前回読んだ、慶應義塾大学法学部政治学科名誉教授の故・中村菊男法学博士の遺著「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)のⅨ章「日華事変と参謀本部の雰囲気」による稲田正純陸軍中将(陸士29期、陸大37期恩賜)の証言内容を、少しおさらいしつつ検討してみます。

 稲田中将のお話は、ご自分の参謀本部戦争指導課勤務から陸軍省軍務局軍事課勤務時代にかけて、まさに陸大優等卒業で恩賜の軍刀組にふさわしく、陸軍中央中枢部課における中堅幕僚将校としての活躍をしていた頃、直接の上司・上官であった石原莞爾第一部長(作戦部長)とその周囲の人々の動向を語ったものでした。

 本シリーズ第(44)回の川田稔先生による、「一夕会(二葉会と木曜会の合同体)」のメンバーが、その後の昭和陸軍を導くグループとなっていったという分析の通り、それぞれの時代における「主役級・脇役級の人物」は当然に世代交代して行くのですが、大きく捉えれば、やはり永田鉄山将軍が一時代の主役を担い、不幸にも相沢三郎中佐に暗殺されたあと、登場したのがこの石原莞爾将軍であったわけです。実際に、満洲事変で有名を馳せた石原中佐を、当時の陸軍首脳であった荒木貞夫陸軍大臣と、閑院参謀総長宮に代わって実務を差配していた真崎甚三郎参謀次長は、満洲事変の謀略により譴責処分するどころか大佐に進級させて、かつ恩賞的にジュネーヴ会議随員として欧州に派遣しました。そして帰国後は仙台の歩兵第4連隊長のあと、昭和10年8月1日付で陸軍中央中枢である参謀本部作戦課長に任じられます。このとき石原大佐を陸軍の中央中枢に呼び寄せたのは、当時陸軍省軍務局長に栄進していた永田鉄山少将でした。同時に永田局長は、併せて武藤章中佐(当時)を、陸軍省軍務局軍事課の高級課員(*課長補佐に相当)に据えたといいます。

   〔永田鉄山陸軍中将:陸士16期首席、陸大23期次席恩賜、スイス駐在/石原莞爾陸軍中将:陸士21期、陸大30期次席恩賜、ドイツ駐在/武藤章陸軍中将:陸士25期、陸大32期恩賜、ドイツ駐在〕

 この辺りの情況を、第(44)回の末尾でご紹介した川田稔先生著「***昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐」(中公新書、2011年刊)より、少し読んでみましょう。(*裕鴻註記)

・・・二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣の陸軍トップは、寺内寿一陸相、閑院宮参謀総長、杉山元教育総監となり、いずれも政治色が薄く、中堅幕僚層の意向が強く反映される布陣となった。そのような陸軍の政治状況のなかで強い影響力をもつようになったのが、陸軍省では武藤章軍事課高級課員、参謀本部では石原莞爾作戦課長であった。いずれも永田が軍務局長在任中にそれぞれ陸軍省、参謀本部に呼び寄せていた(ただし、石原の着任は永田暗殺の当日)。

 武藤(*章)は、永田直系の統制派中核メンバーで、二・二六事件直後、有末精三ら軍事課員を動かして、川島義之陸軍大臣はじめ、荒木(*貞夫)、真崎(*甚三郎)、林(*銑十郎)、阿部(*信行)ら古参軍事参議官に辞職を迫り、実現させた。また寺内(*寿一)を陸相に推す動きにも石原らとともに加わっている。広田弘毅内閣成立のさいには、陸相候補の寺内寿一とともに組閣に介入するなど、陸軍省において重要な役割を果たした。当時の磯谷廉介陸軍省軍務局長、町尻量基軍事課長は、いずれも非皇道派系一夕会会員で、武藤らの動きを容認していた。なお、永田の腹心東條英機はこのころ関東憲兵隊司令として満洲に赴任していた。

 石原(*莞爾)は、統制派メンバーではないが、非皇道派系一夕会会員で、陸軍内で満洲事変の主導者として声望が高く、陸軍軍令機関の中心ポストである作戦課長として、事実上参謀本部をリードする存在となった。ちなみに、当時の参謀次長は西尾寿造、作戦部長は桑木崇明で、いずれも政治色は薄く、石原の発言力が突出していた。

