員長という、最も左翼思想的な立ち位置に居た勝間田清一氏は、ソ連KGBの機密文書にも暗号名:GAVR(ギャバー)として登場し、レフチェンコ証言によればソ連からの裏金を「好意的商社による同党への政治献金」を介して受領していたという、プロソ連の共産主義者であったわけです。

   一方で、前回みた通り、かつては陸軍省嘱託として東條英機陸軍大臣の「仲良し(東條自身の言葉)」であり、戦後も保守派で歴代自民党総理総裁にも意見をしていたという右翼的イメージのフィクサーとも呼ばれた矢次一夫氏は、陸軍統制派が押し進めていた統制経済や、一国一党の国家社会主義的(ファシズム的)な大政翼賛会を推進していたわけですから、戦後の自民党歴代首脳陣との親密な関係からしても保守派であり、右翼的な立場として捉えられる存在です。

   しかし、前回取り上げた『昭和政界秘話』と題された『矢次一夫対談集Ⅱ**』(1981年原書房刊)の中から、1980 (昭和55) 年10月15日付『新国策』に掲載された「企画院事件秘話 ―“近衛つぶし”を狙った謀略?―」という矢次一夫氏と、勝間田清一氏(元日本社会党委員長)の対談を読んでみるとお分かりの通り、勝間田氏と矢次氏は共に協調会出身で、まるでかつての戦友のような親密な関係性を窺わせる対話内容になっているのです。これが一体どのような構造になっているのか、その辺りの関係性を多角的かつ重層的に捉えなければ、戦前日本の実相に迫る構造的理解はできないのです。

 そして極め付けは、岸信介氏です。本シリーズ第(78)(85)回でも取り上げた通り、昭和35年(*1960年)安保闘争で左翼運動の最も激しい攻撃対象になった保守的政治家であり、それは後年孫にあたる故安倍晋三首相に対する激しい攻撃が行われた安全保障法制制定ともリンクしているわけですが、この岸信介氏が戦前日本においては、法曹系(平沼騏一郎派)や、陸軍の一部(統制派以外)、そして当時の財界人からは「アカ」と呼ばれ、内務省特高警察や陸軍憲兵隊からも狙われていたことが、この勝間田・矢次対談から窺えるのです。これは一体どういうことなのか。読者の皆さんは「論理的整合性」を以って、この構造を理解できるでしょうか。

 こうした状況をなるべく正確に捉えるためには、角度や視点を変えた複数のモノサシ(価値尺度)を組み合わせて、立体的かつ統合的に捉える努力が必要となります。つまり、右端から見れば、真ん中も左端も両方とも左側に見えますし、左端から見れば、真ん中も右端も両方とも右側に見えるわけです。一方で、左端と右端も、それが一種の円環構造をある位置から平面的に眺めているだけと捉えれば、その奥行きでは実は左端と右端は対極的位置ではなく、円環の奥で繋がっているとも考えられるのです。


 ご参考:目覚めよ!左派知識人(12)過去の残像と現代の抗議活動の関係性

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12777331429.html

 これらは一種の「思考実験」モデルですが、具体的には、当時スターリンが主導したソ連の計画経済(5ヵ年計画)による社会主義経済体制と、いわゆる「弐キ参スケ」と呼ばれる満洲国五人組(東條英機、星野直樹、鮎川義助、岸信介、松岡洋右)が推進した満洲国の統制経済政策には、かなりの共通点があり、それはまさにソ連に留学してその社会主義的計画経済を学んできた宮崎正義氏を、昭和10年(1935年)に当時陸軍の石原莞爾参謀本部作戦課長が登用し、日満財政経済調査会(*研究会)を創立したことから連なっているのです。

