社会にせよ歴史にせよ人間にせよ、私たちは理解したり覚えるのに便利なために、単純化し図式化して規定し、議論することが殆んどです。つまりはわかりやすく論理整合的な整理をするわけです。しかし本当の姿というものは、そんなに簡単に色分けしたり、グループに纏めたりはできない複雑な様相がそこには存在しているのです。つまり異なる集団がいくつかあったとして、ある面を捉えると共通しているところがあるし、別の面を違う角度から捉えると、全く異なる面があってとても相容れないところもあるのが実相なのです。

 このことを示しているのは、本ブログ記事でよく取り上げるヴィクトール・エミール・フランクル博士が提唱された次元的存在論の図です。三次元の立体としての円錐形と円筒形と球形を眺めるとき、床面に写る三者の影は全く同じ直径の円形になりますが、向こう正面の壁面に写る影は、三角形と長方形と円形となって、全く相容れません。また右方向から真っ直ぐ光を当てると、向かって左側の壁面に写る影は、たった一つの長方形になるのです。


 さて、今回検討する「企画院事件」も、その実相は様々な解釈や見方があります。第(57)回で取り上げた『昭和政界秘話』と題された『矢次一夫対談集Ⅱ**』(1981年原書房刊)の中から、1980 (昭和55) 年10月15日付『新国策』に掲載された「企画院事件秘話―“近衛つぶし”を狙った謀略? ―」という矢次一夫氏と、勝間田清一氏(元日本社会党委員長)の対談をまずは読んでみたいと存じますが、その前に少し整理しておきましょう。

   勝間田氏は第(70)(74)(75)(76)(84)(87)回に登場した人物であり、この企画院事件で逮捕されましたが、戦後のソ連KGBによる日本社会党に対する裏金支援についても、レフチェンコ氏の証言やミトロヒン文書にコードネーム:GAVRとして登場していました。ご略歴は次の通りです。

・・・勝間田清一氏 明治四一年(*1908年)、静岡県の生まれ。昭和六年(*1931年)、京大農学部卒。協調会、内閣調査局、企画院を経て大政翼賛会組織部に在籍中、「企画院事件」に連座、和田博雄、稲葉秀三、佐多忠隆、正木千冬、和田耕作らの各氏とともに逮捕。(*昭和)二〇年(*1945年)九月、無罪となる。戦後の二一年(*1946年)社会党に入党、二二年(*1947年)、経済安定本部に入って和田(*博雄)長官の秘書官となり、復興策を推進した。四二年(*1967年)、日本社会党委員長、当選一三回。著書に『日本農業の統制機構』など。現在、衆議院議員、社会党社会主義理論委員会委員長。

・・・(上記書**85頁に掲載)

   また矢次一夫氏の来歴は、第(54)回の冒頭でご説明した通りですので、ぜひご参照下さい。

   労働界(労使協調のための協調会)出身にして、後年は統制派と結んで、陸軍省の嘱託、企画院委員、大政翼賛会参与、翼賛政治会理事などを務め、田中隆吉陸軍少将によれば大政翼賛会を裏で操っていたといいます。戦後は政界のフィクサーといわれますが、戦前は基本的に陸軍統制派に近い考え方で、政治経済の国家統制を推進する立場にあったと思われます。

   尚、同上書**に「企画院事件」の説明が掲載されていますので、これも見ておきましょう。

・・・企画院事件(きかくいんじけん) 一九四一年(昭和一六)、企画院内の革新グループが治安維持法違反の容疑で検挙された事件。企画院は第一次近衛(*文麿)内閣に創設された政府機関で、戦時経済の企画と推進にあたったが、星野直樹総裁のときに高度国防国家体制をめざして資本主義に全体主義的な立場からの修正を必要とする「経済新体制確立要綱」を立案した。資本と経営の分離、公益優先を主旨とするこの要綱は、思想的に共産主義的色彩の濃いものとして財界の反対を受け成立せず、四一年(*昭和16年)四月、原案作成にあたった元企画院調査官の和田博雄、勝間田清一、稲葉秀三、佐多忠隆、正木千冬、和田耕作ら一七名が共産主義者と関係があるとして検挙された。事件発生の主な原因は戦時経済体制をめぐる支配階級内部の対立にあり、おりからの近衛新体制運動に反感をいだく内務・司法官僚がこれを推進する「革新官僚」に打撃を加えようとしたものといわれる。第二次世界大戦後の四五年(*昭和20年)九月全員無罪となった。・・・・・・(上記書**84頁に掲載)

