人でも国家でも、困難な情勢にあっては、自己の立場の正当性を主張してくれ、更に自分達が進んで行きたい方向性を肯定してくれるような論理(理論・理想)を立てて提示してくれる人物や集団を必要とします。それは洋の東西、思想の左右を問わず、大多数の国民が支持してくれることを希求しているわけですから、そのための「大義名分」が常に重要なわけです。

 物理的な戦争も、言論上の論争も、各々戦う側にとっての「意味や意義」を必要としているのは、それによって大勢の支持者が賛同し後押しをしてくれなければ、結局は戦いを続けることが出来ず、敗亡の方向へ向かってしまうことに起因しています。ここに思想や理論の存在理由(raison d'être)があるのです。

 尾崎秀實が陸軍に対してやったことの本質は、満洲事変を起こし、日華事変を拡大させ、中国大陸での実質的な戦争が泥沼化・長期化してもなお終息が見通せない(現代流に言えば「出口戦略」を見出せなかった)帝國陸軍とそのシンパに、「東亜協同体論」「東亜新秩序」という存在意義 (raison d'être)を与えたことでした。

 それには当然、帝國陸軍中央中枢は飛びついたのです。自分たちがやっていること、実際には泥沼化して出口が見出せず困っていることに、「正当性」を与え、しかも更にこれから進むべき「肯定的な方向性」を示してくれる「理論・理想」であって、その意味での「大義名分」を与えてくれるものであったからです。そして「統帥権の壁」に阻まれて、行政権(内政・財政・外交など)を上手く発揮できずに困却していた近衛文麿首相にとっても、それは「光明」を指し示す道でもあったわけです。

 本シリーズで見てきた戦後のソ連KGBによる政治謀略工作においても、「無意識(unwitting)の協力者(agent)」という概念が登場していましたが、戦前日本においても、同様の構造で、本人たちはあくまで苦境にあった当時の日本の国際的な正当性や進むべき方向性の模索という意味で、まさに「愛国的精神」から、尾崎秀實や西園寺公一などの「隠れ共産主義者」の誘導に乗せられて、真面目かつ懸命に「国論」の形成に参与していたのですが、それは結果的には、国家を敗亡の方向へと誘う「ある種の謀略」に乗せられていた、と見ることもできるのです。

   このあたりの問題を、前回に引き続き、三田村武夫著『大東亜戦争とスターリンの謀略**―戦争と共産主義―』(昭和62(1987)年自由社刊自由選書版、初版は『戦争と共産主義』昭和25(1950)年民主制度普及會刊)より、前後順不同で関連する記述部分を拾遺してみたいと存じます。(*裕鴻註記、旧仮名遣いや漢数字等表記も一部補正。尚、原著の傍点部は下線部として表記。)

・・・(*第一次)近衛内閣は(*昭和13年:1938年)十一月三日声明及び二十二日声明で「東亜新秩序建設」という用語を用い、これを(*日華)事変処理のスローガンとして来たことは周知の通りであるが、その新秩序なる概念は、尾崎(*秀實)によれば、共産主義的秩序を意味したものである。即ち彼の手記を重ねて引用するならば、

 「帝国主義政策の限りなき悪循環、即ち、戦争から世界の分割、更に新たなる戦争から、資源領土の再分配という悪循環を断ち切る道は、国内における搾取、非(*被)搾取の関係、国外に於ても同様の関係を清算した新たなる世界的体制を確立する以外にはありません。即ち世界資本主義に変る共産主義的世界新秩序が唯一の帰決(*ママ)として求められるのであります。然もこれは必ず実現しきたるものと確信したのであります」

