レフチェンコ氏はなぜアメリカに亡命したのか、今回はまず、その理由について彼自身が週刊文春記者の斎藤禎氏に語った内容を読みたいと思います。「文春砲」で有名な「週刊文春」(当時の編集長は後に社長となる白石勝氏)は、当時記者をワシントンD.C.郊外にまで派遣し、1983年5月に4日間約20時間の独占インタヴューを行いました。その時の記録を纏めた『レフチェンコは証言する**』(1983年文藝春秋刊、「週刊文春」編集部編)からです。尚、絶版の書ではありますが、古本で探せばまだ見つかると思いますので、ぜひこの本を全部読んでみて戴きたいと存じます。(*裕鴻註記、尚漢数字はアラビア数字に適宜修正)

・・・<私はソルジェニーツィンから影響を受けた>

 (記者):あなたの心の内部のこと、あるいは、あなたが日頃自分自身について感じていることなどを、もう少し聞いてみたいと思います。

 まず、これまでの質問と重なるかもしれませんが、なぜ、あなたは米議会で証言するにいたったのか、の点です。

 レフチェンコ:事実経過を述べますと、去年(*1982年)の夏になろうとする頃、私は、米議会から電話をもらったのです。議会で、ソビエトの積極工作について聴聞会を開くので、証人の一人として出席できるかどうか、聞いてきたのです。私は、「喜んで参加します」と答えたのです。

 (記者):誰が、あなたに電話したのですか。

 レフチェンコ:米下院情報特別委員会の事務局からでした。国会議員からではなく、事務局員からの電話でした。正確に電話の内容を覚えていませんが、7月に聴聞会が開かれるので議会まで来てもらえないだろうか、ということだったのです。こういう事務的とも思える電話がすべてで、誰かが私に証言を強制したと言うわけではないんです。

 (記者):まったくあなた自身の意思による証言なんですか?

 レフチェンコ:ご承知の通り、アメリカでは不法あるいは違法なことにかかわらないかぎり、何人(なんびと)も、証言を強制できないのです。そういった場合には、召喚されるでしょう。しかし、そうでなければ、強制して証言させることなどできない相談です。私自身が、自ら証言することに同意したのです。

 (記者):あなたに証言してもよいと決意させたのは何だったのですか。

 レフチェンコ:人々に、KGBが何をやっているかを知ってもらいたかったのです。ソビエトの指導者とKGBがやろうとしている、あらゆる種類の活動をぜひ知ってもらいたかったのです。

 (記者):なぜです?

 レフチェンコ:自由諸国に、ぜひとも、KGBの活動の実態を知ってもらいたかったのです。なぜなら、私は、自由諸国から恩義を受けているからです。政治亡命を許されただけでなく、自由も与えられたのです。これが第一の理由です。

 第二の理由は、アメリカに亡命を求めて以来、私は、ソ連の指導者とソ連共産党と戦おうと決心していたからです。それこそが、私が深く望むことなのです。

 (記者):あなたと同じ考えを持つ人は、ソ連にいるのですか。

 レフチェンコ:少ない数ですが、存在します。

 (記者):少数の人ですか?

 レフチェンコ:現体制に異議を唱える人は大勢います。しかし、これらの人々は迫害され、逮捕されるのです。私の場合には、一つの選択肢しかなかったのです。亡命する道しかなかった。KGB将校が反体制派になることなどできないのです。そうとわかれば、刑務所行きか、精神病院行きです。あるいは、殺されるかもしれません。KGBのなかに、“隠れ反体制派”が存在することなど、絶対に許されないのです。

 (記者):あなたは、反体制派だった。

 レフチェンコ:そうです。私に影響を与えたのは、ソルジェニーツィンです。私は、この人物を深く尊敬しています。たしかに、ソルジェニーツィンは複雑な人間です。しかし、複雑でない人間など、どこにいるというのですか。

 私は、彼の政治的な立脚点に、完全に同意するというのではありませんが、彼から影響を受けています。私は、ソルジェニーツィンの本*を全部読んでいます。日本にいた時、書店で買ったのです。(*ソ連では発禁本)

 (記者):ほかにも、亡命にいたる理由というのはありますか。(*中略)