 当時の東條英機陸軍大臣やその懐刀の武藤章陸軍省軍務局長、佐藤賢了軍務課長(のち軍務局長)、参謀本部田中新一作戦部長らの陸軍統制派は、二・二六事件処理として陸軍皇道派を排除したのちは、昭和10年の夏凶刃に倒れた永田鉄山軍務局長が追求していた、来るべき総力戦に備えた「国家総動員体制」や「高度国防国家」の推進を図り、企画院を用いて「統制経済体制」の確立を進めていました。矢次氏は国策研究会の活動を主導するとともに、当時陸軍省嘱託として、東條陸相、武藤軍務局長に連なっていました。しかし同じ陸軍部内にも皇道派とはまた別に、統制派を政治に介入し過ぎる「軍閥」として批判する陸軍軍人も存在し、それは一つの纏った派閥ではありませんでしたが、宇垣一成予備役大将や田中隆吉少将、そして終戦時に自刃した阿南惟幾大将もそのような「反東條」の面があったと田中隆吉氏は書き残しています。また三田村武夫氏は、戦時中「東條内閣の倒閣運動」をしていたために、自己の古巣である特高警察に逮捕され、巣鴨拘置所に収監されました。その意味では、東條陸相や武藤局長に近かった矢次一夫氏とは、対立する立場にいました。従って第(87)回で見たように、この企画院事件に対する見解もまた異なっています。

 もとより共産主義者の左翼的立場からすれば、「企画院事件」は当時の内務省特高警察による捏造・弾圧の事件であるという非難になるのですが、当時の財界や資本主義的立場からは、企画院の活動はむしろソ連型の社会主義的経済体制であるとして批判の対象となっていたのです。

 こうしてフランクル博士の次元的存在論の図のように、どの方向から光を当てるか、どの面に投影された形を捉えるかによって、見え方や捉え方が様々に違って見えるのです。この辺りの背景をよく考えて、これから矢次氏と勝間田氏の上記対談を読んでみて戴きたいと思います。(*裕鴻註記)

・・・<企画院事件秘話 ――“近衛つぶし”を狙った謀略?――>

   矢次:きょうは「企画院事件」の話なんだがね、実は夕べ、勝間田君が朝日のカルチャー・センターでしゃべった速記録を読んでみたんだ。どうもこの企画院事件というのは、その前の二回の「人民戦線事件」と、その背景とか性格において似ているんだね。

 ぼくの『政変昭和秘史』の中にも書いたのだけれども、山川均、猪俣津南雄、加藤勘十らを人民戦線事件(*1937年12月及び1938年2月)で引っ張った(*逮捕した)のは末次(信正)内務大臣なんだが、それを近衛(文麿・首相)が非常に憤慨しておるのだよ。末次から自分に事前に何の相談もなかった、これは謀略だ、と。あの時の内閣書記官長は風見章で、内務次官は萱場軍蔵だ。この萱場がうっかり山川らを縛り上げる計画をしゃべって、一度は押さえられたのだ。ところが、内務大臣が馬場鍈一から末次にかわったとたんに、次の日だよ、ぴしゃっとやっちゃった(*逮捕した)。

 君らの企画院事件も第三次近衛内閣(*1941年7月18日~1941年10月18日)ができたばかりの時、これも平沼(騏一郎)が近衛を棚上げしたままやってしまった。平沼派の中核は、萱場次官、橋本清吉・警保局長、村田五郎・保安課長だろう。このグループは末次、平沼がやめたあとも根強く残っていたからね。企画院総裁は星野直樹、次長が住友からきた小畑忠良だ。こういうところが助け舟を出してもよさそうに思うが……。