   石原莞爾将軍が戦後作成し、極東軍事裁判(東京裁判)に提出した手記によれば・・・一、昭和十(*1935)年八月参謀本部作戦課長に任命せられし石原は、着任後(*中略)軍隊の機械化特に航空兵力の増強を眼目とする兵備充実を企図し上官の賛同を得たり、然るに民間にも政府にも日本経済力の綜合判断に関する調査なきを知りて驚愕し、種々考慮の結果満鉄会社の諒解を得た昭和十(*1935)年秋、同社経済調査会東京駐在員たりし宮崎正義に依頼して日満財政経済調査会(*研究会)を創立せり 当時全く私的機関なり 二、前項の兵備充実の基礎たるべき生産力拡充計画第一案は、昭和十一(*1936)年夏頃脱稿せり 案の基礎条件として少くも十年間の平和を必要と認めたり 三、昭和十二(*1937)年九月石原が参謀本部より転出後も、宮崎氏は研究をつづけ支那事変(*日華事変)を急速に解決するにあらずんば重大なる危局を招来すべきことを主張したるも、当局の顧るところとならず、昭和十五(*1940)年調査継続の意義なしとして自ら調査会を解散せり・・・となっています。(「現代史資料(8)日中戦争(一)」島田俊彦・稲葉正夫 解説、昭和39年みすず書房刊、703頁より)

   石原莞爾作戦課長が取り組んでいたのは、

・・・重要産業五カ年計画の実現を中核とする政治経済体制((*陸)軍が主導する一国一党政治と強度の統制経済)・・・(秦郁彦著「軍ファシズム運動史」河出書房新社、1962年初版・1972年増補再版、127頁)であり、またここで登場する宮崎氏とは、

・・・宮崎正義は石川県に生まれ、日露戦争の直後に石川県留学生としてロシアに派遣され、帰国後満鉄に入り、再びモスコー(*ソ連モスクワ)に留学を命じられた。後に三井銀行から派遣されて「日満財政経済研究会」のスタッフとなった泉山三六が、宮崎を「世に隠れたる大人であったが実に堂々たる人材であった」(泉山三六『トラ大臣になるまで』一一〇頁)と評しているように、表面は満鉄の一社員にもかかわらず、石原(*莞爾)の厚い信頼を受け、「先生」と尊称されていた。また松岡(*洋右)満鉄総裁も、みずから足を運んで彼に教えを乞うていた・・・という人物でした。(前掲「軍ファシズム運動史」240~241頁) 

   つまり宮崎氏を通じて、ソ連の社会主義型中長期計画経済の方式を基礎として、陸軍が推進したこの「重要産業五カ年計画」が策定された、と合理的に推定できるのです。

 ご参考:大東亜戦争と日本(34)「陸軍当面の非常時政策」を読む

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12639529861.html

 このように検分してみると、陸軍統制派と共に、統制経済や大政翼賛会(一国一党のファシズム的政治体制)を推進していた矢次一夫氏と、共産主義者からの転向者にして、当時企画院調査官として統制経済に取り組んでいた勝間田清一氏は、いわばその国家計画経済(社会主義的経済体制)という面ではまさに同志でもあったわけです。そして満洲国で「満洲産業開発五カ年計画」という計画経済を担ってきた岸信介商工省事務次官(昭和14年10月就任)は、この「企画院事件」の責任を取って辞任することになります。しかしその後、昭和16年10月に発足した東條英機内閣に請われて商工大臣として入閣したのです。

 現実の国家社会や政治では、整然とした色分けなどは困難なほど複雑に織り成す人々の離合集散もありますし、この陸軍統制派の統制経済を「アカ」(つまりは社会主義経済)と捉える財界人や内務省(警察)・法曹界系統の人脈も存在していたのです。そうした入り組んだ状況を、しっかりと把握することが肝要です。

 こうした理解の上で、ここからは、前回取り上げた『昭和政界秘話』と題された『矢次一夫対談集Ⅱ**』(1981年原書房刊)の中から、1980 (昭和55) 年10月15日付『新国策』に掲載された「企画院事件秘話 ――“近衛つぶし”を狙った謀略?――」という矢次一夫氏と、勝間田清一氏(元日本社会党委員長)の対談の「続き」を、読み進めたいと思います。