 この武藤、石原らを中心とする陸軍の圧力によって、一九三六年 (昭和11年) 五月、広田弘毅内閣下で軍部大臣現役武官制が復活する、(*一九)一三年 (大正2年) 第一次山本権兵衛内閣によって軍部大臣現役規定が削除され、その任官資格が予・後備役にまで拡大されていた。それが再び現役武官に限定されることとなったのである。武藤ら陸軍省軍事課の起案によるものであった。この影響はまもなく、後述する宇垣一成の大命拝辞すなわち宇垣内閣の流産となって現れることとなる。・・・(***同書126~127頁)

 このあと、武藤章中佐は一旦満洲の関東軍作戦参謀に転出し、そして前回の稲田証言のように、石原莞爾作戦部長が膝元の作戦課長に呼び戻しました。昭和12年3月1日付の発令です。そしてその年の7月7日に盧溝橋事件が発生し、日華事変に発展してゆくわけです。その際に、石原莞爾作戦部長は、事変拡大には反対で、早期に収拾停戦させようとしました。今は、戦争などすべきではなく、満洲の経営と日本国内の産業近代化に専念して、日本の国力を充実させるべきである、との考えであったからです。

   しかし、その石原部長の膝下の、作戦を司る武藤章作戦課長は事変拡大派であり、この際「一撃」してこれを機会に、北支五省(河北省・察哈爾省・山東省・山西省・綏遠省)を勢力圏に置こうという考えでした。それは、故人となった永田鉄山将軍が、かつて資源調査をした結果、自給自足の経済圏(生存圏:(Lebensraum:レーベンスラウム)」を確立し、総力戦を戦い抜ける「高度国防国家」を建設するためには、満洲の資源だけでは足りず、内蒙古・華北・華中にまで進出しないといけない、という研究結果に基づく考え方からでした。これはそもそも、かつて永田軍務局長の下、当時の武藤章軍事課高級課員が起案した「対北支那政策」の方針だったのです。そして、その手始めとして華北分離工作(上記の北支五省に親日的地方軍閥政権を樹立する構想)を目指したというわけです。加えて、同じくその永田スクールの一夕会会員であった、田中新一陸軍省軍務局軍事課長が、武藤作戦課長と同じく「事変拡大派」として、石原作戦部長と鋭く対立します。〔田中新一陸軍中将:陸士25期、陸大35期、ソ連・ポーランド駐在〕すなわち陸軍省中枢の軍事課長も、そして参謀本部中枢の作戦課長も揃って「事変拡大派」であり、石原作戦部長とその配下の戦争指導課その他少数だけが「事変不拡大派」だった、という構図でした。

 一方で、その事変不拡大派の石原莞爾作戦部長が、事変当初に容認した内地からの三個師団を含む兵力増派が、結局は事変拡大の要因となってしまいました。その同意理由を、前掲書「***昭和陸軍の軌跡」から拾ってみましょう。

・・・翌(*昭和12年7月) 9日、武藤(*章)ら(*参謀本部作戦部)作戦課は、華北の中国側第二九軍および中央軍増援に対応するためとして、関東軍二個旅団、朝鮮軍一個師団、内地三個師団の現地派兵案を作成した。田中新一(*陸軍省軍務局)軍事課長も、このさい「徹底的に禍根を剪除」するため、宋哲元らの第二九軍を、北京・天津地域のみならず河北省全域から排除すべき、との強硬論を主張した。

 これに対し、石原(*莞爾)の影響下にあった、河辺虎四郎(*陸大33期)作戦部戦争指導課長や柴山兼四郎(*陸大34期)陸軍省軍務局軍務課長らは事態不拡大のスタンスをとっていた。河辺と柴山も陸士同期(*24期)だった。

 翌10日、参謀本部で武藤ら作戦課の派兵案が審議された。このころ石原は、「目下は専念満洲国の建設を完成して、対ソ戦(*軍備)を完成し、これによって国防は安固をうるのである。支那に手を出して支離滅裂ならしむることはよろしくない」と考えていた。現在は満洲国の建設に専念し、対ソ軍備を完成すべきときで、今中国に手を出せば、これらが阻害され国防建設は混乱する。したがって事態を拡大すべきではない、というのである。だが、この審議では、武藤らの派兵案に同意を与えた。このときの理由として、のちに石原は、実際に派兵するには決定後数週間かかる。不拡大を望んでいたが、「形勢逼迫」した場合の「万一の準備」として動員は必要と判断した、と述べている。この日、蔣介石直轄の中央軍四個師団北上の情報が入っていた。石原は、その情報から、現地軍と居留民に危機が迫っているとの急迫感から、やむなく派兵案を承認したのである。