 <強硬だった星野総裁>

 勝間田:あの時は、稲葉(*秀三)君が先に捕まり、あと、私が捕まるまでちょっと間があった。その時、稲葉君は企画院で物動(*物資動員)計画の責任者だった三浦一雄さんのお供で中国へ行っていたが、帰ってきたら捕まえるという情報が前の晩に私のところにもたらされた。だから私は、これは何とかしなければならんと思って、友人だった警視庁の上村健太郎君のところへ飛んで行ったんです。そしたら、「おれは右翼の係でどうにもならんから、左翼の係を紹介する」といって、内務省保安課長の村田五郎のほうに回してくれた。かつて自民党の政治献金を集める「国民協会」の親方をやっていた人ですよ。

 そしたら私は村田からどなりつけられてね、「なんだ、お前、ここらにまごまごしていると引っ括るぞ」といって、追っ払われた。

 当時、稲葉君は三浦さんの片腕となって物動計画をやっていたので、私は三浦さんのところへ行って、「少なくとも稲葉はそんなことをやっているはずはないし、いずれそれは明らかになることだから、免職にはしないでほしい」と頼んだ。三浦さんも、「その通りだ、ぼくからも話そう」ということになって、小畑次長のところへ行った。「ぜひ稲葉を助けてほしい。少なくとも事情がはっきりするまではクビにしないでくれ」とお願いした。小畑さんも同情して、「星野(*直樹)総裁に相談してみましょう」といってくれた。ところが、星野は即座に「冗談じゃない。直ちにクビを切れ」と強硬なんだ。おそらく星野は事件の背景を知っていたね。だから、その後、ぼくらは一切この人の世話にはならなかったが、稲葉君のクビをつなげることはとうとうできなかった。

 ところが、私と一緒に逮捕された和田博雄さんの場合は、企画院から農林省に移って、当時農政局の調査課長をしていたが、これは、石黒(忠篤)農林大臣が頑としてクビにすることを承知しない。「おれは絶対に和田君を信ずる。そんなことをやる男ではない。和田君のクビを切るというのなら、その前にわしのクビを切れ」といって頑張った。それにもかかわらず和田さんを逮捕したものだから石黒さんは農林大臣を辞任した。これは頑張ったね。だから、和田さんは起訴されただけで、農林省を退官にはならなかった。石黒さんのおかげですよ。その代り、自分が大臣をやめた。

 矢次:星野という男は“満洲のノロ”といわれたくらいで……。

 勝間田:本当に保身の強い男だった。

 矢次:保身が強くて、臆病で、警戒感情ばかりが過度に発達している男だと、これは椎名(悦三郎)がいっているのだ。ぼくがいうのじゃないよ。

 勝間田:ああいう人が企画院総裁になること自体が間違いだと思うね。

 矢次:だから、企画院総裁になった時からみんなに嫌われていた。ぼくも企画院の隅っこに席があった(*企画院委員だった)から、よく知っていたがね。

 <ターゲットは岸(*信介)次官?>

 勝間田:この事件はまことに複雑で、よくわからんところがあるが、背景には平沼(*騏一郎)と近衛(*文麿)の対立があったのは間違いないな。

 矢次:ぼくなんかも実は、その被害者の一人なんだよ。橋本清吉が(*内務省)警保局長の時に、陸軍では武藤章が軍務局長、田中隆吉が兵務局長、内閣書記官長が富田健治だったが、富田と武藤とは書記官長と軍務局長(*陸軍軍政担当)だから、むろん連絡は極めて緊密だな。兵務局長(*軍紀の監督/憲兵:軍事警察を管轄)と警保局長とはこれまた密接なつながりがある。憲兵の親方と警官の親方だろう。ところが、橋本は内閣書記官長に、田中隆吉は軍務局長になりたいという野心がそれぞれあって、その二人が組んだのだ。その十字路に、武藤と懇意、富田と懇意のぼく(*矢次一夫氏)がいたわけだ。そこで、企画院事件が挙げられる頃にぼくが狙われたのだ。