・・・<いきり立った財界筋>

 勝間田:統制経済については財界筋からも猛烈な反発が出たね。

 矢次:あった。特に企画院に対する財界の抵抗は非常にきびしいものだった。

 勝間田:代表的なのは奥村喜和男の電力国営論だ。これで電力会社がショックを受け、そこへ資本と経営の分離というような案が出るものだから、財界はますますいきり立った。

 矢次:それで、陸軍省軍務局の経済担当将校が引っ張られて憲兵に調べられたこともあったな。岸(*信介)が満洲から帰ってきて商工次官になるが、満洲で統制経済をやってきたにもかかわらず、経済新体制というものがよく飲み込めなかったのか、あるいは反対だったのか、なかなか「うん」といわなかった。これを「うん」といわせるために、当時の企画院から関係各省の役人たちが苦労している事実がある。のちには話がわかるのだがね。その岸(*信介)を口説きに行った(*陸軍省)軍務局の将校が(*陸軍憲兵隊に)取り調べられている。

 あの頃、「経済新体制」という言葉になる前に「統制経済」か、「経済統制」かでずいぶん争われている。いまにしてみるとどうでもいいようなことだけれどもね。要するに、経済新体制(*統制経済)に対する財界の反発が小林一三商工大臣に集約されていたわけだね。それが後に、小林による岸次官の罷免という事態に発展する。

  <立ち往生した小林(*一三)商工相>

 矢次:その頃、こういう事件もあったよ。経済新体制に関する閣議決定の秘密文書を小林商工大臣が渡辺銕蔵(*てつぞう)に洩らした。渡辺はそれをネタにどこかで講演し、さらに写しを作ってばらまいて、憲兵に逮捕されたのだよ。一方、小林(*一三)による岸(*信介)の首切り騒ぎがあるだろう。それを代議士の小山亮が国会の決算委員会で取り上げたわけだ。むろん、小山は当時まだ岸を個人的に全然知らないのだが、これが国会で論難痛烈を極めた。この件に、実はぼくも多少関係があってね。

 ある時、院内の陸軍省室へぼくが偶然入っていったのだ。そこに田中隆吉兵務局長がおって、小林(*一三)の機密漏洩事件や岸(*商工次官)罷免の話に及ぶと、「おい、おれのところにいい資料があるぞ。渡辺銕蔵を取り調べた資料だ」というから、「ちょっと見せろよ」といったら、これまた気楽なもので、すぐ憲兵隊へ行って取ってきた。「ほう、こんなえらい資料があるのか。ひとつ、これを小山(*亮)に見せようじゃないか」とぼくがいいだしてね、院内で小山を探して見せたのだよ。小山はかなり時間をかけてそれをメモに取った。取らなければ嘘だよな。

 ところが、間髪を入れずというほど速さで(*田中静壱)憲兵司令官が(*東條英機)陸軍大臣を訪ねて、「先刻田中兵務局長が憲兵隊にきて、小林商工大臣に関する書類を持ち出した。兵務局長だから持ち出すのを止めることはできないけれども、これを目下国会で行なわれている政争の具に利用されることははなはだ困る。陸軍大臣としてご考慮願いたい」という申し入れをしたのだ。そこで陸軍大臣が武藤(*章)軍務局長を呼んで、「憲兵司令官からこういう申し出があったが、これは困る。至急書類を回収するよう手配せよ」と命令した。