・・・(***前掲書154~155頁)

 歴史の転轍機は、その時々の選択と決定によって、左右に分岐してゆきます。後から遡れば、この時、この点で、別の進路を選択していれば、違う展開となっていた、という分岐点が必ずいくつかあるのですが、それは必ずしも本来的かつ本質的理由や根拠に依らない選択によって、結果的に進路が決定されてしまうことがよく散見されるのです。この「万一に備えての増派容認」こそが、結果的には日華事変が拡大していく要因の一つとなったのです。

 その一方で、その選択肢だけが歴史を動かすわけでは、もちろんありません。その背景となる、根本的な考え方や見方の相違がいくつかあるはずで、そのスタンスや志向性の違いが、結局歴史の進路に大きく左右していることも、また見逃せないのです。その意味でもう少し、石原莞爾作戦部長らの「事変不拡大派」と、武藤章作戦課長並びに田中新一軍事課長らの「事変拡大派」の、両方のものの見方・考え方を、上記書「昭和陸軍の軌跡***」から拾ってみましょう。

・・・石原は、これ(*拡大派)に次のように反対した。現在の動員可能師団は三〇個師団で、そのうち中国方面に振り向けることができるのは十五個師団程度である。それでは中国との「全面戦争」は不可能である。しかし、内地三個師団を派遣し戦闘状態に入れば、全面戦争となる危険が大きい。今中国と戦争になれば、「行くところまで行く」。そうなると「長期」にわたる「持久戦争」とならざるをえない。だが、現状では相当数の精鋭師団を対ソ国境に配備しておかねばならず、十分な兵力を中国に投入できない。そのような状況下で、中国の広大な領土を利用して抵抗されれば、泥沼に入った状態となり身動きが取れなくなる、というのである。(*中略) 今の中国はかつての分裂状態から国家統一に向かいつつあり、民衆レベルでの民族意識が覚醒してきている。(*後略)

 それに対して、武藤らはこう考えていた。中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蔣介石ら国民政府は屈服する。今は軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北五省を日本の勢力下に入れるべきである。そして、満洲と相まって対ソ戦略態勢を強化することが必要だ。現在の事態は、それを実現する絶好の機会である、と。

 つまり、国民政府に一撃を加えて屈服させ、従来からの政策である華北分離を実現させようとするものであった。日本が実質的に華北五省をコントロールし、独占的支配権を獲得することによって、華北の資源と市場を確保しようとしたのである。また、それには、軍事的一撃を与えれば容易に屈服するとの、中国の抵抗力に対する低い評価がともなっていた。そのころ武藤は、華北に内地三個師団を派遣すれば、「あそこらの有象無象が双手を挙げて来るだろう」と発言していた。

 ただ、このような中国認識は、武藤らの一撃論にとって副次的な理由であった。主要な要因は、石原の欧州戦争絶対不介入論に基づく、華北分離工作の中止や華北権益放棄の方針を打破することにあった。当時欧州では、(*ナチス)ドイツの再軍備宣言につづくラインラント進駐や、イタリアのエチオピア侵攻と(*国際)連盟の制裁決定などで、軍事的緊張が高まっていた。そのようななか、武藤らは次期大戦への対処の観点から、石原の政策に強い危機感をもち、華北の軍需資源と経済権益をあくまで確保しようとしたのである。

 かねてから武藤は次のような意見をもっていた。蔣介石ら「国民党」の外交政策は、国権回復、領土回復をめざす「革命外交」である。それは、「決して満洲というものを将来放棄しようという意志をもたない」ものであり、満洲を「自分の国に取り返そう」とし、米英や(*国際)連盟の力をかりて「日本に抗して」きている。今後も必ずや「日本に刃向かってくる」であろう。日本は「日満提携」を図り、さらにこれを「ぜひ支那の本土に及ぼさなければならない」のであり、そのための「覚悟と準備」をもたねばならない、と。すなわち、それは中国の漸次的勢力圏化を企図したものであり、国家総力戦に向けての軍需資源確保や市場獲得への要請を背景とするものであった。

・・・(***前掲書156~159頁より一部抜粋)

 このように、そもそも中国に関する全般的情勢判断の根本的相違が、石原部長と、武藤課長・田中課長らの間に、大きく存在していたのです。加えて、次のようなソ連や欧州の情勢判断も、その根拠・背景には加わっていたと川田稔先生は指摘されています。

