前回に引き続き、「天皇・嵐の中の五十年**」と題された「矢次一夫対談集Ⅰ」(1981年原書房刊)に所収されている、明治31,32年生まれのお二人、矢次一夫氏(1899-1983)と安岡正篤氏(1898-1983)との対談から、まずは別の部分を読んでみたいと存じます。

   矢次一夫氏は、戦前日本の労使紛争調停の専門家であり、佐賀・鍋島藩出身の医師の父と看護師の母の間に生まれましたが、早くして母を亡くしてからは祖父母に育てられた方です。小学三年生から祖父に毎日一時間「四書五経」の素読をさせられて育ちました。しかし新しい継母のもとでの生活が嫌で十六歳で家出し、ほとんど騙されたような形で、八幡製鐵所や徳山燃料廠の人夫部屋に連れ込まれ、肉体労働の現場を経験するなどの苦労を重ねました。ようやく人夫部屋は脱出しましたが、その後も力自慢を活かして成人になるまで、神戸港で沖仲仕をやっていました。こうしてご自身が、若い頃から過酷な労働現場を経験して労働問題に関心を抱き、徴兵検査を機に一旦故郷に戻ったあと、当時の早稲田大学の講義録などを入手して自学自習し、当時日本に入ってきていたマルクス主義についても、かなり勉強しています。

   そして、大正10 (1921) 年に上京し、一時はのちに二・二六事件に連座したとされ、陸軍軍法会議により銃殺刑に処せられた、北一輝の家の食客にもなりましたが、「北の陰怪な性格に次第に怖れをなして」、一ヶ月ばかりで飛び出したといいます。紆余曲折ののち、財界と政府が資金600万円(当時)を拠出して作った財団法人協調会に就職します。「協調会」は当時勃興してきた労働運動への対策として設立された機関でした。そこでキッコーマン野田醤油の労使紛争のスト調停を成功させ、大正14 (1925) に独立して労働事情調査所を設立、昭和12年には国策研究会を設立し、のちに両者を合併して終戦まで政治的活動をしていました。この間、陸軍省から請われて、国策研究の嘱託にもなっています。

   またあるときは、当時の非合法時代の共産党指導者たちと酒を飲み遊んだこともありました。例えば、渡辺政之輔(通称:渡政)・第二次共産党委員長は、のち上海からの帰途、台湾基隆港で警官隊と銃撃戦になり、巡査一名が翌日死亡するも、彼も銃弾を額に受けて死亡。自殺説と銃撃による死亡説がありますが、いずれにせよ当時の共産党は武装闘争の時代でした。この渡政など共産党闘士たちと、若き日の矢次氏は、共同印刷の労使紛争などを通じて交流がありました。こうして陸軍省から共産党まで、左右両翼の幅広い交流と人脈があったのです。

   戦後、公職追放となり、東京裁判の証人喚問などを受けましたが、昭和28 (1953) 年に国策研究会を再建し、中華民国(台湾)との交流を促進する日華協力委員会を設立、また韓国との国交正常化などにも尽力しました。その豊富な人脈や、さまざまな経験と知見から、戦後は歴代政権の外交政策にも協力しつつ、その影響力を発揮しました。何しろ矢次氏は直接、中華民国(台湾)では蔣介石総統、大韓民国では李承晩大統領、朴正煕大統領、全斗煥大統領、そして中華人民共和国では鄧小平氏と、それぞれ直接会った人です。これだけでも矢次一夫氏が、並み大抵の人物ではなかったことが、お判りになると存じます。

   一方の安岡正篤氏は、前回少し触れた通り、大阪の四條畷(*旧制)中学校から第一高等学校に首席で入学し、東京帝國大学法学部政治学科を卒業して、一旦文部省に入省しましたが、半年で退官して、大正12 (1923) 年皇居内に設立されていた社会教育研究所で講義を受け持ち、その後学監兼教授、教育部長となります。また、自身で東洋思想研究所、金鶏学院、日本農士学校、国維会などを設立し、東洋思想に根ざした伝統的日本主義を講じました。その造詣の深さから、本シリーズでも見てきた終戦のご詔勅を刪修したことでも知られています。戦後は公職追放のあと、師友会を設立し、古典的東洋思想の普及に尽力しました。また戦後の歴代総理への御意見番としても知られています。こうしたお二人の対談には、常人には計り知れぬ奥深さや、高遠宏大な視野に基づく見解が散りばめられているのです。それでは上記書**の「新春放談」(昭和47 (1972) 年1月5日付『新国策』記事)から、以下の部分を読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・〔砂を噛むような日本の社会主義〕

