私は大東亜戦争を引き起こした根本原因は日華事変にあると思っています。「皇軍不敗」伝説のメンツからも、帝國陸軍は泥沼化した日華事変からの撤退も終戦もできず、進退極まって、日独伊三国同盟による枢軸国側のナチスドイツやファシスト党イタリアの勢いを借りて解決する方向性を追求したのです。つまりは第二次世界大戦の勃発により、緒戦で蘭・仏の本国を占領した独軍が、間もなく英本国にも上陸して占領を果たすだろうとの予想をもとに、米英など連合国側に援助を求めていた蔣介石が率いる国民党政権を孤立無援の状況に追い込むことで、蔣介石側から講和を求めてくることを期待したのです。

   この政戦略の方向性は、当時参謀本部の作戦部長であった田中新一陸軍少将や、陸軍省軍務局長の武藤章陸軍少将が、各々抱いていた政戦略観にも表れていますし、対米英蘭戦争の開戦直前に、参謀本部作戦部作戦課の高山信武陸軍少佐が起案した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(本シリーズ第(3)回ご参照)も「支那に対しては対米英蘭戦争、特にその作戦の成果を活用して援蔣の禁絶、抗戦力の減殺を図り在支租界の把握、南洋華僑の利導、作戦の強化等、政戦略の手段を積極化し以て重慶政権の屈伏を促進す」となっています。

 さて改めてこの日華事変がどうして終結できなかったのかについて、考えてみます。根本的には、各局地戦闘では勝利の連続であり、当時の中華民国の首都南京まで攻略占領したのですが、蔣介石政権は奥地重慶に退いて徹底抗戦の姿勢を崩しませんでした。帝國陸軍は広大な中国大陸に百万もの兵力を注ぎ込んだのですが、それでも軍事的に確保できたのは各主要拠「点」とそれを結ぶ「線」であり、広大な「面」を全て押さえることは不可能でした。つまりいくら「戦闘」で勝っても「戦争」には勝ちきれないという、総力戦の様相がすでに現れていたということです。しかし当時の陸軍の、あくまでも「戦闘(*作戦)」の次元でしか捉えられない認識・理解の限界からすれば、それは米英、特に英国が「援蔣ルート」を使って「援蔣物資」を供給しているから重慶の蔣介石政権は倒れないのだという解釈・観点に立ち、それゆえの対英憎悪を募らせると共に、一方では巧みな蔣介石政権の対米英広報戦略(特に宋美齢蔣介石夫人の活躍など)で英米の有力者や世論を中国側の味方につけた政略的効果により、その反作用としての「日本の反英米感情」を募らせることに繋がっていったと、見ることができるのです。(以下、*裕鴻註記、漢数字等適宜修正)

   昭和15(1940)年10月に参謀本部第一(*作戦)部長に就任した、田中新一陸軍中将(作戦部長就任時は陸軍少将、陸士25期、陸大35期)が、戦後出版した田中新一著/松下芳男編・補節「田中作戦部長の証言**」(昭和53(1978)年芙蓉書房版)から、日華事変に関する記述を次に見てみましょう。

・・・昭和13(*1938)年11月、日本軍は武漢攻略、広東占領を一段階として、その進攻作戦を終った。この年12月2日、日本大本営(*主に陸軍の参謀本部)は、爾後の作戦指導に関し、「占拠地を確保して、堅実なる長期攻囲の態勢を取る」べきことを命令した。事件(*日華事変の端緒となった盧溝橋事件)発生以来一年有半の進攻作戦は、ここに終りを告げ、事変は今や長期戦という第二段階に入ったのであった。日本は進攻作戦で、徐州においても、武漢においても、敵軍(*蔣介石軍)の主力を捕捉することができず、これを逸したことは、長期戦争化の一つの要因をなした。真に遺憾であった。・・・(「**田中(*新一)作戦部長の証言」40~41頁)

 つまり帝国陸軍の大陸作戦は、いくら進攻作戦で局地的勝利を重ねても、さらに奥地に後退しつつ戦い続ける蔣介石軍主力を結局は捕捉撃滅できず、ついに長期持久戦状態に入ったのです。言い換えれば日華事変を軍事的に解決する目処を失い、長期泥沼化したことを意味します。そこで軍略的(*軍事戦略的)対処から政略的(*政治戦略的)対処に切り替え、近衛文麿首相(第一次近衛内閣)が昭和13(*1938)年11月3日に声明した「東亜新秩序」の形成による、蔣介石政権の国際政治的な弱体化を図ろうとしたと解釈できるのです。その後の展開についても、引き続き同上書の田中新一作戦部長の記述を見ましょう。