 レフチェンコ:若い頃、スターリン体制の非道ぶりを知ったからです。

 (記者):あなたは、知識階級の家庭に育ったのでしたね。

 レフチェンコ:そうです。

 (記者):いつ、スターリン体制の非道ぶりに気がついたのですか。

 レフチェンコ:(*モスクワ)大学時代の何人かの親友のなかに、その父母たちがスターリン・キャンプ(*強制収容所)で虐殺された人たちがいたのです。

 (記者):その人々は、ユダヤ人ですか。

 レフチェンコ:いや、違います。スターリンは、無差別に、人種など関係なく、牢獄に入れたのです。この事実を知って以来、ソ連共産党というものが、国を治めるのに真にふさわしいものだろうかと疑いはじめたのです。

 学生時代、私は、マルクス主義やレーニン主義を徹底的に勉強しました。そして、そこに、多くの矛盾を見出したのです。私は、マルクス主義やレーニン主義というものが、本当にロシア人が望んでいるものかどうか、疑問に感じはじめたのです。最初に浮かんだことは、レーニン主義は、マルクス主義ではないという結論でした。

 (記者):どう違うのですか?

 レフチェンコ:基本的には、マルクスは、理論的哲学者なわけです。彼は、理論家です。レーニンは、マルクス主義を国を治めるための道具にしたのです。

 (記者):つまり、制度化したのですね。

 レフチェンコ:そう、制度化したのです。そして、レーニンのあとにスターリンが、マルクス・レーニン主義のなかから、彼一流の宗教を作りあげたのです。

 しかし、こうした疑いはもっても、「たしかに今のソ連指導者は悪い。だが、いつか、ソ連のなかに自由主義的な価値観を持つ、社会民主主義のような社会が実現できるのでは……」との夢を抱いたことも事実です。その夢がソビエトでは実現不可能である、との結論にいたるのに、もう15年かかりました。独裁が、ソビエト体制にとっての必然である、との考えにいたったのです。

 (記者):いつ、そうした結論に達したのです?

 レフチェンコ:最終的には、1976年か、77年頃(*昭和51、52年頃)です。

 (記者):ということは、日本に来てからですね。

 レフチェンコ:日本に着任してから、最終的結論に達しました。

 (記者):日本が、なにか、特別の影響でもあなたに与えましたか。

 レフチェンコ:大きな影響がありました。

 (記者):どういうふうに?

 レフチェンコ:日本のもつ民主主義社会に触れて、私個人の意見が明確にできあがったわけです。それまで、長い間、私は精神の彷徨とでも呼ぶべきものを経験しました。現在、持っている政治的、道徳的価値観に至る道のりは本当に長かったのです。

 政治的にも精神的にも、私は考えに考え続けました。そして、ソビエトの体制というものを完全に否定するという考えにいたったのです。

 (記者):そうですか。

 レフチェンコ:日本に来てから、こうした結論にいたったのです。私は、ソビエトの体制を憎みはじめました。そして、それに対して戦おうと考えました。しかし、私のKGBとしての立場では、内部からでは戦うことはできなかったのです。戦うためには、どこか自由陣営の国に政治亡命を求めるしか、他に選択の余地がなかったのです。そこで、アメリカに、亡命を求めたのです。

 (記者):亡命の決意を固めたのも、ほとんどソ連の体制に違和感を感じたのと、同時期のことですか。

 レフチェンコ:すでに、そういう決意は固めつつあったのですが、本当に決心したのは、1979年(*昭和54年)のことです。「もう、こうした状況には耐えられない」との決意にいたったのです。

・・・(**同上書211~217頁)

 こうして1979年(昭和54年) 10月に駐日KGB将校レフチェンコ少佐は、日本にある米国機関に出頭しそのまま米国に亡命しました。それから13年後の1992年11月にラトヴィアの首都リガの英国大使館に家族と供に亡命したのが、同じくKGB第一総局文書管理部門に定年の1984年(昭和59年)まで勤め上げたミトロヒン氏でした。

   第(70)回でご説明した通り、彼は1972年(昭和47年)のKGB本部移転以来、密かに「たったひとりの反体制運動」として毎日少しずつ、第一総局の機密文書を紙片に筆写しては命懸けで靴や衣服などに隠して持ち帰り、家族にも秘密にして、週末のダーチャ(ロシア式別荘)に運んでそこでタイプして文書整理をしつつ、12年間で総計10万頁分の極秘文書の写しを錫やアルミ製のトランクに詰め込んで、別荘の床下に隠し続け、さらに退職後の8年間も地道にコツコツと文書整理とタイプに務めたのです。彼が自分の手書き筆写文書をタイプして整理したモスクワでの10巻分とロンドン亡命後の26巻分の計36巻分が、こうして現在ケンブリッジ大学のチャーチル・カレッジ図書館に保管されているのです。〔山内智恵子著/江崎道朗監修『ミトロヒン文書 ソ連KGB・工作の近現代史***』(2020年ワニブックス刊)より〕