 安岡:しかし、今日(*1972年当時)のような教育をやっておったら、これはいかんね。

 矢次:その教育がいちばんいかん。日教組というような、ああいう馬鹿げた、社会主義者としても頭の悪い――社会主義なら社会主義でいいんだよ。社会主義というものも、ヨーロッパの社会主義は一種のロマンチシズム、ヒューマニズムに裏付けられてスタートしているんだけれども、こっちのは貧乏人のひがみ根性から生まれてきたような社会主義でね。

 安岡:社会主義と称する、はなはだしい非社会主義だね。

 矢次:あんな社会主義は世界中にない。どこにもないね。ヨーロッパあたりの社会主義は、ロバート・オーエン、サン・シモンの昔から、多くのロマンチシズムが……。

 安岡:宗教にも文芸にもつながっておるが、日本のはどうも実に、砂を噛むようなつまらない社会主義だな。

 矢次:こういうことは言えないだろうかと思うんだが、ヨーロッパの歴史をいろいろひもといての印象なんだけれども、連中の場合には、その国の中に異民族、異種族がいるでしょう。その種族征服の歴史の中からその国ができて、その国の中で階級に転化したということだから、その階級に転化する前のその種族の中には、やはり優秀な血もあれば、人材もいたと思われる。だから、階級闘争を通じて、新しい人材が非征服階級、非抑圧階級、あるいは被支配階級の中から出る可能性が、ぼくはあると思うんだな。そういうものが革命という手段を通して政権を獲得するということ、それはある程度肯けるんだね。ところが日本は、これは単一民族だね。数千年前には、あるいは異種族がおったかもしれないけれども、ことごとくこれは同化してしまって、あとは在留しておる朝鮮人ぐらいで、大部分はこれは単一民族である。したがって、日本にはそういう意味の種族闘争はなかったし、種族闘争から階級闘争に転化するという歴史が全然ない。

 日本の経済学者、これは人によるけれども、日本には奴隷制があったかどうかについての疑問を提出する人もあるし、奴隷経済はあったかもしれないけれども、それはいつの間にか消滅しておるし、ああいうスパルタクスみたいな凄惨な奴隷解放の戦いは、日本の歴史上にはない。あっても、ほんの部分的なものに過ぎない。というようなことで、階級支配が政治的には行なわれていないから、人材が抑圧されて百年も数百年も鬱屈したままにおるなんということが、なかったんじゃないかな。

 〔貧乏人はいてもプロレタリアはおらん〕

 だから、日本の無産階級運動を見ていると、歴史的にはやはり支配階級に属する。お互い懇意であった赤松(克麿)君にしても、麻生(久)君にしても、むしろ地方の豪農であったり、あるいは指導階級であったり、インテリであった。ヒューマニズムの気持で社会運動に飛び込んできたそういう連中が、むしろ日本では代表的なプロレタリア運動者なんだね。こういうことは、ロシアのナロードニキかなんか、ある一時期にあっただけで、ちょっと例がないんだよ。世界史の上で見てもね。

 いつだったか覚えていないけれども、岡山県で四十何年、孤児院を経営していた人がいたんだよ。ぼくが若い頃に一ぺん訪問したことがある。戦争の始まる少し前だったと思うが、彼がその孤児院を解散したんだ。それはなぜかというと、その人が孤児院を始めた動機が、貧乏なみなし子の中にも人材があるだろう、それを発掘し育てることによって国に奉公ができるだろう、と考えた。しかるに四十年やってみて、遂に一人の人材に会わず、わが生涯を浪費したと慨嘆して止めた。そういう人があるんだね。これは有名な孤児院だったけどね。

 だから、日本には貧乏人はおるけれども、プロレタリアはいないと言うんだよ、近代的な意味におけるね。こういうことを言うと、近頃の駈け出しの若い社会主義者諸君は憤慨するかもしれんが、よくこういうことで、ぼくらは若い頃、共産党の諸君と議論したものだけれどもね。共産党に入った諸君といえども、みな地方のリーダー階級か、その周辺の人であって、純粋な意味の貧農から出ているのは少ない。日本の産業革命が新しいから、産業界から出る可能性はむろんなかったんだけれども、出れば幕末以後の貧農から出なければならないはずだが、それもなかった。むしろこれは明治維新以後、軍隊に入って出世する方に行っちゃっているんだね、歴史を見ると。