・・・日支(*日華)事変は、第三期二カ年(自昭和13年12月至昭和15年11月)を経過したけれども、ついに解決に到着することができなかった。第二次近衛内閣は、新たなる支那(*日華)事変処理の方針を打ち出すため、(*昭和)15 (*1940) 年11月13日御前会議を経て、「支那事変処理要綱」を決定した。その要旨とするところは、内に在っては、国内戦時体制を強化して、国防力を拡充し、外に在っては、(*日独伊)三国同盟を活用するはもちろん、日ソ国交を調整する等、内外一切の政戦略(*政治戦略・軍事戦略)を綜合して、大長期戦争を戦い抜かんとするに在った。

 もっとつき詰めて見れば、支那事変そのもののみを取り上げて、解決すべき望みはほとんど絶えた。支那事変の解決は、ただ欧亜を綜合した国際大変局の一環としてのみ、これを期待することが出来る、というのであった。早期解決の望みはない、長期抗戦の結果に待たねばならなくなった。日本が、事変当初以来堅持してきた東亜局地的の事変解決の見込みはなくなって、国際的大紛争(*つまり第二次世界大戦)の解決に依存せねばならなくなった。日支(*日華)直接解決も絶望となった。第三国(*ナチスドイツ)の介入に待たねばならなくなった。

 杉山(*元)参謀総長は、嘆じて語っていた。「近衛(*首相)も松岡(*洋右外相)も、支那事変には飽きてしまっている、現在の方策には絶望している。彼等はいうている、支那事変は今のままでは、解決なんて望みはない、南方に足をおろす(*南進する)こと、事変を解決する道はそれだけだ、支那に向けてある力を南方に移すべきだ」と。これは大東亜共栄圏絶対観である。

 日本は昭和15(*1940)年秋には、長期大持久戦争に、唯一の出路を求めねばならないまでに追いつめられていたのだ。日支(*日華)事変第四期はかくして始まった。この窮境において、大東亜共栄圏政策が、南進政策を伴って、急に具体化してきたのは、誠に自然の成り行きであった。日満支の経済ブロックである東亜新秩序内には、石油、良質の鉄鉱、銅、鉛、亜鉛、モリブデン、燐鉱石やゴム、綿花、羊毛等の原料を欠いていた。これらの資源は、東南アジアに豊富だった。米英の経済封鎖が強化するに伴なって、東亜新秩序は、必然的に東南アジアに拡延せらるべき必然の運命を持っていた。

 大東亜共栄圏政策は、東亜新秩序政策と、南進政策を統合したものと見ることが出来る。東亜新秩序政策が、すでにアメリカの極東政策たる門戸開放政策と、正面的に衝突しているのに、更に南進政策が加わった。この南進政策が、日米間の重大なる癌となったことはいうまでもなかった。・・・(「**田中(*新一)作戦部長の証言」42~44頁)

 このように田中新一陸軍中将は著述しているのです。巷間、日本は東南アジアの植民地を解放するために、大東亜戦争を起こしたのだという人々もいますが、何よりも開戦当時の帝國陸軍統帥部のカナメである参謀本部第一部長(*作戦部長)であった田中新一陸軍中将(*当時は陸軍少将)ご自身が、このように著述しているという事実は無視できません。つまり平たく言えば、日華事変を拡大したけれども、軍事的に解決できない、つまり勝利して終結できなくなって、その矛先を南方へと向け、三国同盟を結んだナチスドイツの勝利をテコにして蔣介石に和睦を迫ろうというのが、大東亜戦争に至った根本的情況なのです。

 

 それでは、大日本帝國陸軍をここまで追い込むに至った「日華事変を起こした犯人」は一体誰なのでしょうか。昭和12(*1937)年7月7日の夜、北京(*北平)郊外の盧溝橋北方地区で、夜間演習中の日本陸軍部隊に銃弾を打ち込んだ小部隊は一体誰なのか、同時に中国軍(*国民政府軍)側も銃撃を受けているのです。この「盧溝橋事件を起こした犯人」、いわば「実行犯」については、次回以降分析を加えてゆきたいと思いますが、今回はもう少し大局的な観点から、日華事変という日本と主に蒋介石率いる国民党政府との実質的な「戦争」を望んだのは一体誰か、すなわち「計画犯」は誰かということを、「高度な平凡性」の「分析の窓」を通して考えてみたいと思います。

