昭和10年(1935年)5月、岡田啓介内閣時代に内閣総理大臣直属の「内閣調査局」がまずは設置されましたが、昭和11年の二・二六事件で岡田内閣が倒れ、それ以降、台頭した陸軍の統制派による統制経済への志向と、各省庁の革新官僚らが次第にここを牙城にして権限を強化してゆきます。そして陸軍出身の林銑十郎内閣時代の昭和12年(1937年)5月に、内閣調査局が再編強化されて「企画庁」となり、更に日華事変勃発後の同年10月に内閣資源局と統合して「企画院」が誕生します。

 ここに至るまでには、まず昭和6年(1931年)7月に濱口雄幸内閣で「重要産業統制法」が公布され、同年10月には満洲事変が勃発し、昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件から日華事変が始まっています。日本は急速に戦時経済の様相を深めていくのですが、これに呼応するように、軍需物資の調達・管理・補給のため国家統制管理が強化され、この後昭和13年(1938年)5月には第一次近衛文麿内閣時代に国家総動員法と電力管理法等が施行されました。これは第(88)回でも取り上げた通り、陸軍省軍務局が主導した国家総動員体制の推進の流れに即したものでした。当時陸軍行政の中枢にいた陸軍省軍務局軍事課の西浦進陸軍大佐(当時中佐、陸士34期恩賜、陸大42期首席)は、昭和43(1968)年「日本近代史料研究会」刊行による非売品「西浦進氏談話速記録」を再刊した平成26(2014)年日本経済新聞出版社刊「昭和陸軍秘録 軍務局軍事課長の幻の証言」のなかで、次のように語っています。

・・・あれはジリ貧論のはじまりですよ、あの時分は。(*昭和)一五(*1940)年と言いますと、もう物動(*物資動員)が苦しくなり出したのは(*昭和)一三(*1938)年ぐらいからで、一三年、(*昭和)一四(*1939)年からぐっと苦しくなりましたから。

(「――一三年、一四年と物動が始まったばかりでしたが。」という質問に)

 ええ、しかし、その時分はもう苦しいのです。苦しいから物動を始めたのですからね。(笑い)・・・(詳しくは、本ブログ別シリーズ『なぜ日本はアメリカと戦争したのか(41)「軍事合理性」が南部仏印進駐をもたらしたのか』ご参照。)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12424261265.html

 つまり日華事変は既に膨大な国費と物資を費消していたのです。従って、陸軍も必死になって国家総動員体制と統制経済を促進せざるを得なかったのが実情だったのです。そしてこの陸軍統制派の中枢幕僚陣と企画院の関わりを見てみますと、昭和9年(1934年)10月に所謂「陸軍パンフレット(国防の本義と其強化の提唱)」を共同起草した池田純久陸軍中将(陸士28期、陸大36期)は、昭和12年(1937年)9月にまず統合前の資源局企画部第一課長、続いて同年10月には企画院調査官(当時中佐)となり、上記の国家総動員法の制定にも携わりました。この「陸軍パンフレット(通称:陸パン)」は、志半ばで凶刃に倒れた永田鉄山陸軍中将(陸士16期首席、陸大23期次席)が鋭意取り組んでいた総力戦に対応するための高度国防国家(国家総動員体制)の構築に具体的なヴィジョンと道筋を描出したものでした。その基本的な志向性については、本ブログ記事『大東亜戦争と日本(34)「陸軍当面の非常時政策」を読む』をご参照下さい。

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12639529861.html

 これ以外にも、秋永月三陸軍中将(陸士27期、陸大36期)が、昭和13年(1938年)3月から企画院調査官(当時大佐)になり、昭和16年(1941年)4月には企画院第一部長(当時少将)に就任しています。また東條英機陸軍大将(陸士17期、陸大27期)の側近、鈴木貞一陸軍中将(陸士22期、陸大29期)は、昭和10年5月に内閣調査局調査官、昭和12年10月に企画院調査官、そして昭和16年には第二次・第三次近衛内閣と東條内閣で、企画院のトップである総裁を務めました。