 だからぼくは、日本を一つ覚えのマルクス式弁証法で割り切らないようにしなさいと、よく言うんだが、なかなかいま(*1972年当時)の若い人は、頭が悪いのか勉強しないのか……。あれは一番頭の悪い奴にわかる簡単な方式だからね、マルクス主義というものは。

 安岡:簡単に割り切ることだからね、あのイデオロギーというやつは。(*中略)

   〔お悔やみ状の最後に「金よこせ」と……〕

 矢次:マルクスというと、資本論に目鼻をつけたようにいま(*1972年当時)の諸君は言うけれども、マルクスの話が出たからついでに言うが、彼がロンドンの亡命時代には、エンゲルスに金を送って貰っていたんだね。ところがあるときに、余計な金を無心して送って貰ったんだ。ところが、なかなかマルクスから受け取ったという手紙が来ない。それでエンゲルスが心配して、「どうしたのか、まだ金が着かないのか」と言ってやったら、マルクスから詫び状が来て、「実は女房がヒステリーを起こして、このところ非常に困っている。女というものは、少しばかり貧乏をしたり困ったことがあったりすると、世の中に自分ほど不幸な者はおらんように思い込んでしまう。そのためにさんざん悩まされて、せっかくに君に送って貰った金の礼状も遅れてしまった」という言い訳をしてきた。この手紙が、確かマルクス・エンゲルス全集の「往復書簡」の中にあったと思うんだよ。

 安岡:いつもマルクスはエンゲルスに無心を言っているね。

 矢次:いい友だちだったと思うんだね。

 安岡:ぼくが読んだ記憶では、エンゲルスの女房が亡くなったんだが、その時にマルクスが悔み状を出して、その悔み状のしまいのところに、金をよこせということが書いてあったようだ。するとエンゲルスは非常に憤慨して、怒った手紙を叩きつけておるが、それに対してまたマルクスが詫び状を出しておるね。

 矢次:あの手紙が面白かったという記憶がある。しかし、そのマルクスが、パリ・コミューンのあとだろう、赤貧洗うがごとくしてロンドンに亡命する直前に、ある人物から、「お前もひとつドイツ革命をやれ、武器も金も応援してやる」と言われたときに、彼(*マルクス)が憤然として、「ドイツの革命はわれわれがやる、諸君の厄介にはならん」と言って、申し出を拒んだという記録を読んで、やっぱりドイツ人だな、という印象を、若い頃だけれども持った記憶がある。

 それから、エンゲルスから、「近頃ヨーロッパにマルクス主義者というものがいるのを君は知っているか」という手紙が行っているのだね。その時にマルクスが、「オレはマルクス主義者にはならんよ」と言っているが、これは痛烈な皮肉だね。いまでもそういうことを言いたい感じがするんだけれどもね。どうも、マルクスが生きておったら、この男を訪ねて行って一杯飲もうかと自分は考えるだろうか、と思うことがあるけれども、あんまり酒のうまそうな男とも思えないけれどもね。(*中略)

   矢次:しかし、革命家的人物というものには友だちがいないのだろうな。

 安岡:どうも、いわゆる革命家というものはみんな孤独じゃないのか。

 〔孤独な謀反人・北一輝〕

 矢次:孤独だな。お互いよく知っている北(一輝)にしても、人を利用する権変が激しかっただけに、これも友だちがいない。

 安岡:大川周明とも離れてしまったからね。

 矢次:大川のほうはまだいくらかドン・キホーテだっただけに、多少ついている者が多かったけれども、北の場合にはやはり孤独だったと思うね。しかし、やはり珍しい性格の人物だったね。

 安岡:日本人には珍しいね、

 矢次:あれはやはり佐渡の謀反人の子ということで、そういう不平と謀反気で流された奴の血を塗り固めたようなところがあるなあ、と思ったことがあるね。(*中略) 非常に性格が激しい。やっぱり振幅が大きいのだな。感情の振幅が激しいのだ。機嫌のいいときには馬鹿にいいけれども、一つなにか間違うと手がつけられないようなところがある。確かにマルクスにもそういうところがあると感じたが、革命家的な性格の人にはそれがあるのかなあ、と思ったりしたもんだが……。