 かつて海軍大学校戦略教官時代の井上成美提督(当時海軍大佐)は、探偵推理小説を買い揃えて学生たちに読むよう推奨したといいます。つまり「情報の断片」から論理的推理を重ねて、ある一定の確度のある推測をしてゆく知的なトレーニングをすることを求めたのです。「推理小説的」に推論すれば、「犯人は誰か」を考えるとき、結果として「一番得をしたのは誰か」ということから解明してゆく手法があります。つまり「日華事変により得をしたのは誰か」という観点で推理することは、有力な視座を提供することになるということです。

 この意味で、ユン・チアン/ジョン・ハリディ著「マオ 誰も知らなかった毛沢東***」土屋京子訳2005年講談社刊から、以下の記述を読んでみましょう。日華事変が全面戦争に発展したきっかけは、盧溝橋事件に引き続いて勃発した第二次上海事変です。その発端となった状況が重要な糸口なのです。

・・・1937(*昭和12)年7月7日、北京近郊の盧溝橋で中国軍と日本軍が衝突した。日本軍は7月末には華北の二大都市、北京(*北平)と天津を占領した。蔣介石は宣戦布告しなかった。少なくとも当面は、全面戦争を望まなかったからだ。日本側も全面戦争を望んでいなかった。

 この時点で、日本には華北以遠に戦場を広げる考えはなかった。にもかかわらず、それから数週間のうちに、1000キロ南方の上海で全面戦争が勃発した。蔣介石も日本も上海での戦争は望んでいなかったし、計画もしていなかった。日本は1932(*昭和7)年の休戦合意に従って、上海周辺には海軍陸戦隊をわずかに3000人配置していただけだった。(*昭和12年) 8月中旬までの日本の方針は、「進駐は華北のみとする」というものであり、「上海出兵には及ばない」と明確に付け足すことまでしていた。『ニューヨーク・タイムズ』の特派員で消息通のH・アーベントは、のちにこう回想している。

《一般には……日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江(*揚子江)流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は……この地域に非常に少ない兵力(*海軍陸戦隊)しか配置しておらず……18日、19日には長江のほとりまで追いつめられて河に転落しかねない状況だった。》

 アーベントは、「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」の存在に気づいた。確かに、そうした計画が存在したという点について、アーベントの読みは当たっていた。アーベントが読みきれなかったのは、計画の首謀者が蔣介石(アーベントはそう思っていた)ではなく、ほぼまちがいなくスターリン(*ソ連)だった、という点である。

 (*昭和12年)7月、日本がまたたく間に華北を占領したのを見て、スターリンははっきりと脅威を感じた。強大な日本軍は、いまや、いつでも北に転じて何千キロにもおよぶ国境のどこからでもソ連を攻撃できる状況にあった。すでに前年(*昭和11年)から、スターリンは公式に日本を主要敵国とみなしていた。事態の急迫を受けて、スターリンは国民党軍(*蔣介石軍)の中枢で長期にわたって冬眠させておいた共産党スパイ(*スリーパー)を目ざめさせ、上海で全面戦争を起こして日本を広大な中国の中心部に引きずり込む――すなわちソ連から遠ざける――手を打ったものと思われる。

 「冬眠」から目ざめたスパイは張治中(*チャンチーチョン)という名の将軍で、京滬警備(南京上海防衛隊)司令官だった。張治中は、1925 (*大正14)年当時、黄埔(*ホワンプー)軍官学校で教官をしていた。黄埔軍官学校は、広州の近くにソ連が資金と人材を提供して設立した士官学校だ。学校設立当初から、モスクワは国民党軍の高い地位にスパイを送り込もうという確固たる意図を持っていた。張治中は回想録の中で、「1925年夏、わたしは共産党に心から共鳴し……『紅色教官』『紅色団長』と呼ばれていた……わたしは中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。周恩来(*のちの中華人民共和国首相)は張治中に対し、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。こうして、1930年代半ばごろには張治中はソ連大使館と密接な連絡を取りあうようになっていた。