 「日本自身は、私(*尾崎秀實)の以上の如き考え方からすれば頗(*すこぶ)る敗退の可能性を多く含んだ国ということになります。(原註、日本は対米英戦の緒戦に於ては一応必ず勝利を占めるが、六(*ヵ)月後にはその情勢が不利となってくるという意味)勿論戦争は飽く迄、世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行われるものでありますから、欧州での英独対抗の結果というものが亦直接問題となるのでありましょう。つまり東西何れの一角でも崩壊するならば(*独・伊か日本の何れかが敗勢となればの意)、やがて全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。この観点から見る場合、独逸とイギリスは同じ位の敗退の可能性を持つものと思われたのであります。(*昭和17年年初時点の尾崎記述) 私の(*共産主義者としての)立場から言えば、日本なり独逸なりが簡単に崩れさって米英の全勝におわるのでは甚だ好ましくないのであります。(*尾崎原註:大体両陣営の対立は長期化するであろうとの見通しでありますが)万一かかる場合になった時に英米の全勝におわらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以て、ソ連、支那(*中国共産党の意)と結び、別な角度から英米に対抗する体勢をとるべきであると考えました。この意味において日本は戦争の始めから、米英に抑圧されつつある南方諸民族の開放(*解放)をスローガンとして進むことは大いに意味があると考えたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己開放を、東亜新秩序創建の絶対要件であるということをしきりに主張しておりましたのは、かかるふくみをこめてのことであります。この点は日本の国粋的南進主義者とも殆んど矛盾することなく主張されるのであります」

 といっている。又彼(*尾崎秀實)は、

 「日、ソ、支(*中共)、三民族国家の緊密有効なる提携を中核として、更に、英、米、仏、蘭等から開放(*解放)された印度、ビルマ(*現・ミャンマー)、泰、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として、前述の三中核と、政治的、経済的、文化的に緊密なる提携に入るのであります。この場合各々の民族共同体が、最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件でなく、過渡的には、その民族の独立と、東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を一応自ら選び得るのであります、尚この東亜新秩序社会に於ては、前記の東亜民族の他に、蒙古民族共同体、回教(*ウイグル)民族共同体、朝鮮民族共同体、満洲民族共同体等が参加することが考えられるのであります。

 申す迄もなく、東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすものでありますから、世界新秩序完成の方向と、東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであってはならないことは当然であります」と言っている。

 要するに、尾崎(*秀實)の所謂東亜新秩序とは、アジア共産主義社会の実現を意味し、世界共産主義社会完成の方向と矛盾してはならないのである。この目的達成の為には、日本や独逸が簡単に敗れ去ることは好ましいことではなく、亦日本と蔣(*介石)政権と和平して、日華事変に終止符をうつことも困ることであり日本帝国主義と蔣介石軍閥政権と更にアメリカ帝国主義、イギリス帝国主義が徹底的に長期全面戦争を戦い抜かねば都合が悪いのである。

 この尾崎(*秀實)の構想をもって日華事変の通行(*みちゆき)を判断すれば、日本政府と重慶政府との和平を成立せしめないために何等かの手を打つことが必要であり、その為の手段として考えられたものが汪兆銘(*汪精衛)の新政権樹立工作と見るべきである。即ち日本政府及び軍部と一体不可分の関係に立ち、新政権を作り上げることにより、汪兆銘を敵国通謀者とし、反逆者として逮捕命令を発した重慶政府との和平交渉を永久に遮断する楔(*くさび)を打ち込んだものであり、日本政府と汪兆銘政権が、共同防共を闘争目標として掲げたことは、国共合作の上に立つ重慶政府を対照とした苦肉の策と見るべきである。この尾崎(*秀實)をよき相談相手としてその意見を徴し、彼の構想の上に作られた南京政府(*汪兆銘政権)が如何なる性質のものであるかは説明を要しないであろう。

 この謀略の犠牲となった汪兆銘は、昭和十九年(*1944年)十一月十日、名古屋帝大病院で淋しく死んで行った(*病死)。彼もまた近衛と同じように見えざる影の糸にあやつられて悲劇の主役を演じたロボットだったのである。

・・・(**前掲書165~167頁)