 こうして帝國陸軍中央中枢と内閣直属の企画院は密接に結び付きながら高度国防国家の完成を目指していったわけです。ここからは、その企画院が著した『国防国家の綱領』の内容を、前回に引き続き、三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略**―戦争と共産主義―』(昭和62(1987)年自由社刊自由選書版、初版は『戦争と共産主義』昭和25(1950)年民主制度普及會刊)資料篇から読んでみたいと思います。(*裕鴻註記、旧仮名遣いや漢数字等表記も一部補正。尚、原著の傍点部は下線部として表記。また文中の「――」は著者三田村氏による省略部分。)

・・・国防国家の綱領*** 企画院研究会著 (昭和16年11月17日第一版発行、新紀元社刊)


   〔原*註、本書***は十二項目からなり菊版二九八頁の相当大部のものであるが、内容は「第二次近衛内閣が、昭和15年(*1940年)8月1日に発表した基本国策要綱の各項目に対して出来得る限り平易簡明な解説を加えた」もので「わが国に於ける政治の現実として国防国家体制確立への志向が、かくまで具体的に、系統的にとり上げられたのは、この基本国策をもって嚆矢とする」「各項目別に執筆者が異っているので、文章の形式などかなりまちまちであるが、志向するところは殆んど間然(*かんぜん)するところなく一致しているはずで」「それぞれの政治的運命の動的な相の中で掴かんでいる」(第一版序文)と言い、「大東亜戦争における赫々たる勝利が我が国防国家体制の確立によるところは言を俟たない。しかして国防国家体制の確立は第二次近衛内閣の設定した基本国策要綱、並びにそれを詳細に規定せる経済新体制確立要綱以下の諸国策要項に基くところ絶大と考えられる。本書***は各項目について策定当時の事情を熟知する企画院研究会同人が解説を行ったもので」「初版刊行以来熟烈たる江湖の御支援を得たことは本会の洵に光栄とするところ」(昭和*18年(*1943年)5月30日第四版序文)と言っている。――日華事変の拡大と共に戦時国策の企画立案を担当して来た企画院の所謂進歩的革新官僚が「一致して志向し」「政治的運命の動的な相の中で掴んでいたもの」が果して、何であったのか、以下本書***の中からその要点を抜萃してみよう〕

           1の(一) 世界戦争ははじまった

 昭和16年(1941年)6月22日を期して、第二次欧州戦争と支那(*日華)事変はついに完全に一つの世界戦争と化せしめられた。独ソ開戦を機として、欧州と東亜における二大戦争は東西の二大新秩序建設戦を、文字通り世界新秩序建設戦、即ち世界維新戦にまで高めてしまった。

 独ソ開戦は、直ちに東亜の事態に影響を及ぼし、今なお重慶に余喘を保って抗戦の叫びを続けている蔣(*介石)政権をして、いよいよはっきりと英米の手先であることを暴露させ――今や英米ソ支(蔣政権)による対日包囲陣形が、着々として進行しつつあるかに見える。かくして複雑微妙に展開する国際情勢の進展は、大東亜共栄圏の確立に邁進する皇國日本をして、いつ如何なる事態に立至らしめるかも知れぬ。真に一触即発の危機に立たしめ、東亜の風雲ますます急を告げて、太平洋の波はまさに高からんとしている。

   真に皇國日本の現状を凝視するとき、未曾有の難局は犇々(*ひしひし)とわれらに押寄せ、国防国家の建設、国家総力戦体制の整備なくして、この超非常時局の突破は期し難きを覚えしめるのである。世界戦争ははじまったのだ、国民は一致団結してこの危局を乗切らねばならぬ。(***本書一乃至三頁)

           (二) 転換期の世界史的意義

 世界戦争の渦中にある現代は大いなる世界史の転換期である。――開戦以来幾多の国家が治乱興亡の夢慌しく世界地図から忽然と姿を消した。この国家興亡の歴史の底を貫く流れは一体何であろうか。われわれはこの世界史的な転換期の意義を、まづはっきりとつかまねばならぬ。