 このミトロヒン氏は、1968年(昭和43年) 8月20日に20万名ものワルシャワ機構軍(*実質はソ連軍)部隊が、チェコスロバキアに軍事侵攻して「プラハの春(民主化運動)」を圧殺した「チェコ事件」以後、〔ミトロヒンはソ連体制を、共産党、「ノーメンクラツーラ」と呼ばれる特権階級、およびKGBの「三頭の怪物」がロシア人民を奴隷にしているイメージで見るようになり〕、〔ソ連社会が改革不可能であることの証明〕と考えるようになったと言います。(***前掲書68頁) 

   また山内智恵子先生は同上書***101頁で、ソ連のような一党独裁国家では、共産党が秘密警察を抑え、秘密警察が赤軍(ソ連軍)を抑えるという権力構造で成り立っていると説明しておられます。軍隊はいざとなればクーデターによって党と政府を倒す軍事力を有しているため、その軍隊の指導者を常に秘密警察に監視させ、危ないと見れば即座に連行して処刑(粛清)してしまう。そしてその秘密警察の幹部は、常に共産党の首脳(最初はレーニン、次はスターリン)によって監視・警戒されており、やはり危ないとなれば秘密警察の首脳も処刑(粛清)されてしまうという、恐怖の暗黒政治が行われていたのです。その秘密警察の様子がわかる部分を同書***から少し拾ってみます。

・・・スターリンはレーニンが病気になったころから着々と秘密警察の権限を拡大していました。1934年(*昭和9年)のOGPUからNKVD (*KGBの前身)への改組でそれがピークに達します。NKVD(*内務人民委員部)は通常の刑事犯罪を取り締まる各地方の刑事警察を傘下に収め、ソ連国内で住民を大規模に強制移住させる権限を持ち、刑務所や強制収容所を監督していました。さらには国境警備も担当していたので、国境に配備するための実質的な軍隊も持っていました。住民の大規模強制移住ができるということは、まるで人の体に臓器交換やサイボーグ手術を施すように、思ったように国の形を作り変えられるということです。実際、秘密警察は1930年代には農村地帯でやりたい放題やっています。(*中略)

   GPU(*国家政治保安部)時代に外交への影響力を獲得した話は先にしましたが、強制収容所を握っているということは、実は経済政策を牛耳る力も持つことになります。西部国境から極東まで、全国にたくさん作られた強制収容所には、ただ同然で使い倒せる無尽蔵の労働力がありました。その労働力が、運河や工場の建設、鉱物資源の採掘、農地開発など、ソ連経済にとって重要なところで使われていたのですから、秘密警察の経済に関する発言力は無視できません。「ソ連は秘密警察国家だった」「秘密警察はソ連にとって国家の中の国家だった」とものの本によく書いてあるのも当然です。ほとんどモンスターのようなものです。こんな秘密警察が相手では、軍情報部(*GRU)は太刀打ちできません。

・・・(***同上書101~102頁)

 スターリンが自身の権力を固め、そして維持するために懐刀として用いた、秘密警察NKVD (のちのKGB)は、農村でもそしてモスクワをはじめとする各都市・各地方でも、「大テロル(大粛清)」という大量の処刑・虐殺を行います。そしてその刃は、NKVD長官の更迭により、NKVDの内部にも及び、さらには赤軍(ソ連軍)の幹部も大量に処刑されるに至ったのです。この模様は次回以降にまた取り上げたいと思いますが、ソ連の本当の歴史は、二千万人とも三千数百万人ともいわれる大量の人民殺戮を伴う血に塗れた「人民大粛清の歴史」に他ならなかったのです。

 ご参考:今までに一億人の人民を虐殺してきた共産主義圏の「成績」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12721515476.html    (まだの方はご一読を)