 まだその時ぼく(*矢次一夫氏)は陸軍省室にいたのだから、ほんのわずかな時間だね。武藤(*軍務局長)からぼくに、「さきほどの書類はどうしたかね。あれを取り返して、国会で利用することのないようにしてくれ」と電話があった。ぼくは小山(*亮)を探して、「いま(*陸軍省)軍務局長がこういってきたが、どうする?」と聞いたら、「書類はもちろん返す。しかし、私は国会開会中の代議士だよ。いやしくも国会で論難攻撃に利用できる書類をいったん見た以上、私の目や耳をふさぐわけにはいかん。私は陸軍省の職員でもなければ嘱託でもない。君とは違う。せっかくだけれども貴意には沿いかねる。さようなら!」と帰って行ってしまった。そして、それを使って国会でやったのだよ。小林(*一三)もあの時は参っただろうね。(笑) 他のことなら政府委員が防御してくれるけれども、ことこの話に関する限り政府委員は助けてくれんし、いわんや岸(*信介商工次官)を拒否したのだから、後に残っている椎名(*悦三郎)にせよ美濃部(*洋次)にしろ、誰も小林に助け舟を出さない。孤立無援で、しかもあの小山(*亮)の弁舌にかかったのだから、これは苦労したよね。

  <「わが満洲国は貴国に……」>

 勝間田:岸(*信介)さんの勢威といえば、それはもう、大したものだったからね。商工省といえば岸(*事務次官)というくらいで、新官僚の大親分だ。新体制の大親分だ。新体制の最高指導者という評価だったな。花形官僚中の花形だ。これを(*小林一三商工大臣が)首切ったのだから……。

 矢次:戦後はともかく、この頃が彼の絶頂期だったろうな。それだけに敵も多くてね。藤原銀次郎ともあわや一場面というところまでいったが、これは藤原のほうがうまく体をかわした。その前、小川郷太郎とはとうとう喧嘩になったな。

 勝間田:その頃の岸さんに、私は忘れられん思い出があるんだな。岸さんが満洲国の代表団を引き連れて企画院にやってきて、満洲再建の抱負を述べ、ついて日本からこれだけの物資を持っていきたいということなんだが、その時、ちょっと岸さんにひっかかるものがあった。「わが満洲国は貴国に対して……」という言葉を使ったのだよ。これに参った。ぼくは岸さんの顔を思わず見た覚えがあるなあ。うーん。「貴国に……」ときた。飛ぶ鳥を落とすというのは、あの頃の岸さんのことだな。

 矢次:なにせもう、官界のスターだったからね。だから狙われても仕方がないのだよ。

 勝間田:そうだな。

 矢次:一群の官僚を率いて政府を壟断する勢いだったからね。

  <実施前の改正法を発動>

 矢次:それに対して、平沼派というのはまた、陰気というか、陰険というかね。平沼(*騏一郎)が初めて内務大臣になった時だから昭和一三年(*1938年)かな、椎名(*悦三郎)が、「あれは朝鮮馬のミイラだ」と評したよ。なるほどうまいことをいうたと思ったね。それではぼくは面白がってそれを広めたのだ。あの顔はどう考えても朝鮮馬のミイラだよ。村田五郎に追い回されたのはそれからだと思うな。

 勝間田:村田は平沼さんの秘書官だったからね。

 矢次:それから内務省保安課長になった。

 勝間田:あの男にばさばさ逮捕されたからね。だいいち、話はややとぶがね、私を捕まえた理由というのがまた、おかしいのだよ。博多の駅前をうろうろしておったので捕まえた、と逮捕状に書いてある。それが(*昭和)一六年の四月八日だが、一週間したら、今年は検事勾留に切り替わった。その年の三月一〇日に例の治安維持法の改正が公布され、六月一五日から実施ということになっていたが、それが早くも発動したわけだね。

 はじめの一週間はまだ旧警察犯処罰令でやるわけ。だから、「勝間田清一は品川警察の前を徘徊しておったので、これを逮捕する」と、毎日、逮捕理由書を書き替える。警察犯処罰令では翌日の夕暮までに釈放しなくてはいけないのだが、「釈放したらまた徘徊していたので逮捕する」というわけで、徘徊、逮捕、徘徊、逮捕、徘徊、逮捕で一週間ぐらい使う。ところが、それ以降は、「お前は本格的に検事勾留だぞ」といわれて、もう改正治安維持法が実行される。ご都合主義というか、何というか……。