・・・それにしても、なぜそれ(*事変拡大)がこの時点だったのだろうか。じつは、七月七日の盧溝橋事件より約一ヵ月前の(*昭和12年) 六月十一日、ソ連で赤軍最高指導者トハチェフスキー元帥らの処刑が発表された。その後も赤軍指導部の粛清(*虐殺)は続き、多数の(*ソ連)軍首脳が処刑された。このスターリンによる赤軍大粛清は翌年(*昭和13年)まで継続し、旅団長以上の約四五パーセントが殺害されたといわれている。

 このトハチェフスキー元帥らの処刑の情報は、すぐに陸軍中央にもたらされ、この事件で赤軍(*ソ連共産党軍)は大打撃を受けており、ソ連が(*日華事変に)介入してくる可能性は低いと判断された。それが、この時点で、盧溝橋事件を機に中国に一撃を加えようとした一つの要因だったと思われる。軍事的打撃によって南京国民政府を屈服させる好機と捉えられたのである。

・・・(***前掲書162頁)

 したたかで老獪なスターリンは、自らのこの赤軍大粛清によるソ連軍の弱体化のゆえに、強力な日本軍がソ連に向かってこないように、中国に向かわせること、さらには、その中国軍の抗日戦力を高めさせるための第二次国共合作の促進や、蔣介石に対する軍事支援の強化などの対策を執ったものと思われます。盧溝橋事件自体が、そのスターリンの意志を背景に、中国共産党の指導による共産系学生が、最初の銃弾を打ち込んだ可能性が高いのです。ご参考までに、次の三本の記事をぜひご一読下さい。

   大東亜戦争と日本(40)日華事変を起こした犯人は誰か

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663082124.html?frm=theme

   大東亜戦争と日本(41)盧溝橋事件を起こした犯人は誰か(1)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663161474.html?frm=theme

   大東亜戦争と日本(42)盧溝橋事件を起こした犯人は誰か(2)

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12663473601.html?frm=theme

 

 さて、前回の稲田証言の末尾に、「日華事変時の大本営設置問題」がありました。これには、実は大日本帝國の「国家意志決定システム」上の構造的問題があるのです。それは、石原莞爾将軍がその陸軍大佐時代、二・二六事件鎮圧後に参謀本部作戦部作戦課長として主導して新設した、戦争指導課長に自ら就任してから纏めた「対ソ戦争指導計画大綱」(昭和11 (1936) 年8月参謀本部第二課)の中にある、次の機構改革案が元になっていると考えられます。この時、戦争指導課にいてこの大綱策定にも関わった稲田正純中将の戦後証言によれば、恐らくこれを基に、当時の稲田中佐は陸軍省軍務局軍事課に転じてのち、日華事変下の大本営設置を考え推進したものと思われるのです。まずは上記大綱の一部分を読んでみましょう。

・・・第三 戦争指導機関

其一 要 綱

一 戦争指導の為、統帥は大本営、戦時政治は政府之を担任し、両者の統一調和を必要とする事項は、相互に協議決定したる後、各々其(*の)担任事項に付(*き)御裁可を仰ぎ実行す事重要にして、戦争の運命に重大なる関係を有する事項は御前会議を開催して決定す

 御前会議に列席する者は、当面の問題に関する責任者にして而(*しか)も最小限のものとし議長を設けず

 政府と大本営との見解を異にする場合には聖断に依る 此際御前会議を開催するを例とす

 参謀総長、軍令部総長、内閣総理大臣、枢密院議長、特命に依る皇族、元帥等を以て、戦争指導に関する最高御諮詢府を作り、大元帥陛下の諮詢に応ず 右の外戦争指導の為、最高会議若(*もし)くは国防会議に類する機関を設くることなし・・・(「現代史資料(8)日中戦争(一)」昭和39年みすず書房刊、解説者:島田俊彦・稲葉正夫、686~690頁の「対ソ戦争指導計画大綱」より)

 つまり、この石原莞爾戦争指導課長の構想によって、「御前会議」という「戦争指導機関」が登場することになったのです。この「御前会議」は、具体的には「大本営政府連絡会議」を、陛下のご臨席を仰いで御前にて開催することにより、決定に重みを持たせるものであったのですが、そもそも「大本営」は日清・日露などの戦時にのみ設置されるものであったにも拘わらず、陸軍の強い要求により「戦争(war)ではなく事変(incident)である」としていた「日華事変」下でも大本営を設置したことから具現化したものです。当時の海軍省首脳たる米内光政海相と山本五十六海軍次官は、そもそもこの「事変下の大本営設置」に強く反対していましたが、先に参謀本部からの根回しを受けていた軍令部(*伏見総長宮以下)が同調して賛成したため、やむなく設置された経緯があります。