 安岡:あと日本に革命家と言われるような人はいないね。社会党を見ても共産党を見てもね。

 矢次:日本にはいない。悪知恵や屁理屈の達者な人は割にいるけれどもね。日本の社会主義運動の歴史を通じて、もしも革命家的なタイプを求めれば、麻生久(*1891-1940、社会大衆党党首、旧制第三高等学校から東京帝國大学仏法科卒業、東京日日新聞記者出身の政治家)しかいない、わずかに。しかし、これも……。(*後略)・・・(**前掲書181~191頁より部分抜粋)

〔 左写真:安岡正篤氏、右写真:矢次一夫氏 〕

 同書**には、「日本の岐路に立った三人」として、永田鉄山陸軍中将、北一輝、そして上記の末尾にも出てきた麻生久の三人が取り上げられています。この三章は、矢次一夫氏の人物論評なのですが、大変優れた内容を持っています。この絶版の書をぜひ皆さんも古書店で入手され、できれば全文を読んでみて戴きたいのですが、ここではその「触り」として、上記のうち「濁流に泳ぐ麻生久」の章から、その一部分をご紹介したいと存じます。

・・・〔激動する社会情勢〕

 麻生(*久)が軍部(*陸軍)と連携し、もしくはこれを政治的に利用しようと考えた事情については、幾多の理由があったように思う。当時の記憶を喚起しつつ、私が理解したかぎりにおいて、彼の連軍工作について述べれば、だいたい次のような情勢を前提としていたことを認める必要がある。

 一、日本の社会運動は、発足の最初から苦難の途を歩いているが、これには内外にわたる多くの理由があり、とくに日本資本主義に内在する諸問題があって、きびしい弾圧の嵐の中に育てられている。したがって社会運動者としては、資本家は頑迷で、既成政党は横暴であるとの強い印象があり、反感や憎悪の念で対立する気風が次第に激化したこと。

 二、だから漸進的な政治的経済的改革運動に失望したり、漸進的改革運動に踏み止まろうとする者を軽視したりする風を生じ、過激急進の傾向に走る者が人気を博するという不健全な風潮が、強く、広く、潜在していた。これは、事実の経過に見るも、明治以来の歴代政府は、漸進的改革としての社会政策など、いかに識者が要求しても耳を貸そうとはしていないし、そのくせ、暴力事件が突発したりすると、あわてて一時のごまかし策をとったりしているのである。早い話が恩賜財団済生会が設立されたのは、幸徳秋水らによるいわゆる大逆事件の結果であることは、広く歴史的に知られている通りであるが、同様のことは、今日の中労委の前身、協調会にしても大正七年の米騒動の結果、当時の政財界人が、六百万円の金を出して設立したものであり、いまどうなっているか知らぬが、三井財閥が三千万円を投げ出して作った三井報恩会なども、五・一五事件、及び「陸軍パンフレット」事件で知られる軍部青年将校らの強烈な改革精神の表明が、主たる動機となっているのである。

 三、かような、大正から昭和にかけての資本家的勢力の態度は、国民的または社会的正論に対しては、まじめに話し合おうとはしないが、理不尽な暴力の前には、他愛なく屈服するものだとの印象を、広く鮮明にした。労働者の保護立法は遅々として進まず、労働組合法などの制定も、いくたびか国会に提案されながら、今日の日経連の前身たる全産連によって、圧殺されてしまい、幾多の労働争議も、合法的な安全性を付与さるるにいたらなかったから、自然行き過ぎた鋭角的な傾向をたどるばかりであった。

 いったいに、日本の経済社会には、昔からゴロツキ雑誌やユスリ新聞などが繁昌する傾向があるが、これはゴロツイたりユスッタリしなければ、経済社会には正当な出資をする者の稀少なことを示すものであり、まじめな雑誌や、社会事業家や、政治家ほど貧乏しておる傾向と表裏するものであろう。そして、この傾向は、戦後に及んで病膏盲に入るの感が深いが、ストライキをしない労組が、ストライキ常習の労組よりも恵まれるという諸条件が成熟しないかぎり、健全な労使関係は生れず、経済界の平和は維持されるものではなかろう。かくて、小にしてはゴロツキ雑誌から、大にしてはストライキ、さらに大にしては五・一五や二・二六事件などの暴力事件を激発した根源は、政治家や資本家たちの頑迷さ、わからなさにあったのである。