 それはこの世界戦争を通じて、近代社会が営んで来た生活体系を根本的に修正し変革しようとしつつあることである。第一次欧州戦争は近代世界秩序の支配者であるイギリスに対して、後進国であるドイツが同じ世界観の上に立ってこれを破ろうとした戦いであったが、今度の世界戦争は新旧世界観の戦いである。そこに大きな相違がある。それは単なる世界地図の塗替えではない。近代を支配して来た法律を変革し、政治を変革し、社会、経済を変革しようとするものである。

   ――近代世界秩序を支配した世界観は、自由主義であり、個人主義であり、営利主義であり唯物主義であった。この自由主義、個人主義、営利主義、唯物主義の世界が没落して、全体主義、公益優先主義のより高い人類文化が、これに代らんとしているのが、今日の転換期である。

 人類歴史の流れにおいて、進歩と発展があるとすれば今こそこの自由主義、個人主義を清算し廃棄することこそ、*歴史必然の運命であって、古き政治、古き経済、古き文化の一切が、この*歴史転換の過程で批判し、検討されねばならぬ。(同上三乃至四頁)(*この太字部分は裕鴻による。史的唯物論の発展段階説を思わせる記述。)

           <(三)、(四)略す>

           (五) 満洲事変の意義

 満洲事変は、第一次欧州戦争以来、ヴェルサイユ条約、ワシントン(*海軍軍縮)条約、ロンドン(*海軍軍縮)条約、不戦条約などの防塞を築いて、旧世界秩序の再建維持に狂奔しつつあった現状維持国家に対する彼等の搾取地盤であるアジアの反撃の烽火(*のろし)であった。(*満洲)事変は国際連盟を中心としての英、米、ソの策動、指導力を喪失した国内の政治指導者、英、米、ソ的教養に麻痺している無知なインテリの非難を乗越えて、その本質に従って益々拡大し、ついに満洲国の成立を見るに至った。かくして、大正末期から昭和初期にかけて相次ぐ秕政(*ひせい:悪政)に苦悶し絶望していた国民大衆は、ここに日本の正しき方向をつかみえたのである。これは同時に、第一次欧州戦争以来、建軍の本旨に鑑みて政治の堕落を痛感しつつも、出来るだけ政治関与を回避してきた軍部をして、(*陸)軍が(*満洲)事変の直接責任者であったところから政治勢力として急激に抬頭せしめ、かの軍部自身をしてその政治力を自覚せしめる重大な契機となった。かくして日本は満洲事変を転機として、果然国防国家建設への要望を高めるに至った。さらに世界史的には、この日本の満洲事変完遂国際連盟脱退が、独伊の国際連盟脱退と、その欧州新秩序建設を決意せしめ、ついに今日の如き世界戦争にまで発展したのである。(同上九乃至一〇頁)

(*本項以降の下線部は、原著の傍点部。尚、本項は陸軍軍人が執筆した感あり。)

           (六) 革新と現状維持の相剋

 満洲事変と国際連盟脱退は、日本の発展を阻害し妨害せんとする現状維持国家に対する最初の反撃であり、かかる旧秩序の破壊、新秩序の建設を完遂するためには、必然的に国内の政治、経済、外交その他各般の組織、機構、制度が国防国家的に再編成を要することは火を見るよりも明らかである。しかるに事変の本質を認識せず、むしろ事変そのものを懐疑的に考えたのが当時の政治指導者であったが故に本格的な国家革新の徹底的遂行など思いもよらなかった。――かくしてこの世界政局に対処するため、現状打破と国内革新とを叫んで革新陣営は蹶起したのであるが、現状維持陣営は根強くこれに対抗して、さすがの革新陣営も相当期間圧倒されていた。――かかる為政者の無自覚を痛憤して、自己の生命を投げ出し、国難来(*きたる)を叫び、国防の充実を叫ぶものが、血をもって幾たびか革新への先駆をなした。即ち昭和七年(*1932年)には井上(*準之助)蔵相と団琢磨を暗殺する血盟団事件が、二月と三月に相ついで発生し、さらに五月十五日には犬養(*毅)首相が総理大臣官邸で青年将校に襲撃され「話せばわかる」の一語を残して落命した。翌八年(*1933年)七月には神兵隊事件(*クーデター未遂事件)があった。越えて十年(*1935年)八月十一日には相澤(*三郎陸軍)中佐のため、時の陸軍省軍務局長永田鐡山少将(*死後中将)がやられ、ついに十一年(*1936年)二月二十六日、雪の帝都には「最大の不祥事」二・二六事件の発生を見るに至った。