 これは、言わば先に尾崎秀實謀略の真意とその「種明かし」を読んだわけですが、昭和13年(1938年)1月16日に発出された近衛第一次声明(所謂、「帝国政府ハ爾後(*じご)国民政府ヲ対手(*あいて)トセズ」)によって、蔣介石政権との講和の途を自ら閉ざしたあと、ここにある汪兆銘政権の樹立に向けて動いていたわけです。しかしそれは、日華事変の終結を益々困難にする道すじであったのです。そして同年11月3日に発出されたのが「東亜新秩序声明」とも呼ばれる近衛第二次声明であり、一般的には第一次声明の「対手とせず」を修正する意図があったと言われていますが、むしろ汪兆銘政権の樹立(昭和15年:1940年3月30日)に向けての下拵えの意味があったものと解されます。

   しかしこの第二次声明に動揺した汪兆銘側を安心させるため「二年以内に日本軍が中国より完全撤兵する」という約束を含んだ秘密協議を行い、それも踏まえた近衛第三次声明で対中国和平の三方針〔善隣友好、共同防共、経済提携〕なる「近衛三原則」が示されましたが、何故かこの声明には「二年以内の完全撤兵」は外されていました。ここにも当時内閣嘱託であった尾崎秀實の謀略活動があったという観測もあります。前掲書**に、三田村武夫氏が摘記した、この近衛第三次声明の要点が記述されていますので、見てみましょう。

・・・(*前略)この裏面工作が、(*第一次)近衛内閣の方針として表面化したものが、かの(*昭和13年)十二月二十二日の近衛三原則声明である。この声明は言う。

 「政府は本年度の声明に於て明かにしたる如く、終始一貫、国民政府(*蔣介石政権)の徹底的武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携へて、東亜新秩序の建設に向って邁進せんとするものである」

 「日満支三国は東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである」

 「日本が敢て大軍を動かせる真意に徹するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非(*あら)ざることは明らかである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである」(*中略)

 汪(*兆銘)政権の正体――ここで筆者(*三田村氏)は、この南京政権が何を意味したかの謀略的意義に付き一言しなければならない。この二十二日の近衛(*第三次)声明は一体何人の筆になったものか、当時の書記官長風見章氏は、その内容も文章も近衛が独自で決めて出したものであり、最初の文案は中山優氏の執筆であったと記憶するといっているが(文芸春秋、(*昭和)二十四年十一月号六十二頁)、実際はその構想も、文案も尾崎秀實の筆になったものである。

・・・(**前掲書162~163頁)

 ここで、具体的に尾崎秀實は一体どのように、当時の日本の世論に訴えていたかを検分したいと思います。前掲書**資料篇に、尾崎による『中央公論』昭和14年(*1939年)1月号巻頭論文が掲載されていますので、皆さんもぜひ、じっくり読んでみて戴きたいと存じます。進歩的中国問題専門家としての尾崎秀實の姿が、ここから浮かび上がりますが、その真意は、上述のような謀略的意図が隠されていたのです。(*裕鴻註記、旧仮名遣いや漢数字等表記も一部補正)

・・・「東亜協同体」の理念とその成立の客観的基礎    尾崎秀實

 武漢陥落後の新事態に対処する(*昭和13年)十一月三日の帝国の(*近衛第二次)声明(*「東亜新秩序声明」)が、今次征戦(*日華事変)究極の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」と規定してより以後、この「東亜新秩序」の内容をなすと考えられる「東亜協同体」論、と「東亜連盟」論、様々のヴァライエティ(*variety)をもって一時に花開くの壮観を呈したのであった。