  <野菜をもらって帰った検事>

 勝間田:公判になって、忘れることのできないのは、厚生大臣や書記官長をやられた吉田茂さんだね。戦後の総理とは(*同姓同名だが)別の内務省の。これは巻きゲートルの地下タビで(*勝間田氏を)弁護してくれた。

 矢次:あの人は役人にしては親分肌のところがあった。

 勝間田:これに反対したのが、内務官僚の若手連中で、「吉田先生、あんな悪人をかばうと先生の出世に差し支えますよ」……。

 矢次:彼は終始、警保局官僚でなかったね。サーベルを吊ったことはない。(*警察官の制服を着たことはないの意)

 勝間田:ないね。後に自民党から代議士になった大坪保雄……。

 矢次:大坪は保安課長か何かやっていたが、あれはサーベルを吊らんと似合わん男だった。

 勝間田:彼なんか先頭に立って、「吉田先生、弁護をやったりしてはいけません」とさかんに止めていた。だけど、「自分は勝間田を絶対信頼しておる。おれがやらないでどうする」といって、防空演習の格好のままできて下さった。

 矢次:あの人は協調会で社会問題などを勉強したから、その方面に対する知識もあったしね。

 勝間田:あった。それから、いまでも忘れられないのは、若手の検事の、「勝間田は労働価値説をとっているが、これはマルクス主義ではないか?」という尋問に対して、「そうでしょうかね、アダム・スミスもそうじゃなかったですか?」といったのが吉田茂さんだった。それから東畑精一さん。この人はぼくらの仕事を手伝ってくれた人で、またわれわれも保証人に頼んだんだが、東畑さんは、「ケネーの『経済表』はマルクス主義の発端であると勝間田は信じているらしいが、これによってもマルクス主義者であるかどうか明らかじゃないか。もし勝間田がそんなことを考えているとしたら、あれは馬鹿だ」と。この一言で検事のほうがグシャッとなってしまった。あれはすばらしい弁論だったね。

 もう一つ、忘れられないことがある。私は協調会の頃、埼玉県の井泉村(現在の羽生町)に四年間ばかり指導にいったことがあるが、海野晋吉先生が、「勝間田がどんな農民の指導をやっていたか、農村で裁判をやったらどうか」と示唆したのを裁判長が取り上げたのだね。それで平野宏さんという地主の家の座敷で法廷を開き、地元の農民を呼んで証人調べをやったんだ。

 その時は村民全部が集まって異様な空気になってね。中でも忘れられないのは、妊娠した女の先生が裁判官の前へつかつかと出て行って、「裁判長様、勝間田先生は四年間もここで泥んこになって百姓をやられました。そんな国賊のような思想をお持ちの人では絶対にありません」と、涙をポロポロ流して弁護するんだね。もう裁判長は感激しちゃってね、見ていてわかるんだよ。

 証人調べが済んだら、お百姓連中がナスとキュウリを包んで、検事、裁判官、弁護士に土産にしたんだ。私は検事がそれを受け取るかどうかと見ていたら、やっぱりもらって帰るんだよ。(笑)

 矢次:それはおかしいよ。

 勝間田:検事が貰い物をして帰るというのは、いくら戦時中といってもね(笑)。海野先生というのは、そういう人の心の機微を実によくつかんでいる人でね。こうして、ぼくらは企画院事件に関する限りでは、無罪だった。ただし、佐多忠隆君は『櫛田民蔵全集』を編集し、『改造』や『中央公論』でこういう論文を書いた、これは治安維持法第一条後段に該当するということで、彼だけは何ヵ月かの懲役ということになった。しかし、未決通算二年半か、結局、差し引きしたら一〇日か一週間ぐらいしか残らないのだ。だけど、終戦が(*昭和20年)八月一五日で、九月一日に判決だから、当時交通事情が悪かったりして、佐多君は熊本から出てこないのだ。鉱山かなんかに入っていてね。