 ずいぶんしつこく憲兵と警察とで狙ったけれども、ぼくの場合は昭和一五年(*1940年)、一年かかって抗争したよ。武藤、富田を追い落とそうというグループの頂点に平沼(*騏一郎)が立っていたのだ。この頃の軍部や官僚の暗闘というものは本当に激しかった。こっちもそう簡単に捕まってたまるかと思うから、抵抗するしね。その中心が村田五郎で、もう一人、警視庁に蓮見とかいう警務部長がいて、これが一連の仲間だ。当時、溜池に“池田”という鳥料理屋があって、そこへ内務省警保局と警視庁と兵務局とが集まって連日、謀議を凝らしておったことがいろいろな証拠からぼくにわかった。

 ただ、ぼくが引っ張られ(*逮捕され)なかったのは、警視総監の山崎巌が抵抗してぼくの逮捕状に判を押さなかったからなんだ。どうしても内務省で引っ張れんことがわかると、今度は憲兵隊で引っ張ろうとしたんだよ。ぼくには陸軍省嘱託という身分が一つあるものだから、そう簡単には捕まえられない。そこで憲兵司令部総務部長の加藤泊次郎(*正くは泊治郎)のところへ上げて、加藤が憲兵司令官田中静壱にぼくの逮捕状の判をもらいに行ったのだ。田中がその書類を握ったまま陸軍大臣東條英機のところへ行き、ぼくの逮捕について了解を求めた。東條は言下に「罷り成らぬ」という決断を下した。「あの男はおれの仲良しであるし、のみならず、あれは陸軍省の嘱託として必要なのだ。指一本触れることはならん」と。それで一件落着ということになるのだね。

 当時、笠信太郎が、経済新体制について意見を求められて、資本と経営の分離論というものを提案した。これは統制経済を進めていく過程においては当然のことなんだが、それを昭和研究会の名前で出した。ぼくの会(*国策研究会)にも笠(*信太郎)がきて講演しているのだが、それも気に入らんというのだね。しかし、そんなことは一つのいいがかりであって、勝間田君たちが狙われて引っ張られた後、最終的狙いはどこにあったかというと、岸信介なのだ。岸こそアカの張本人というわけだ。勝間田君たちは当時、調査官にすぎない。しかし岸の周辺には美濃部洋次、迫水久常、企画院の毛利英於菟、その他のいわゆる新官僚といわれたグループが数十人、徒党を組んでいると警保局や警視庁は見ており、そのリーダーである岸(*信介)を引っ張る(*逮捕する)計画をひそかに立てていた。勝間田君たちも当然、そのグループに関係が深いと見られていたのだろう。岸さんのことは調べられなかったかね?

 勝間田:それは特になかったな。

 <巻き返しに出た旧体制派>

 勝間田:これはいまの話とかなり関連があるわけだけれども、私が戦後、経済安定本部の長官秘書官になった時に、企画院当時の海軍の最高の調査官をやっていた岡野という人が突然、私を訪ねてきて、「勝間田君、企画院事件の真相を知っているか?」というんだね。「いや、詳しくはわかりません」。「じゃあ、話をしましょう」というので聞かせてくれた。つまり、あれは平沼騏一郎と貴族院の菊池武夫……。

 矢次:当時、菊水会にいたね。井田盤楠とか三室戸敬光とか……。

 勝間田:彼らと財界の池田成彬が組んで近衛失脚を目論んだ。そのために池田が平沼の「国本社」に当時の金で100万円という大金(*現在の六億円位か)を出し、それをもって新体制を潰そうとしたわけだ。そのためには、まず企画院の近衛系を潰さなくてはならない。企画院には新体制派がたくさんいるし、特に昔左翼の経歴を持った連中がグループを作ってやっているから、これをまず召し上げ、そして近衛の失脚をはかる――こういう計画をさっきの武藤軍務局長のところへ持ち込んだ。武藤はそれを東條に相談したが、東條は、その人の話ではあまり気が乗らなかったというのだ。しかし結局、「みんながそういうなら……」ということで軽く考えて、承知したらしいのだな。