 前記の声明の中の「新秩序」の形態が不明確であるとの意見は尤もである。しかしながらこの「新秩序」をもって単に戦争の進行にともなって生じた日支(*華)間の新なる事態、客観的事実のみに限定せんとすることは、新秩序の発生に故意に眼を閉ぢんとする態度である。それは同日の政府声明を敷衍することを目的として為されたと思われる近衛首相のラヂオ放送中に於てもその輪郭をうかがい得る筈である。即ち「支那の征服にあらずして、支那との協力にある」「更生支那を率いて東亜共通の使命遂行」「支那民族は新東亜の大業を分担する」「東亜の新平和体制を確立せんこと」「東亜諸国を連ねて真に道義的基礎に立つ自主連帯の新組織を建設する」等の言葉によって「新秩序」が帯びるべき特性と輪郭とは既に最高の政治的宣言の中に示されたのであった。それはまさしく「東亜協同体」的相貌を示すものである。

 この場合我々が特に注目すべき点はこのいわば「東亜協同体」的理念が、(*日華)事変に対処すべき日本の根本方策ともいうべきものの中に取り上げられていることである。つまり「東亜協同体」は事変解決の方策の不可欠な重点となったのである。――。

 「東亜協同体」の理念は既に古いものであろう。満洲国成立の際の王道主義も「八紘一宇」の精神も根本に於ては「協同体」の観念と相通ずるものがあると思われる。又それは「東亜連盟」の思想とともに「大亜細亜(*アジア)主義」論の流れを汲むものであろう。併しながら現下の状勢のもとにおける「新秩序」の実現手段として現われた「東亜協同体」は、まさしく日支(*華)事変の進行過程の生んだ歴史的産物である。――。

 筆者(*尾崎秀實)は元来「東亜協同体」論の必然性を見、その発展可能性を信ずるものである。(*裕鴻註記:ここは「意味深」であり、その真意は共産主義思想の「歴史の発展段階法則」にあると思われる) しかしながら「東亜協同体」は現実の問題として幾多の弱点と実践の上の難点を有しているのである。現在に於ては寧ろこの点を明確にすることが問題を発展せしめる上において絶対に必要なりと信ずるが故に、ここでは敢てこの問題を批判する立場をとりたいと思うのである。

 「東亜における新秩序」乃至「東亜協同体」を一つの新しい理念として、またこれを一つの実践形態として理解し得ない人々はかなり多いように見受けられる。最近に於けるこの歴史的大事件によって、戦(*いくさ)の相手方たる支那(*中華民国)のみが変ったと考え、自分たちの足下は絶対に動くことが無いと考えている人々にとっては、この協同体の理念は絶対に理解出来ないところである。――。

 我々は静かに「聖戦」の意味について三思する必要がある。今日一部に於いて、もしも日本がその(*中国)大陸に対する要求を具体的に明瞭に形の上に現わすのでなければ尊い血を流した勇士たちは瞑することが出来ない、又艱難辛苦しつつある出征兵士たちがおさまらないであろうとの説をなすものがある。絶対に正しからざる説である。恐らくは心事高潔ならざる輩(*やから)が自己の心事をもって推しはかったものであるに違いない。一身を抛(*なげう)って国家の犠牲となった人々は絶対に何等かの代償を要求して尊い血を流したのではないと我々は確信するのである。東亜に終局的な平和を齎(*もたら)すべき「東亜における新秩序」の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いないのである。――。

 具体的な事態の推移に於てこの東亜協同体の終局の理想が完成された形で現われて来ると考えることは、あまりにも空想的であり過ぎるのである。この理想を現実の問題として発展せしめて行くためには内外に大きな闘争を必要とするであろう。――。

 「東亜協同体」論は之を一個の理念として見る時は何人にも異存なき一つの大理想であることは問題なきところであるとして、これが実際政治の問題として実践に移される場合に於て遭遇すべき幾多の曲折については既に予想せるところの如くである。――。