 盧溝橋事件の発生当時、京滬警備(*南京上海防衛隊)司令官という要職にあった張治中は、日本に対する「先制攻撃」に踏み切るように蔣介石に進言した。(*中略) 蔣介石は耳を貸さなかった。上海は中国にとって産業と金融の中心であり、国際的な大都市でもあったので、蔣介石はここを戦場にしたくなかったのである。しかも、上海は蔣介石政権の首都南京に非常に近い。蔣介石は日本に攻撃の口実を与えないために、わざわざ上海から部隊や大砲を遠ざけたほどだった。(*中略)

 しかし、(*昭和12年)8月9日、張治中は蔣介石の許可なしに上海飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の(*大山勇夫)中尉と(*斎藤與藏)一等(*水)兵を射殺したのである。さらに、一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。(*大山事件) 日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蔣介石を攻めたてた。蔣介石はこれを却下し、13日朝、張治中に対して、「一時の衝動に駆られて」戦争の口火を切ってはならない、(*中略)と命じた。

   14日、中国軍機が日本の旗艦「出雲」を爆撃し、さらに日本海軍陸戦隊および地上に駐機していた海軍航空機にも爆撃をおこなった。張治中は総攻撃を命じた。しかし、蔣介石は「今夜は攻撃をおこなってはならない。命令を待て」と、張を制した。待てども命令が来ないのを見た張治中は、翌日、蔣介石を出し抜いて、日本の戦艦が上海を砲撃し日本軍が中国人に対する攻撃を始めた、と、虚偽の記者発表をおこなった。反日感情が高まり、蔣介石は追いつめられた。(*中略)

 一日戦闘をおこなったところで蔣介石は18日に攻撃中止を命じた。しかし、張治中は命令を無視して攻撃を拡大した。8月22日に日本側が大規模な増援部隊を投入するに至って、全面戦争は避けがたいものとなった。

 日本軍との戦いはおびただしい数の犠牲をもたらした。上海では中国軍180師団のうち73個師団(*約40%) ――しかも精鋭部隊――40万人以上が投入され、大部分が殲滅された。中国が自力で育てた空軍(北部戦線には一機たりとも派遣しなかったほど蔣介石が大切にしていた空軍)のほぼ全部、そして軍艦の大部分が、この戦いで失われた。蔣介石が1930年代初めから営営として築いてきた国民党軍の戦闘能力は、大幅に弱体化した。日本側も約四万の犠牲を出したが、中国側に比べれば損害ははるかに小さかった。

 蔣介石が全面戦争に追い込まれたのを見て、スターリンは積極的に蔣介石の戦争続行を支援する動きに出た。(*中略) モスクワは戦局の展開に小躍りして喜んだ、と、ソ連外相マクシム・リトヴィノフはフランスのレオン・ブリュム副首相に認めている。(*中略) たった一人の冬眠スパイを使ってソ連に対する日本の脅威をかわしたのだから、これは、おそらくスターリンにとって大成功の作戦だったと言えるだろう。(*中略) 蔣介石は上海事変の勃発に怒り、落胆し、張治中の正体に疑いを抱いて、9月に司令官の職を解任した。しかし、蔣介石は張治中を公には暴露しなかった。(*中略) 

   日本と中国の全面戦争は、毛沢東にただちに利益をもたらした。それまで、蔣介石は共産党軍に独立指揮権を認めよという共産党の要求を考慮することさえ拒否してきたが、ついにこれを認めたのである。こうして共産党軍(*八路軍)は蔣介石の指揮下に編入されたものの、毛沢東は自軍の指揮権を維持することになった。(*中略) いまや中国共産党は事実上合法政党となった。刑務所に収監されていた共産党員は釈放され、共産党は主要都市に事務所を開き、国民党支配地域でも党機関紙を発行できるようになった。(*中略) 抗日戦争はこのあと8年間続き、2000万の中国人が犠牲になった。その結果、蔣介石の力は著しく弱まり、一方の毛沢東は共産党軍を130万に大増強した。抗日戦争が始まった時点では、蔣介石と毛沢東の兵力は60対1だった。戦争が終わった時点では、それが3対1になっていた。・・・(***前掲書上巻340~345頁より部分抜粋)