 二・二六事件はその手段と方法を誤って国法に触れ、関係者はそれぞれ処罰された。しかしながら彼等が自己一身の栄達や名誉生命まで捨てて元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥の腐敗を痛撃し、国家を革新せんとしたところに歴史的な意義のあったことは否定できないであろう。(同上一〇乃至一二頁)

   (*裕鴻註記:この二・二六事件の解釈・説明は、昭和天皇をはじめ宮中・政府・海軍関係者等には受容し難いもので、実際に襲撃されたのは、海軍出身の三名、斎藤實宮内大臣(死亡)、鈴木貫太郎侍従長(重傷)、岡田啓介首相(生存)と、日本銀行出身の高橋是清蔵相(死亡)、そして陸軍出身の渡邉錠太郎教育総監(死亡)と松尾伝蔵首相秘書(死亡)ほか、警察官5名殉職・1名重傷といった人々であり、上記にいう歴史的意義などは全く肯定できない。)

           (七) 世界史発展の方向

 ――実にわれわれは今、過去百五十年世界を支配して来たところの、英、仏、米のデモクラシー(*自由民主主義)国家群と、それに虐げられつつ、これを凌がんとする勢いをもって発展してきたところの後進国家群との新旧二つの世界観に基づく世界維新戦のまっ唯中にある。

 ――ドイツ的新秩序は、アメリカ的新秩序との間に世界戦争の危機を孕んでいる。また欧州戦争の進展によって、日、満、支(*中国)三国を根幹とする大東亜共栄圏が、南洋を含めての東亜自給経済圏を意味するものなることはいうまでもないが、これらの新広域生活圏(*Lebensraum:レーベンスラウム)の確立、完成を見るまでには相当の年月を必要とするのであって、それが完成には勿論のこと、完成後といえども指導国家の力がなくしては到底、維持発展は不可能である。ここに世界史の現在並びに将来からする国防国家の必然性が存するのである。(同上一三乃至一四頁)

           (八) 皇國の真姿を自覚せよ

 それにつけても今日われわれ日本人に必要なことは、日本的な世界観、歴史観を確立し、国体の本義に徹して皇國の真姿に目覚めることである。日本は建国以来世界無比の全体主義国家であって――自由主義、個人主義とは全然国柄を異にしているのである。

 世界史必然の動向を知り、転換期の世界文明の意義を認識することこそ今日の急務であるが、なかんづく万邦無比のわが国体の有難さを自覚し、一日も早く明治以来の欧米的影響から離脱することは急務中の急務といわねばならぬ。この根本命題をしっかり把握せぬ限り、皇國日本の歴史的使命を理解することは不可能であり、世界日本の建設はできない。(同上、一四乃至一七頁、以上総論、「世界史の動向と皇國日本」より)

           2の(一) 国防国家とは何か

 今日叫ばれている国防国家というのは――近代社会の自由主義国家観とは違った新しい国家観に基く国家である。自由主義国家観は国家の基礎を個人に置いて、個人の集り、その結合関係に国家の本質を求めている。すなわち個人の価値は国家または民族の価値に優先するという思想がその根底を貫いているのである。随(*したが)って国家の任務は個人の自由に奉仕するにあって、個人の生命、財産、営業の安定、自由を保証し得る限りにおいて国家存立の理由がある。これが自由主義国家観の特質である。しかるに国防国家においては、かような国家観は根本的に否定され、個人の生命も財産も営業も、すべて国家は国家として個人のあらゆる生活部面も指導し干渉しうるとする全体主義国家観に基いている。かくのごとく国防国家と自由主義国家とは国家の見方が違って居り、自由主義国家は非国防国家である。

 かかる精神によって貫かれた国家が国防国家である。即ち政治も経済も文化も教育も国民生活も、一切の国家国民的な全領域における総活力を、国防という一点に結集して最高度に発揮し得る国家こそ国防国家である。かくて政治も外交も経済も科学も思想も家庭生活も映画もスポーツも、戦争に従属し国防に基いて存在せねばならず、国民は一個人としてではなく、国家とともにあり、国家の胎盤の中で永久に生きてゆくべきだとされるのである。