   なぜ米内海相や山本次官がこれに反対していたかというと、この大本営の設置により「大本営政府連絡会議」なるものが「御前会議」として国家意志決定機関化することが予想され、それは、従来は国政に直接容喙する道筋のなかった統帥部(陸軍の参謀本部と海軍の軍令部)が、国策の策定に起案機関として参画することになって、延いては大日本帝國の基本国策を決定する事務局と化すことを感じ取り、政治・外交を統帥部が左右することを深く危惧したものと思われます。それは「政治による軍事の統制(シビリアン・コントロール)」とは真逆の、「統帥部(軍事)による政府(政治)のコントロール」につながるであろうとの懸念を抱いていたからだと考えられるのです。

 皮肉なことに、まさにその懸念が逆機能して、後の近衛第一次内閣での「トラウトマン工作」を巡る、当時の参謀本部多田駿次長(同工作推進派)と、杉山元陸相・広田弘毅外相・近衛文麿首相(同工作断念派)の対立が生じた際、長時間埒のあかない議論が果てしなく続いた挙句に、米内海相が、これ以上参謀本部が本来の外交責任者である広田外相の所論に反対すると、それは統帥部による政治介入となる旨を指摘したことにつながるのです。よくこの部分だけが、取り上げられ、トラウトマン工作を潰したのは米内海相であるように喧伝されていますが、実際には同工作継続に反対していたのは、杉山陸相、広田外相、近衛首相であったのであり、米内海相は、陸軍部内の不一致については、まずは多田次長は杉山陸相を説得し、その上で杉山陸相が閣内で外交当事者の広田外相と近衛総理を「同工作継続」に同意するように説得するのでなければ、外交という政治事項に責任を負っている政府・内閣が反対している事項を、統帥部たる参謀本部が覆すことになれば、内閣・政府への不信任ということになり、内閣総辞職につながることになる。

   つまりは統帥部は政府の責任事項である政治・外交に、そこまで容喙すべきではない、という原則論を指摘したものと考えられるのです。もっとも、米内海相は、ナチスドイツ政府自体を信用しておらず、そのナチスの駐華大使であるトラウトマンの工作自体にあまり期待していなかったものとは思われます。しかし、この時の発言は、海軍流のその事項の担当責任者(つまりは広田外相)の判断を尊重するというのが、本旨であったと思われるのです。本件については、次の記事をご参照下さい。

→ なぜ日本はアメリカと戦争したのか(5)帝国陸軍とクーデター、米内光政提督について

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12342177968.html

   米内光政海相によるトラウトマン工作継続反対の真相

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12043396588.html

   不幸にして米内海相と山本海軍次官らの懸念は結果的に的中し、以後日華事変の処理から、日独伊三国同盟締結、北部仏印進駐、南部仏印進駐、そして対米英蘭戦争へと坂道を転がってゆくように、大東亜戦争開戦へと進んでゆくこととなったのです。

 わたくし個人の見解ですが、昭和天皇は可能な限り当時の明治憲法を、忠実に遵守され、しかしそのギリギリのところで、明治大帝の御製お読み上げなども含め、ご自分の和平へのご意志を、明瞭に御前会議でもお伝えになられていたものと思います。あとはそれを耳にした、当時の政府と統帥部の首脳陣が、昭和天皇の御心に忠実に従ったのか、こそが問われる問題であり、全ての戦争責任を陛下に負わせるような真似は、決して忠臣のなすべき態度にあらず、国務・統帥の各職を預かる、文武の臣下自らの責任であることを、深く自覚すべきであると信じています。従って、「戦争責任を負うべき」は、開戦当時の政府・統帥部の首脳陣であることは、明瞭であると考えております。

   そして、その淵源を辿れば、上述の通り事変下の大本営の設置と、陸軍の参謀本部戦争指導課が案出した「御前会議」、即ち「大本営政府連絡会議」という「戦争指導機関の設置」にこそ、天皇のご発言を封じて、臣下の決定通りのご裁可を求める「国家意志決定システム」を生み出した、元凶があるものと思わざるを得ないのです。そしてそれは独り帝國陸軍にのみ帰せられるべきものではなく、大本営設置当時の、近衛文麿首相にも相応の、重い責任があることも、また否定できない事実であろうと感ずる次第です。