 わが国における無産政党運動は、関東大震災直後の普選(*普通選挙)実施声明をきっかけに、急激に気運がたかまって、大正十四年八月、日本農民組合の提唱を媒介に、同年十二月一日、「農民労働党」として生れたが、これはしかし、結党三時間にして政府の解散命令でつぶれた。理由は共産党分子が包含されているというのであったが、その後、共産分子を排除し、十五年三月、「労働農民党」として再生された。

 この党は日本最初の単一無産党であったわけだが、以来、左右両派の抗争が激しく、結党七カ月にして分裂、それから全く対立抗争の時代に入り、社会民衆党、日本農民党、日本労農党の四つに分立した。さらにその後、三・一五事件、四・一六事件などの共産党検挙事件が起こってから、アミーバの如く分裂、合同、分裂を繰り返したが、これを麻生(*久)の率いた党だけに限局してみるも同様であって、日労党から紆余曲折して六年七月、全国労農大衆党に発展するという具合である。(*中略)

 既成政党と資本家による社会運動弾圧方針は、昭和初頭の金融恐慌と、世界的規模における経済恐慌の発展と相俟って、一層、日本の社会運動を不振に陥れたが、さらに満洲事変の勃発と、その後の国際的緊張の増大は、国家主義の台頭とともに、ますます社会運動を頓首頓足せしむる結果となった。組合も政党もストもみな「赤」だとする批判が、昭和三年の最初の普選による無産党代議士の出現でひどくなった。

 ところで、社会運動の不振沈滞とは反対に、陸軍現役青年将校を中心とする国家革新の運動が台頭するに至った。これは、昭和初年の恐慌が農村から起こり、食えない農村に兵力の給源を持つ軍部は、農村救済に怠慢な政府への反感と、財閥の横暴への怒りとなったこと。ソ連における相次ぐ五カ年計画の伸展と、アメリカにおける大軍拡運動の発展とが、日本軍部を焦燥に駆り立て、米ソがともに大軍需工業の充実に懸命の努力を傾注しているとき、日本は軽工業や雑品工業の輸出でチープ・レーバーの国際的非難を招きながら、国力の充実とは金貨の国際的獲得にありとする貿易政策に、軍部はひどく腹を立てたらしい。そこへ満洲で張作霖がソ連と武力衝突をやらかして失敗したことは、極東における反共の防塁一挙に崩れ去ったような不安におびえ、広域国防圏の設定にしゃにむに前進を開始する動因となった。そこで、話のわからぬ政治家は力で引きずろうとし始め、強欲な資本家も力で押え、そして必要な軍事費と農村救済費とは、有無を言わさず議会から巻き上げるということになってしまった。

 三月事件や十月事件は、これらの動きの行き過ぎであろうし、満洲事変の勃発は、広域国防圏建設への基本的活動であったろう。しかし根底は反共であり、対ソ対米への大軍事国家建設への急ピッチな政治的欲求であったと思う。この欲求が、国家主義の方では天皇共産主義やら、錦旗革命論とやらになったり、軍部のインテリ政治将校の間では、ときに社会主義まがいの発言となったり、その他さまざまなテンヤ・ワンヤとなったのであろう。表面をにぎやかに飾った各種のテンヤ・ワンヤだけを見ていると、ちょっと判断にまごつくところがあるが、一貫した流れは、広域国防圏の建設、大軍事国家への大急ぎの発展、内外にわたる強烈な武断政策というに尽きる。

 大正、昭和の資本家的勢力は、社会運動という正統児の成長と発展を苛烈に歪曲したお陰で、軍部(*主に陸軍)を中心とした右翼急進主義の鬼子を育ててしまい、そろばんに合わぬ大失策をやらかしたが、それはともかくとしよう。麻生(*久)はかかる当時の情勢の中にあって、いかなる政略に基づいて連軍工作をしたかという問題、これを次に究明してみようと思う。