・・・(*1937(昭和12)年) 8月下旬、八路軍(*共産党軍)を構成する3個師団は黄河を渡り、数百キロ東方の山西省に敷かれた前線へ向かった、指揮官たちも、兵士たちも、日本軍との戦いに勇み立っていた。中国共産党指導者の大多数も同じだった。しかし、毛沢東はそうでなかった。毛沢東は抗日戦争を、中国人民が一致団結して日本と戦う戦争、というふうにはとらえてなかった。蔣介石と同じ側に立つつもりはなかったのである。後年、毛沢東は側近たちとの会話で、「蔣介石と、日本と、われわれ――三国志だな」と語っている。つまり、この戦争を三つ巴(どもえ)の争いと見ていたのである。毛沢東にとって、抗日戦争は日本の力を利用して蔣介石を滅ぼすチャンスだった。

 後年、毛沢東は、日本が「おおいに手を貸してくれたこと」に対して一度ならず感謝の言葉を口にしている、戦後、訪中した日本の政治家たちが過去の侵略について陳謝すると、毛沢東は、「いや、日本軍閥にむしろ感謝したいくらいですよ」、彼らが中国を広く占領してくれなかったら「われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう」と述べたという。これこそ毛沢東の本心だ。

 毛沢東は、蔣介石の力を利用することなしに日本軍を中国から追い出す戦略など持ち合わせていなかった。また、蔣介石が敗北した場合に共産党軍が日本の占領軍に対抗できるとも思っていなかった。毛沢東にとって、すべての希望はスターリンにかかっていた。(*中略)

 つまり、抗日戦争に臨む毛沢東の基本姿勢は、共産党軍の戦力を温存し勢力範囲を拡大していく一方でスターリン(*ソ連軍)が動くのを待つ、というものだった。したがって、日本軍が華北および上海方面から中国内陸へ侵攻してきたとき、毛沢東は蔣介石と交渉して、共産党軍を正面戦に投入せず国民政府軍の側面部隊として遊撃戦に使うことを了承させた。毛沢東は自軍を侵略者相手の戦闘に使いたくなかったのである。

 毛沢東は共産党軍の指揮官に対して、日本軍が国民政府軍を打ち負かすのを待ち、日本軍が進軍していったあとの後背地を領土として獲得せよ、と命じた。日本は、中国の広い地域を征服しても、それを占領維持することはできなかった――占領地域のほうが本国(*日本列島本土全域)よりはるかに広大だった(* 1938 (*昭和13) 年12月26日の大本営発表によれば、万里の長城以南の中国領土の47%を日本軍が占領していた)からだ。日本(*陸軍)は鉄道や大都市を支配しているだけで、それ以外の小さな町や農村は早い者勝ちの取り放題だった。毛沢東は同時に、敗走した国民政府軍の兵隊を集めて共産党軍を拡大せよ、という命令も出した。侵攻していく日本軍の後方でおこぼれを拾って共産党軍を拡大強化していく、というのが毛沢東の作戦だった。(*中略) 当時は「日本が占領地を多く取れば取るほど好都合」という意識だった、と、毛沢東はのちに語っている。・・・(***前掲書上巻346~348頁より部分抜粋)

 つまり、蔣介石支配地域を日本軍により占領させ、日本軍の「点」と「線」以外の「面」の占領地域を、共産党軍が後から占拠して支配領域を広げてゆくという「毛沢東の政戦略」だったのです。一方のソ連は、ソ連支配領域と直接国境で接する満洲国と内蒙古、そして華北地方を支配する日本陸軍との軍事衝突のリスクを回避・減殺するため、蔣介石および毛沢東が組んだ統一抗日戦線の中国軍と日本軍が戦争するように仕向けることが、「スターリンの政戦略」でした。これらはいずれも、かつてレーニンが1920(大正9)年11月、モスクワ共産党細胞書記長会議で述べた、次の言葉が指し示した方向性だったのです。

   「全世界における社会主義の終局的勝利に至るまでの間、長期間にわたってわれわれの基本的原則となるべき規則がある。

 われわれが世界を征服せず、かつ資本主義諸国よりも劣勢である間は、帝国主義国家間の矛盾対立を巧妙に利用するという規則を厳守しなければならぬ。現在われわれは敵国に包囲されている。もし敵国を打倒するということができないとすれば、敵国が相互にかみ合うよう自分の力を巧妙に配置しなければならない。そして、われわれが資本主義諸国を打倒し得る程強固となり次第、直ちにその襟首をつかまなければならない。」(今回はここまで)