 新体制とはいうまでもなく、政党を潰して大政翼賛会を作るということだから、議会を大きく刺激したわけだね。もう一つは、お話のとおり、新体制の下で資本と経営の分離をやるという考え方だが、これは財界にしてみれば重大な問題で、その財界および貴族院の要望を基盤に、この際、ぼくらの首をとって、それを足がかりに近衛を倒すという政治的な謀略だった。それが企画院事件の背景だというのがその人の説明だった。

 それに付節を合わせて、ぼくが「ああ、そうか」と思ったのは、私を取り調べたのは警視庁の芦田警部補だが、彼が調べの途中で、「勝間田、尾崎(秀実)が捕まったのでお前たちのほうは軽くなったぞ」というのだね。つまり、尾崎が捕まったことで近衛を倒すという目的が半ば達成できた。それでお前たちのほうは荷が軽くなったと、こういうわけさ。だもんだから、初めは「お前は尾崎(*秀實)と会ったことはないのか、尾崎とはどういう関係だ?」などということを聞いていたけれども、終いには尾崎のことはふれなくなった。

 それから、ぼくより先に逮捕された稲葉(*秀三)君がまだ大森の警察に入っていた時に、奥さんが面会に行ったり、弁当の差し入れに行ったりすると、その都度、私に彼の状況を知らせてくれるわけだけれども、「勝間田さん、主人は尾崎秀実という人のことばかり聞かれるので、不思議がっていますよ。尾崎というのはどんな人なんですか。うちの主人はこの人となにか関係があるんですか?」と聞くんだ。これはのちほどゾルゲ・尾崎事件が出てくる発端だったわけだ。

 ゾルゲ・尾崎事件の摘発は大変な政治的意味があるんだね。そして、その内容が明らかになってくるにつれて、近衛を倒す材料という意味での、ぼくらの企画院事件の比重は下がったわけだ。

 だから、今度は妙ないいがかりをつけてくるのだね。いや、お前らの調査のやり方が悪かったの、大学で講義をしたのが危険思想だったの、どうのこうのの作文をデッチあげた。当時、私は法政大学の夜間部で農業政策の講座を担当していたので、その講義資料を起訴理由に入れたわけよ。新体制を作って経営と資本の分離をやるという考え方は、岸(*信介)さんの考え方であると同時に、さきほど話の出た美濃部洋次、大蔵省の毛利英於菟、迫水久常、これらの人達の考え方だから、捕まえるならこれらにしたらいいのに、ぼくらを召し上げてしまった。

  <一連の狙い撃ち計画があった?>

 矢次:資本と経営の分離を唱えたということで笠信太郎の名前が有名だけれども、笠がそれをいい出すはるか前に、企画院官僚の中では当然、統制経済を推進していくためには両者を分離しなければいけないという論がすでに行なわれていたのだね。特に軍需工場に対しては軍あるいは政府の膨大な資金が投入される。すると、前から持っている社長の保有株なんてものはものの数ではなくなってしまう。それにもかかわらず、その社長が依然会社を管理していること自体が矛盾してくる。だから、もう遠慮なく資本と経営を分離し、管理権は陸海軍が持つことになってこざるを得ないという状況で事態ははるかに先行していたのだよ。笠はそれを器用にまとめただけのもので、その理論を高く評価して目の敵にするのは一種のいいがかりにすぎない、とぼくらは初めから思っていた。ぼくはそれほど大したものだという印象をその時分から持っていなかった。

 ただ、いまの話で思い当たる節があるのは、勝間田君たちが逮捕されて間もない頃ではなかったかと思うが、「次は美濃部(*洋次)、迫水(*久常)だ」という怪文書が乱れ飛んだんだ。ぼくらのところへも舞い込んでくるし、「これは危いな」と思っていた。美濃部や迫水にも、「君たち、大丈夫か?」といったことがある。そしたら、迫水だったと思うが、「行って聞いてこようかな」というので、警視庁だか内務省だかへ出かけた。まごまごしていると引っ括るぞとまでいわれなかったらしいけれども、脅かされて真っ青になって帰ってきたことがあった。いやしくも当時の高級官僚だよ、もう迫水ぐらいになればね。それが警視庁の小役人に脅かされているのだ。だから、そういうグループを狙い撃ちにする一連の計画を持っていたのではないかと思う節がぼくにある。その中にぼくも入っていたということだよね。