 〔左右両派の戦略論争〕

 大正の末期から、昭和の初めにかけて、共産党の革命戦略論に対し、反対の戦略論が台頭していた。そしてこれはとくに、共産党のかかげた天皇制否定に立脚するいわゆる二段革命論、すなわちブルジョア民主主義の革命から社会主義革命への移行、という方式に対して天皇制を利用し、もしくは擁護に立脚した点において、この戦略論は特徴的だったと思う。私などもこの時代は若かったから、毎日のように戦略論争に花を咲かせ、共産党の諸君にも議論を吹きかけて楽しんだ記憶がある。しかし今日となっては、すでに古い昔のことではあるし、記憶もだいぶん薄れてしまい、ことに天皇制を中心とする論争だっただけに、筆にしたり、公論したりする自由もなかったから、文献として手許に残っているものもない。そこで薄い記憶をたどって当時の戦略論の大要を紹介すると、大ざっぱにいって、次のようなものではなかったかと思う。

 一、日本の支配機構が天皇制を頂点とした軍・封(*建)的なものであるとする説には、共産党が指摘するところに影響を受けていたようだが、しかし支配的実力者が天皇制だとする説には反対で、資本主義にこれを求める点では高畠素之、北一輝らのインテリ右翼の間に共通し、そしてこれは、猪俣津南雄らの労農派理論ともどこかに通ずるもののあったことは面白いと思う。

 二、したがって、天皇制は資本主義政治のもとでは虚位に過ぎぬとし、天皇制に依存した封建的要素は、資本主義政治形態の発展に伴って止揚されるという必然論は、マルクス主義者の分析と共通していたようだ。

 三、共産党はここから資本主義政治形態の発展、封建的諸勢力の止揚を推進する立場をとるのに対して、右派はこの点から戦略的に分裂するのである、すなわち、資本主義政治勢力と封建的政治勢力との対立、抗争に対しては封建的政治勢力を利用、支援し、資本主義の止揚に向かって闘争しようとする。この立場を戦略的に強く打ち出したものは、周知のように北一輝とその一党であるが、これは同時に、当時のインテリ右派に広く共通したものであり、ある者の間では理論として、ある者の間では気分として、深浅の差があったに過ぎないのである。

 資本主義的政治勢力と封建的政治勢力との格闘について、当時の右翼戦略家の主張した「くさび打ち込み論」、「闘争の激化とその利用」は、すでに大正末期から昭和にかけての政治史が、具体的にこれを実証しているから、多くを語る必要はあるまい。大川周明派の闘士であった故松延繁次が、好んで私(*矢次一夫氏)に力説していた戦略論など、たとえば山本権兵衛の地震内閣(大正十二年)が声明した「普通選挙即行声明」の政策にしても、これは封建的政治勢力が、新興する無産階級の政治勢力に対する媚態と見、原の政友会内閣が、普選(*普通選挙)実施に反対した態度と対照することによって、資本と封建と無産との三派勢力の力関係を分析していたことが思い出される。

 したがって彼らの説によれば、北(*一輝)が朴烈文子の怪写真事件を暴いたのも、不戦条約問題に火をつけたのも、原則的には、資本勢力と封建勢力との闘争への「くさび打ち込み作戦」のつもりであり、そしてとくに、昭和初頭の政界を震撼したいわゆる「国体明徴問題」をめぐる紛争なども、大正後期からの継続的作戦をもり上げた封建的勢力への支援、資本主義的政治勢力への攻撃作戦として見るとき、初めてその意味が理解されると思う。そして私どもに、大正後期の政界で、護憲三派内閣以後、残燭的存在に過ぎなくなっていった封建的諸勢力が、国体明徴問題を通じて、いちじるしく守勢から攻勢へ、さらに積極的支配勢力へとのし上がってきたことを、大きく認めなければならない。

 以上は、ちょっと舌足らずの説明で恐縮だが、この概観を通じて諸君の中には、右派の戦略論に共産主義の臭味を印象された人があるかもしれない。今日生き残りの右派の諸君の中には、かつて天皇共産主義者などという珍妙な分類に入れられた人や、少なくとも錦旗革命論者と見られた人々もいるが、私のいわゆる共産主義戦略の裏返し説には強い反発を示す人もいるであろう。戦時中、近衛(*文麿元首相)は天皇への上奏文の中で、「軍部や右翼の中には共産主義者がいる」ことを力説し、戦争から革命への左翼戦略を恐怖している箇所があるが、事実問題として共産主義者がいたかどうかはともかく、この主張や戦略に多くの類似性があったことは、近衛のみならず認めた人が多かったようである。・・・(**前掲書119~126頁より部分抜粋)

 このように意外な左翼と右翼の理論的共通部分が指摘されているのです。(次回へ続く)