 ――今度の欧州戦争で独逸が圧倒的に勝利をしめているのは、ヒットラーが政権をとって以来、国防国家建設のスローガンとして「一指導者、一民族、一国家」ということを掲げて、一つの指導下即ちヒットラー総統の指導下に、血を同じうするゲルマン民族が一つの強大なる国家を作るという目的をもって、過去八年全力を傾注して邁進して来たためである。即ち国防国家の建設を最高目標として全体主義政治を確立し、国防軍の訓練に、科学兵器の進歩に、愛国心の昂揚に努力を傾けて来た。しかしその最大の原因は、実にドイツの政治が英仏にすぐれている点にあった。即ち国防国家であることであった。(同上二一乃至二四頁)

           (六) 国防国家の建設綱領

 ――国防国家の建設は今や一切は高度国防国家の建設にかかっている。全国民に課せられた国家最高の目標であるが、聖戦已に丸四年(*1937~1941年)を閲するもなおわが国民的政治地盤なくつねに各勢力の妥協と均衡の上に立って強力政治を断行し得ず、頻々と交迭した。また経済は依然として営利主義を以って指導精神とし、*すでに統制経済から計画経済の段階に入っているが、かかる経済は一時的、臨時的のものであるとの皮相的なる観案が全体を蔽い、文化も教育も、いまなお明治以来の自由主義を脱せずにいる。かかる非国防国家的な自由主義国内体制を根本的に変革し、東亜共栄圏の確立と国防国家の建設に邁進することが現下最大の要請である。(*上記太字部分は裕鴻による。つまりは社会主義的なソ連型計画経済を目指していることの証左。)

 ――大正以後、自由主義、個人主義に蝕まれた日本の今の姿は果してどうであるか、それだからこそ今日国防国家が要請されるわけであるが、日本が本来的な国防国家の典型であることは、決して間違いないのである。このゆるぎない信念の上に立って、現下の世界情勢を洞察し、国防国家を完成し、自主独往する勇猛心を持つならば、実にこの変革期こそ千載一遇の好機であり、また万葉の歌人が詠んだ如く、聖代を讃えることができるであろう。(同上三四頁、三五頁、基本国策要項の六より)

           3の(一) 新政治体制の目標

 ――新政治体制とは、高度国防国家の基礎として、恒常化せる世界の動乱に対処すべく、国策の迅速果敢かつ有効適切なる遂行を目標とするものである。しかして新政治体制はこれを大別して、統帥と国務の調和(政戦両略の一致)政府部内の統合及び能率の増進(官界新態勢)、議会翼賛体制及び国民組織の四つの面を有するが、なかんづく国民組織をもって新政治体制の基底とすることは、(*東條英機)首相の声明によって明確となっている。

 ――従来のわが政治組織は、議会と政府の間に権力の分立均衡があり、政府部内は各省間の権力分立によって相互に牽制し合い、国政の迅速にして統一ある発動を阻害している。かかる政治組織は君主の独裁によって国民が虐げられてきた西洋諸国において、権力の独占を回避してその分立を図り、分立した権力の相互牽制によって独裁専制政治の禍言を除去せんとしたところから生れたものであるが、かくの如き相互牽制の結果は敏活にして綜合性ある国策の実行を妨げるに至った。殊に現下の世界動乱期において変転きわまりなき国際情勢と、急速に進行しつつある経済情勢に即応して綜合的企画性を有し、しかも機宜を得た迅速なる対策を実行するには、従来のごとき権力の分立均衡相互牽制を原理とした自由主義の政治組織をもっては到底これに堪えないことは明白である。

 新政治体制における四つの面は、一体の四面であり、四体の四面ではない。いな四つの面というよりも四つの部分であって、それぞれ共通の血液が環流し、一貫した神経体系が分布し、各部分は彼此相関連し、有機的一体としての働きを有すべきである。具体的にいえば、従来分立的に存在せる議会と政府及統帥部を有機的に結合し、国民組織を基底として、その上部組織の政府と表裏一体化し、議会は国民組織の地盤の上に立つべきものと考えられる。(同、三七、三八頁)