 ――概括的に云って現在までのところ、この問題については政治面の強調に比して、経済的、社会的条件が低く評価され過ぎている傾きが無いでもない。東亜協同体内部の経済的構成がいかにあるべきかということは今後具体的検討を積むべきであるが、それとは別に東亜協同体の存在理由とも云うべきものの一つとして東亜に於ける生産力の増大が、半植民地的状態から自らを脱却せんと試みつつある民族の解放と福祉とに如何に多く貢献すべきか特に強調されてよいわけであろう。これはまた日本にとっても同様であって日満支経済ブロック論の恣意を脱却せる経済的成果が「東亜協同体」の埓内に於て実現することを意味するのである。この意味に於て、大陸を経済的に日本の植民地的地位に置かんとした初期の日満支ブロック体制は、最近における大陸における経済形態への移行によって揚棄せられたと信ぜられる。日本経済の再編成(*統制経済体制の意)はこの観点からしても必然化されるものと思われるのである。「東亜協同体」の具体的な政治的構成が如何なる形をとるべきかについては(*昭和13年)十一月の「改造」(*大正8年創刊の総合雑誌)に於て蠟山政道教授 (*1895-1980、当時東京帝大法学部政治学科教授)が大体の輪郭を示している。

 この大体の輪郭から進んで東亜協同体構成国家の代表会議、或は共同委員会、若くは共同宣言の具体的方式が考え得られる筈である。――。

   「東亜協同体」の理念が実践の過程を伴って発展し得るか否かということは、日支抗争の力関係にも、国際関係にも無論拠るところではあるが、日本国内のこれを推進すべき勢力の結成が最大の問題となって来ると思われるのである――。

 かかる意味に於いて政党方面における政党合同問題(*のち大政翼賛会に転化)はもとより、今日まで現われた国民再組織案はいずれもこの大目的に応うものと思われないのである。

 かかる組織は恐らく政治的には全国民的統一の政治形態(*のちの国家総動員体制)をとるとともに、経済界についてもこれを綜合統一し経済組織の編成替を行うことを必要とするであろう。(*のちの統制経済、産業・金融の国営化奉還論) ――。

 思うに「東亜協同体」論の発生が他の同系の理論と異なる点は、これが支那(*日華)事変の具体的進行につれて支那における民族問題の意義に気づき、翻って自国の再組織へ想い到った真剣さにあるのである。この点は東亜制覇の雄図を基として描かれた他の諸々の東亜民族の大同団結計画案とは異った謙虚さを持つものである。

 果して「東亜協同体論」が東亜の苦悶の解放者たり得るか否かは結局に於て支那の所謂「先憂後楽」の士の協力を得て民族問題の解決策たり得るか、及び日本国内の改革が実行せられて「協同体論」への理論支持が国民によって与えられるか否かの事実とにかかっているのである。――。(十三、十二、十一)(五頁乃至一八頁)

・・・(**前掲書244~247頁)

 このように、巧みに真意を隠しつつ、また陸軍中央や政府にも受け入れられる立論と論理展開を図り、目指していた政治・経済・社会の「国家統制管理体制」「国家総動員体制」という国営化と社会主義的体制の構築の方向性を推進し、蔣介石政権との日華事変の正当性を「東亜協同体論」に代弁させ、また「先憂後楽の士」というのちの汪兆銘政権を構成する要人を国内に受容させる下拵えをしています。この尾崎論文に出てきた、当時の東京帝国大学法学部政治学科の蠟山政道教授の立論も、前掲書**から少し見ておきましょう。

・・・長期戦への理論とその輿論指導

 漢口陥落を契機として、日華事変がようやく長期戦の様相を呈して来た時、政府の新秩序声明に呼応するが如く、事変処理の構想として登場して来た「東亜協同体論」はやがて、大東亜共栄圏建設の理論体系に発展し、戦争の新しい進歩的倫理的指導理念としてジャーナリズムの寵児となり、遂に日本を悲劇的方向(*対米英蘭蔣戦争)に追い込んで行ったが、この新しいテーマが最初に公然とジャーナリズムに提議されたのは、昭和十三年(*1938年)十一月号『改造』の巻頭論文蠟山政道の「東亜協同体の理論」である。