 レフチェンコ氏は、上記の「週刊文春」のインタビューの終わりに、次のように述べています。

・・・<私は不慮の死など恐れはしない>

(記者):長時間、いろいろな話をして下さって、本当にありがとうございました。最後に、日本の読者に、言いたいこと、メッセージなどがありましたら、どうぞ。

 レフチェンコ:私は、もう一度、なぜ公衆の前に出ることになったか、という理由を強調させていただきたいと思います。

 私は、どうしても、日本のみなさんに目前に待ちかまえる危険に気づいて下さるよう、警告したかったのです。これまで、いくつかの新聞、雑誌、テレビとのインタビューに応じたのは、私自身の宣伝のためとか、あるいはセンセーションを狙ったためではありません。私は、センセーショナルなことは好みません。どうしても、日本のみなさんに説明しなければいられなかったのです。

 私自身、劇的ともいえる体験を重ねてきました。私は、ソ連の体制がいかなるものであり、KGBがどんなことをしているか、を熟知しているつもりです。不幸にも、私自身がKGB将校でした。ですから、こういった体験をもとに、日本のみなさんがソ連及びKGBについての理解を深めて下さったら、との考えにいたったのです。

 日本は、私の心の一部であり続けています。私は、日本から恩恵をこうむっています。それだからいっそう日本のみなさんに、来るべきソ連の脅威を、知ってほしかったのです。脅威といっても、ロシアの国民からでなく、ソ連の社会主義体制とKGBがもたらす脅威のことです。私のインタビューの内容を真剣に考えて下さい。そして、最も適切な結論を引き出して下さることを心から望んでいます。

 こういう一連の発言をしてしまったことで、私の生命が危険にさらされることは百も承知です。私は、後悔しません。正当な理由がある場合には、私は喜んで死にます。

 日本の一部のマスメディアが、私の発言を歪曲しようとしていることに、少々困惑はしています。しかし、彼らが何を言おうと、私は気にかけないつもりです。私は、この一連の発言を続けることで、生命を賭けています。しかし、私の発言の信憑性に疑問を呈している人々は、ほんの一時期の、興味と、気まぐれから、私を傷つけようとしているのでしょう。

 私の死に方は、ふつうでないかもしれません。予期せぬ病いに冒されるかもしれません。私は、尋常一様な方法では死ねないことになるでしょう。なぜなら、KGBが、結局は私を発見し、殺すからです。しかし、どんなものだって、私のファイティング・スピリットを失わせることはできません。

 私は、どうにかしてあと五十年は生きのびたいと真剣に考えています。ある人間が窓を破って飛びおり自殺した、というニュースが、みなさんの耳に届くかもしれません。私の身に、そんなことが実際、起こったとしたら、KGBがついに私の所在をつきとめた、という証しになるのです。

 私は、戦士です。あと五十年は、生きようと思います。こういう状況に身をおく人間は、脅え続けるものだ、とおっしゃるかもしれません。しかし、私は自分が、今行なっていることを、とても幸福に感じているのです。戦闘状況に入っているとも感じています。戦えば、人は必ず傷つきます。どんなことが起こってもなんの不思議もありません。

 戦いの最中には、人間は弱気になってはいけません。到達すべきゴールだけを希い、いかにしたら敵に勝てるかのみを考え続けるべきだと思っています。

・・・(**同上書227~230頁)

 実際に、加瀬英明監修/宮崎正弘訳『ソ連KGBの対日謀略 レフチェンコ証言の全貌』(1983年3月山手書房刊)の65頁にある、彼の米下院情報特別委員会秘密聴聞会の記録によれば、ソ連当局は彼に死刑判決を下し、KGBは内部向けに「裏切り者は死罪に値する」と言明したということです。そしてKGBのエージェントがアメリカでレフチェンコ氏の所在を探し出そうとしていたことが判明しています。(*Richard Miller spy case) 

   また、2006年にロンドンで毒殺されたロシアの元FSBスパイで、英国に亡命していたアレクサンドル・リトビネンコ氏の暗殺事件は、KGBの後身機関であるロシア連邦保安局(FSB)が「裏切り者を処刑した」のだといわれています。

 ご参考:「リトビネンコ氏暗殺事件、ロシアが関与=欧州人権裁判所」

https://jp.reuters.com/article/idUSKBN2GH0WG/

 平和ボケとよくいわれる日本では、こうした暗殺の緊迫感などは感じられませんが、レフチェンコ氏にとっては、本当に命懸けの亡命と証言であったのです。その命を賭けたレフチェンコ氏の言葉は、わたくしたちも真摯に傾聴すべきであり、ソ連という国はもうなくとも、こうした体制の国々は今なお日本の周囲に存在しているのだ、という厳然たる事実は、しっかりと受け止めなければならないのです。(次回につづく)