   ご参考:「大東亜戦争と日本(35)日本の戦争計画は「対ソ戦」が主体」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12640642541.html

 さてここで、話しを中村菊男著「昭和陸軍秘史**」の稲田正純陸軍中将の証言に戻したいと存じます。前回の続きの部分を以下に読んでみます。

・・・〔とめどない“暴支膺懲”作戦〕

 中村:(*日華) 事変の経過というものを考えてみますと、やはり昭和十三年(1938年)一月十六日の、「蔣介石を対手にせず」の近衛声明が、一番大きな最初のヤマだったと思うのですが、あの声明が出される前後の事情、また多田(*駿、参謀)次長が反対されたいきさつは、どのようなものだったのでしょうか。

 稲田:いま述べましたようなわけ(*海軍省首脳の反対)で、大本営設置の案は進めることができなくなり、仕方なしにつくったのが連絡会議です。連絡会議で、やっと政治が統帥に口を出すことができるようになった。ところが、さて連絡会議を開いたところ、第一回からけんかになってしまった。悪いのは、近衛さんが*末次さんを内務大臣にしたからです。とうとう参謀次長の多田駿と陸軍大臣の杉山(*元)さんとのけんかになってしまった。

 中村:末次さんを内務大臣にしたのは、近衛さん自身の意向だったのですか、それとも外からの圧力があってのことですか。

 稲田:海軍にしてもロンドン(*海軍軍縮)会議以来、末次さんはやっかいな存在でしたよ。米内さんにしても末次さんは煙たい存在です。これは近衛さんのイカ物食いだと思います。近衛さんは必ずこうしたことをやる人なのですね。

   〔*末次信正、海兵27期、海大7期首席、当時予備役海軍大将・内務大臣、艦隊派(対英米強硬派)の首領/米内光政、海兵29期、海大12期、当時現役海軍大将・海軍大臣、のち総理大臣(就任時自ら予備役)、戦時中陛下の特旨により現役復帰して最後の海軍大臣〕

   〔*如何(イカ)物食い:常人の食べないものを、わざとまたは好んで食べること。常人とちがった趣味・嗜好をもつこと。また、その人。(広辞苑説明より)〕

 いずれにしても(*杉山)陸軍大臣と(*多田)参謀次長がけんかをしたのじゃまずい。それで多田さんは参謀次長をやめるといい出しました。

 中村:多田さんと梅津さんは同期ですか。

   稲田:そうです。それで陸軍次官をしていた梅津さんが心配して多田さんを引きとめたのですが、なかなか承知しない。とうとう私まで狩り出されて止めに行きました。すると、「おまえは心配して来てくれたのだろうが、もうやめないから安心しろ。まあ一杯飲んで行け」と言うのです。多田さんは一杯も飲まずに、私にだけお酌をしながらこう話しました。「おれは本気でけんかしたのだが、ある人が、近衛さんがしっかりしているなら、だいたい、近衛公爵家など千年も続きはしないよ。それを相手にするのはまちがっていると忠告してくれた。それから日露戦争のとき、伊藤博文さんがやめる、やめるというと明治天皇が、伊藤、自分には辞職がないぞ、と言われて引き下がったという話を思い出した。いま、やめると言ってダダをこねるのは申訳けないと思い返した」ということです。

 〔*杉山元、陸士12期、陸大22期、当時陸相、他に参謀総長・教育総監、当時陸軍大将、のち元帥陸軍大将、終戦後拳銃自決/多田駿、陸士15期、陸大25期、当時参謀次長・陸軍中将、のち大将/梅津美治郎、陸士15期7席、陸大23期首席、当時陸軍次官・陸軍中将、のち大将、終戦時参謀総長〕・・・(**前掲書225~226頁)

 もとよりそれぞれの人物やその人の立場、所属組織、考え方、価値観、好悪などで、評価は全く変わってくるのですが、少なくともその時、その人物から見えていた景色としては、こういうことだったのだ、ということが伝わって来ます。稲田陸軍中将は当然に「陸軍史観」からの評価や批判をしておられるし、わたくしなどが「海軍史観」の窓から、同じ歴史事象や人物の評価などをすると、また異なった画像・描像が映ることも、当然あるのです。そうした点も含め、次回も、もう少しこの稲田証言の続きを読みたいと存じます。