  <(*勝間田氏の)社会党入りのいきさつ>

 矢次:この事件に連座した諸君は戦後、ほとんどが社会党に入ったのだが……。

 勝間田:もう牢屋まで一緒にやったのは、仲がいいもんですよ。

 矢次:“牢屋同志”だな。

 勝間田:牢屋同志。役人としても一緒に仕事をやり、牢屋二年、裁判二年、未決二年ということで、牢屋で四年も苦しんだからね。まあ、社会党に入ろうというのは私がいい出したのだけれどもね。和田博雄さんは緑風会へ入った。稲葉(*秀三)君は、「政治なんかよせよ。おれは研究所をやるんだ」ということだったが、結局、「勝間田、君が先に社会党へ入れ」、「和田さんは緑風会をやって、やがて社会党へ行ったらどうか」と、これはみんなの了解ですよ。

 みんな政治が好きだったね。ぼくは好きというほど好きではなかったが、積極的だったのだな。だから、あとで稲葉君にはおこられた。「お前、和田さんを引きずり込まないで、あれは学者にしておけばよかった。お前が悪い」とね。

  <「時世が変わりまして……」>

 勝間田:戦後、ぼくを捕えた関係者の何人かに会ったが、これがおもしろいんだ。まず、芦田警部補。これはぼくの調書を取った直接の男だけれども、この男は娘や息子が先生になっていて、日教組の(*左翼的)運動を先頭に立ってやっているんだ。そのためか、ぼくが都下でいろんな集会に出ると、おやじさんの元警部補が一番前に座っていて、ぼくを応援するのだよ(笑)。なにかしらんが、世の中変ったもんだと思ったね。

 もう一人は、ぼくを捕えた岡嵜格検事だ。岡嵜は造船疑獄の時、犬養健法務大臣の秘書官になっていたんだよ。当時、社会党の国会対策委員長をやっていたのが私でね、指揮権発動にまつわって、犬養を国会に喚問するかしないか、ぼくの権限だったわけだ。そしたら、秘書官の岡嵜がある日、及び腰でぼくの部屋へ入ってきて、「先生、しばらくです」、「おお岡嵜君か」、「大変ごぶさたしております。戦争中は大変申し訳ございませんでした」、「申し訳ないじゃないじゃないか。君に虐(*いじ)められたよ」、「いや、時世が変わりましたので……」とかなんとかいってね。「君をどうのこうのというあれは私もないが、しかし君たち、間違っておったね。で、きょうはいったいなんだね?」と聞くと、「ほかでもないですが、犬養先生のことを勘弁してくれませんか」と、こういうのだよ(笑)。彼は名古屋の検事長までいったが、ぼくの大学(*京都大学)の一年後輩なんだよ。これは厳しい男でね、検事の時にはえらいいきまきおったが……。

 ただ、裁判長の徳岡一男という人は立派な方だったね。いまは野に下って弁護士をやっておられて、もう随分のお年になられると思う。徳岡裁判長は最後の判決の時に検事を、「こういうことをしてはいけない」といって厳しく叱ったですよ。

 矢次:どうも検事に見込まれたら危いらしいな。

 勝間田:ものにしようとするからね。

・・・(**前掲書93~100頁)  

 戦前・戦時中と、戦後では、敗戦によって世の中が大きく変ったことは事実です。それを「時世が変った」として適応するのもまた必要なことだったでしょう。しかし一方で、時世によっても変わらない信念や思想というものも存在していたわけであり、こうした大きな変動期には、価値観や社会観が逆転することから、様々な悲喜交交(こもごも)が発生することになります。「昨日の敵は今日の友」でもあり、「敵の敵は味方」でもあり、人生万事「塞翁が馬」でもあります。しかしそうした複雑な諸相の中にも、わたくしたちは、幾筋かが同時に並行している、真相の筋道を読み取ってゆかねばならないのです。(次回につづく)