  <“権柄づく”の裏側>

 矢次:ぼくの場合は、さっきいったように田中(*静壱)憲兵司令官が東條(*英機)陸相の決裁を受けられず、とうとう逮捕できなかったのだが、その憲兵というのがまことに愚劣にして意気地のない連中だと思ったのは、武藤(*章)軍務局長がぼくに電話をかけてきて、「おい勝ったぞ」というんだね。「実は、さっき憲兵司令部の加藤(*泊治郎)がきていうには、東條(*陸軍)大臣から君を捕まえる話で叱られたらしい。どうも憲兵は時々情報判断を誤って困るんだが、あの野郎がね……」「あの野郎」というのだよ、「君とおれの三人でめしを食いたい。席は自分が設けるといっているが、どうする?」と聞くから、「おれは断わる。そんな野郎とめしを食うのはまっぴらだ」といったのだ。「そうだなあ、おれだっていやだよ。ちょっと待てよ、いま別室に待たしてあるから……」。

 しばらく待つと、「めしを食うのがいかんというなら、せめて会ってもらいたい。どこでもご指定の場所に行くといっているが、どうする? 会うぐらい会ってもいいんじゃないか」と武藤(*章)がいうんだね。ぼくはその頃富士見町に住んでいて、九段の辺を散歩する習慣があったもんで、「いずれ犬を連れて散歩に行くよ」と返事しといた。それからしばらくして、いっぺんあそこの官舎を訪ねた。下にも置かんのだよ。

 その時に、「こいつ、愚劣な奴だな」と思ったのは、こういうのだな。ぼくのことを「先生」というのだよ、年上のくせにね。「私は武藤軍務局長(*陸士25期)より士官学校では数年上(*陸士22期)だ。しかし、彼は陸大に入って首席で出た(*陸大32期)が、私(*加藤泊治郎)は陸大を出ていないから、先輩であるにもかかわらず、私のほうから敬礼しなければならない。われわれ憲兵というのはしがない身分で、武藤軍務局長から“あれをクビにしろ”といわれたら私のクビなんか即座にとぶのだ」というようなつまらんことをくだくだしゃべる。なぜそんなことをおれにいうのかなと、こっちは腹の中で軽蔑したよ。つまり、「今後よろしく」ということなんだな。いまさらなにをいうか、散々人を悩ましておきやがってね。憲兵というのはいったん手がつけられんとなると下にも置かずちやほやするのだ。

 いまのゾルゲ・尾崎(*秀實)事件の時でも、後で聞くと、松本重治も呼ばれて、「所感をうかがいたい。どういう判断をお持ちなのか」と聞かれたらしいが、ぼくも実は呼ばれたんだ。これはかまをかけたんだね。(*下線部は原著では傍点)

 それ以後、「引っ張る、引っ張る(*逮捕する)」という話は消えてしまったが、昭和一八、九年頃か、また妙な話がある。というのは、笹川良一がある時、「めしを食いに行こう」とぼくを誘いにきた。「どこに行くのだ?」と聞いたら、「ちょっと私のところへきてくれ」と。橋本清吉が待っていたのだね。「かねていろいろなことで大変ご無礼をしました。どうぞこれで済ましてください」といって、笹川を立会人にして平身低頭、謝ったよ。だからぼくは、「君、事情を説明したらどうだ」といったんだが、それはせんがね。

 そういうことがあって、ぼくの場合は済んだのだけれども、考えてみると、君の場合もそうだが、ぼくの場合も奇々怪々なのだよ。まあ、わかってみれば極めて簡単だがね。やっぱり狙いは岸(*信介)にあり、さらにその奥には近衛(*文麿)がいた、という感じがするね。

・・・(**前掲書83~92頁)

 まだまだ興味深い話が続きますが、紙面の関係で今回はここまでとします。(次回に続く)