・・・(**前掲書277~283頁)  

 この企画院研究会が目指す「国防国家像」は、奇妙にも思えますが、結果的には、現代の北朝鮮や中国やロシアの国家像に重なる部分が多いように感じられます。それはこれらの国々が、左右両翼の思想の違いを越えた、自由民主主義とは異なる全体主義的国家体質を持っていることを示唆しているのではないでしょうか。

 また上記の綱領を精読してみると、いくつかの特徴に気づかされます。註記もしました通り、この全体のトーンと志向性から、明らかに陸軍中枢部将校が企画院研究会のメンバーとして参加し、総括的部分は直接執筆しているであろう、と合理的に推測できることが、まずは第一の点です。

   第二には、巧みにヒットラーやナチスドイツの例を引きながらも、その歴史認識には太線部分でわかる通り、史的唯物論の歴史発展段階説をベースとしており、平たく言えば共産主義的歴史観が反映された内容となっている点です。

   つまり政治的には個人主義をベースとした自由民主主義から、全体主義をベースとした国家社会主義という一党独裁体制を模した体制を目指していることが伺われ、また経済的には私企業が営利を追求する資本主義経済から、国営化をベースとした統制経済体制を介してさらに社会主義的な計画経済体制を目指していることが伺われるのです。

 それは第(87)回で取り上げた通り、企画院の官僚には、多数の共産主義者からの「転向者」が登用されていたという事実からも、合理的に推定できるのです。三田村氏の前掲書**から、以下の当該部分をおさらいしておきます。

・・・所謂転向者の役割――ここでもう一つ問題とすべきものに転向者の果した役割がある。昭和6年(*1931年)頃から一度検挙された共産党関係者で、所謂、その思想の転向者と見られる人物については、司法省に於ても、或は警視庁の特高部(*思想取締)に於ても熱心に就職の斡旋をしたものである。そして、それらの連中は、官庁関係では嘱託名義で、調査部、研究室に就職し、民間の調査研究団体にも多数の転向者が就職していた筈である。更に又、軍部にも同様にその調査事務には相当数の転向者が入っていた。そこで問題となるのは、この転向者の思想傾向であるが、司法省、内務省で転向者として扱ったその所謂「転向」の判定は天皇制の問題に重点がおかれており、天皇制否定の主張を訂正したものは転向者とみたのである。従って転向者の大部分が、実はその頭の中はマルクス主義であり、亦彼等は、所謂秀才型が多く、進歩的分子を以て自認し、此等の人々が戦時国策の名に於てなした役割は軽視すべからざるものがある。・・・(**前掲書136頁)  

・・・(*前略)戦争経済と企画院事件の思想的背景である。この問題についても、既にしばしば触れたから多くの説明を要しないが、企画院事件の記録を調べてみると、昭和10年(*1935年)5月内閣調査局(*企画院の前身)設立当時「民間有能な人材」として採用された高等官職員(今の二級官)の中に既に共産主義思想の前歴者があり、昭和12年企画庁、企画院に改組された際、更に多数の共産主義分子が流入して「高等官グループ」「判任官グループ」などの組織をつくり、満洲事変以来朝野に昂(*あが)って来た「国家の革新」「現状打破」「戦時体制の確立」などの時代的風潮に乗じ、コミンテルン第七回大会の決議「人民戦線戦術」に戦術的基礎を置き、「官吏たる身分を利用し重要なる国家事務を通じて共産主義の実現を図るべく相協力して活動し、従来極左的非合法運動に終始せる我国共産主義運動を現実の情勢に即した合法場面の運動に戦術的転換をなしたもの」で、その特質は、「日本共産党を中軸とする下からの革命運動との関連において、当面の国家的要請を利用する『上からの変革』即ち国家の要請する革新に名を藉りて、共産主義社会の実現に必要なる社会主義的社会体制の基礎を確立すべき諸方策を先づ国策の上に実現せしめ、もって国家の自己崩壊を促進すべく企図したもの」となっている。

・・・(**前掲書196~197頁)

 次回はもう少し、この企画院が主人公となった「企画院事件」を検分してみたいと思います。