 蠟山氏は東大政治学の権威者として知られ、又近衛側近の最も有力なブレーンとして自他共に認じて(*ママ)いた。この見地からこの論文の政治的意義は特に注目すべき価値がある。

 彼はこの論文で先づ聖戦の意義を説き、その聖戦の意義は東亜に新秩序を建設せんとする道義的目的を有しているところにあるといい、支那(*日華)事変の本質に論及して、欧州大戦後(*第一次世界大戦後)に作られた国際連盟機構や、不戦条約等が前提としたような、制限された部分的な目的を有する戦争とは根本的に異なり、世界文化史的に見て全面的な論点を含蓄し、それを決定せんがための戦争であると述べ、今事変(*日華事変)の最大の意義は「東洋の統一」への民族的覚醒にあるが、その東洋の統一への現実的過程には、悲劇的な民族相剋の運命と、西欧帝国主義体制との衝突という障害が横たわっていると論じ、新しい東洋のイデオロギーが先行してこの東洋統一への新秩序が生まれるのではなく、先づ砲煙弾雨の間、敵火の洗礼を受けた東亜の合理化としての東亜思想が成長して行くのだと説き、その東亜的統一の新秩序は、政治的新体制をもった東亜民族の地域的協同体であり、それは西欧的帝国主義を超克した世界新体制構成の原理をなしたものだといい、その東亜協同体の政治的、経済的、地域的綱領を示している。

 ついで翌月、即ち、(*昭和)十三年十二月号『改造』の巻頭に三木清の「東亜思想の根拠」なる論文が現われているが、この論文の要旨は、東亜協同体の思想に依ってのみ支那事変解決の方向は見出せる。而して東亜協同体は偏狭なる民族主義を超克し、帝国主義、資本主義の問題を解決し、世界を白人的見地からのみ考える思想を打破して、真の世界の統一を実現すべき意義を有している。そしてそれは、東亜の地域に限らず、世界の新しい秩序に対して指標となり得べきようなものでなければならない。東亜の新秩序は、世界の新秩序であり得ることに依って、東亜の新秩序となり得るのであるといっている。

 ここで興味深いことは、同じ十二月号の『日本評論』に、当時陸軍省報道部長の地位にあった佐藤賢了大佐が、同じ「東亜協同体の結成」なる表題を用いて一文を寄せていることである。その要旨は蔣介石政権を相手とせず、新興政権の成立発展を助けて、更生支那建設に協力することが今次事変解決の終局の目的であるといい、その更生新支那とは、現在の支那から欧米依存、容共抗日の思想を芟除して、日満支三国が真に提携共助し得る支那の姿である。その為には久しい間支那に加えられて来た西洋の政治的経済的侵略、圧迫、搾取をとり除いて、東亜協同体を結成することが必要であるといい、そしてそのためには、政治、経済、行政の各部門に亘って大改革が必要であり、総動員法の全面的発動が必然であると述べている。・・・(**前掲書168~169頁)

 このように尾崎秀實(共産主義者)、蠟山政道(東大政治科)、三木清(共産主義シンパ)、佐藤賢了(陸軍中枢)などの各論者の主張が、このように調和的に響き合った内容で、ハーモニーを奏でていることを、わたくしたちはしっかりと受け止めなければなりません。昨今の右翼的論者が主張する、アジア諸民族を植民地から解放したという「大東亜戦争肯定論」の理論的構造は、元を辿れば、実はこの尾崎秀實が、日本の敗戦による共産主義革命と、併せてソ連と中共の支援のもと東アジア(含む東南アジア)全域を共産化して、欧米の資本主義(帝国主義)勢力に対抗させようとする「理論」から生まれていたのです。その意味で、「大東亜共栄圏」とは、実に「大東亜共産圏」を意味していたのです。(次回につづく)

   ご参考: