前回取り上げた、慶應義塾大学法学部政治学科名誉教授の故・中村菊男法学博士著「昭和陸軍秘史**」(昭和43年番町書房刊)による堀毛一麿陸軍少将(陸士28期、陸大37期)のインタビューより、大正末期の帝國陸軍では、明治建軍期から日清・日露両戦争を含め、帝國陸軍に君臨してきた山縣有朋(1838-1922)元帥陸軍大将が亡くなった1922 (大正11) 年以降、その「長州閥」を打破するための方策として、陸軍中央中枢で勤務するエリート幕僚将校を養成する陸軍大学校に、長州(山口県)出身者を入学させないよう、東條英機将軍ほか非長州出身のエリート幕僚が腐心していた様子や、陸大の参謀養成教育が、タテのラインの指揮系統が発揮しにくい雰囲気を生んでいたことなどがわかりました。つまり大山巌将軍(日露戦争時の満洲での陸軍トップ)のように、芒洋として部下参謀からの起案・意見具申をそのまま採用し、失敗したら責任だけは執ってくれるタイプをよしとする風潮を生んだことが、結果的に中堅幕僚・参謀による「幕僚統帥」の構造を生んでいたことを、垣間見ることができました。

   また陸大の優等卒業者(恩賜の軍刀組)とそれに続く好成績卒業者の、上位から1~2割(通常は各期が50名なので約5名の軍刀組と、続く約5名を合わせて約10名程度)は、欧州(特にドイツ)や米国に留学し、帰国後も陸軍省軍務局や参謀本部作戦部といった陸軍中央中枢の部課に勤務し、しかもほぼ将官(将軍)に進級することが約束されていたスーパーエリートであったことがわかります。

   そもそも陸軍士官学校を卒業した同期生約500名のうち、約1割の50名しか陸大に進学できないため、残る9割の陸軍将校は、「原隊」と呼ばれる自分の出身母体となる部隊での隊付将校として、営々と現場勤務で兵隊を教育訓練し、出動が命ぜられれば、満洲や、日華事変が始まってからは中国大陸各地の戦場に部隊とともに進駐して戦うことを本務としていたわけです。太平洋戦争が始まってからは、さらに南方のジャングルや孤島での壮絶な戦場に送り込まれ、圧倒的な火力や戦力を誇る米軍を相手に死闘を重ね、また補給難から餓死し、玉砕するという過酷な運命を辿った陸軍将兵が多いのです。

   私たち部外者は、どうしても陸軍中央中枢の幕僚将校たちに、厳しい眼を向けざるを得ませんが、それ以前に、むしろこうした九割の一般的な陸軍将校が率いた兵隊さんたちを含む陸軍部隊を、苦しめ、死地に投じたのは、まさしく参謀本部のエリート幕僚将校であったことの方が、陸軍部内でも「重い事実」なのだと言えましょう。以前何度も本ブログでご紹介した「三宅坂(陸軍省・参謀本部)の幕僚団」の50~60名というグループこそが、この陸大を上位二割以内の優良な成績で卒業した人々だったわけです。

   ご参考:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(9)陸軍中堅エリートによる幕僚統帥の構造、岩畔豪雄将軍談より

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12361723727.html?frm=theme


 さて今回は、引き続き前掲書「昭和陸軍秘史**」のⅨ章「日華事変と参謀本部の雰囲気」から、稲田正純陸軍中将(陸士29期、陸大37期恩賜)による証言を読みたいと存じます。まさにこの「三宅坂の幕僚団」がどのように動いていたかが語られているからです。この稲田将軍ご自身が、陸大を三席で卒業し恩賜の軍刀を拝領されたエリートであり、フランス駐在(仏陸軍大学校卒業)、参謀本部防衛課課員(昭和3年)、参謀本部防衛班長(昭和10年)・戦争指導班長(昭和11年)、陸軍省軍事課高級課員(課長補佐、昭和12年)、参謀本部第2課長(作戦課長、昭和13年)などの陸軍中央中枢の要職を経験され、まさに内部でその様子を体験されていた方であるが故に、大変貴重な証言なのです。

                               〔**同書213頁より〕

   尚、私自身も中村先生ご同様、三重県伊勢にルーツを持ち、また学校も中村先生の直接の後輩にあたりますご縁で、天に在します中村先生のみ魂に伏してお赦しを乞い、この絶版の貴重な書の片鱗を、若い学生や研究者の皆さんに知ってもらうためにも、この章をぜひご紹介致したいと存じます。(*裕鴻註記)

・・・〔参謀本部の人びと〕

 中村:日華事変勃発前後の陸軍参謀本部の雰囲気というものからお話し願えませんでしょうか。

 稲田:当時、私は石原莞爾さん(*当時参謀本部作戦課長)の部下でしたが、昭和十一年(1936年)、石原さんは強硬に意見具申して参謀本部の編制改正を行ない、第一部に権限を集中してしまいました。これは実に思い切ったことです。それまで総務部に陸軍省の軍事課とタイアップする第一課があって、参謀本部代表のようなかたちをとっていました。それで常に第一部作戦の第二課と勢力争いをやっていたのですが、石原さんは両課を合同して新しく第三課を作り、第一部に入れてしまったのです。結局、第一部に勢力を統合してしまったわけで、新第二課は戦争指導専門になりました。私は防衛課の班長をしていました。しかし、防衛課というのは、たとえば、防空をやるといっても兵力使用の権限は第二課(*作戦課)が握っているのですから、ほんの下働きですね。だいたい防衛課は編制改正のときにも、つぶして統合してしまおうという意見もあったのですが、どうにか残されました。

 石原さんは改編の前後とも第二課長(*作戦課長、戦争指導課長)をやっていましたが、昭和十二年(1937年)に少将になると同時に第一部長(*作戦部長)になりました。

 それから石原さんは、自分の構想を打ち出していきました。まず戦争指導課(*新・第二課)に、作戦屋で通ってきた河辺虎四郎(*課長)を、事実上参謀本部の中心課である(*新)第三課には武藤章(*課長)をすえた。武藤章は傑出したやり手ですが、一筋縄では使えない男です。石原さんがあるとき、「仕事をさすなら武藤だ」と言ったのを印象強く覚えています。しかし、私は、はたして石原さんは使いこなす自信があるのかと思っていました。結果的には、疑ったとおり飼い犬に手をかまれてしまったわけです。(*武藤課長が石原部長に逆らった)

 石原さんはもともと戦争をやるという気持はない。国際発言権の持てる国力を建設することが先で、軍備はそれに乗っからなくてはならぬ。すなわち作戦と編制とを一課(*ひとつの課、第三課のこと)にまとめ、筋の通った新軍備を建設しようとしたのです。だから日本の軽工業を重工業に切り換える―これは石原さんが満洲にいたときからの構想で、松岡洋右さん(*当時満鉄総裁)と手をつないで満鉄に金を出させたりしていました。性格的にいうと、このほうが武藤章の仕事に合っているのです。かれは政治家ですから。ところが河辺は純粋のインテリ作戦屋なのです。けっしてケタはずれのことはしないし、上司の命令を確守する人です。もちろん、いやなことは、いやだと言いますが、どちらかというと腰が弱くて押しのきかないところがあるのです。金沢人の通弊かもしれません。ともかく戦争指導課の当面するおもな仕事である産業建設の面は、河辺(*課長)を使って自分(*石原部長)がやる、軍備のことは武藤(*課長)に任せておく、という気持ちだったわけですよ。

 しかし、ふたをあけてみると、思いがけぬ支那(*日華)事変が起こり、参謀本部と陸軍省のけんかになってしまった。陸軍省側は梅津美治郎、後宮淳、参謀本部側は石原(*莞爾)さんです。石原さんは後宮さんに対しては「あれが……」と言って相手にもしていなかったようです。その下には陸軍省側に田中新一、参謀本部側に武藤章という手に負えない同期(*陸士25期)のふたりがいたわけです。(*この昭和12年当時と異なり、後年の開戦時は、陸軍省側が武藤章軍務局長、参謀本部側が田中新一作戦部長となる) どうもうまくいかなかった。

 原因は、すべてのことは人事に問題があったと思います。統帥も人事、戦争も人事です。人事をまちがえたら、いくらりっぱな作文をしたところで、どうにもならない。当時の陸・海軍や政府には、東京裁判でいわれたような共同謀議だとか、統一された国策だとかいうものはあるどころじゃなかった。むしろ、そんなものがあったなら、あのようなへまな戦争はやりません。支那(*日華)事変でも、国策がないものだから、ズルズルゆき、大東亜戦争にいってしまったのです。

 〔“岡目八目でやれ”〕

 稲田:ところが、ちょうど支那(*日華)事変が勃発する年(*昭和12年)の四月、私は戦争指導課の班長に引っぱり出されました。それまで、そこには同期の寺田雅雄がいたのですが、仕事相手の(*陸軍省)軍事課編制班長やはり同期の吉田喜八郎とどうも馬が合わず、よく私のところに相談に来ていました。それが第三課に替わることになったので、そのあとに私を売り込んだというわけなのです。

 中村:同期といいますと……。

 稲田:(*陸士)二十九期です。武藤章が二十五期で、私たち二十九期は、ちょうど班長や高級課員(*課長補佐)という中堅クラスで、省部(*陸軍省・参謀本部)の要点を占めていました。すなわち、陸軍省の補任課(*人事課)の高級課員に額田担、軍務課の高級課員に河村参郎、政策関係に佐藤賢了、支那関係に園田晟之助、それに参謀本部の寺田や私がいました。園田は、おとなしい優等生型の男でした。河村は常識マンで温厚な、視野の広い男でした。(*河村参郎中将は戦後、首謀者辻政信参謀の身代わりの戦犯として、シンガポール華僑虐殺の責めを負い同地で死刑に処せられた。陸士29期首席、陸大36期恩賜の秀才。)

 こういうわけで戦争指導課に来ましたが、私自身は、おもしろいところに来たな、とも思いました。従来の仕事が防衛課で作戦屋とは違ったいわゆる対地方的な、民生や政治に関心をもつことも多かったので、戦争指導課とは言いながら、国力建設万般に働きかけるのを当面の任務としたこの課の仕事には、きわめて意欲的でした。石原さんは産業改革をやる。われわれの番には教育の立て直しをやろうじゃないか、などと同僚の高島辰彦や堀場一雄と話し合ったりもしたものです。課にはいま一人、支那関係の今田新太郎(*陸士30期、陸大37期、支那研究員、満洲事変に関わる。のち中将)がいました。今田は石原莞爾の子分で、いったい参謀本部の仕事をしているのか、協和会の仕事をしているのかわからない。協和会の出張所を使ったりしましてね。実行力が非常に旺盛な男でしたね。

 <協和会>*(原注)

 <「満洲国」で協和会法により一国一党の「官民一致」の「公党」として結成された団体。総裁、理事、役員にそれぞれ満洲国執政、各部大臣および高級官吏、関東軍幹部を起用し、「五族協和・王道楽土」のスローガンのもとに政府と一体になって教化宣伝を行ない、また関東軍の指導のもとに軍事的・特務的活動に従った。>

 一方、当時の陸軍省はどうかというと、「二・二六事件」のあと始末に梅津美治郎さんが陸軍次官になって以来、これは梅津さんの独裁のようなものでした。石原さんは、「梅津のヤツは石橋をたたいても渡ろうとせん、しかし陸軍省で相手になりがいがあるのは梅津だけだ」と言っておりましたね。実際、石原さんは陸軍省に行っても、もっぱら梅津さんを相手にしていました。つまり、参謀本部の代表は石原さん、陸軍省の代表は梅津さんというところでした。

 そのころ、陸軍大臣は杉山元さんでしたが、棟梁の材というより、むしろ優秀な事務官というところです。軍務局長は後宮(*淳)さんでした。しかし梅津さんは、軍務課長の柴山兼四郎さんを一番信頼していまして、終戦前に柴山を次官に引っぱり出した。軍事課長の田中新一さんもいたけれど、梅津さんとは馬が合わず、田中の下の田村を信頼していました。

 〔チャンコロ*思想で誤った〕(*当時の表現、原著のママ記述)

 中村:昭和十二年(1937年)七月七日に盧溝橋事件が勃発したのですが、当時、事件発生について中央ではどのように考えていたのでしょうか。

 稲田:日支(*華)間でもめているということは、もちろん私も知っていましたが、直接タッチしておらず、私としては全力をあげて石原さんのいう産業改革と、それにともなう政治的なバックを推進させるということに頭を入れて勉強していたのです。したがって、日支(*華)間に事件が起きるかもしれないということについては、ほとんど考えずに仕事をしていたわけです。

 もっとも陸軍課(*ママ、陸軍省軍務局軍事課)の岡本清福さんが支那(*中国)に行ったりしていましたから、そうとうむずかしい状況にきているな、という想像はつきました。岡本さんは私より二年先輩ですが、陸大にはいっしょに行き、かれはドイツへ、私はフランスへ派遣された仲で、私を弟のようにめんどうみてくれた人です。しかし、性格的には、強引に押し切るという人でなく、常識の勝った人でした。

 その岡本さんあたりからも支那(*中国)の状況は聞きましたが、支那(*日華)事変が始まって、私は強硬論の連中にあきれたことがあるのです。一つは、だれも先の見とおしがついていない、二つには、だれも漢民族について理解をもとうとしないのです。

 私の考えでは、日本はいわば小品文で、もともと横綱や大関の柄ではない、ときどき大物を倒す人気相撲で前頭の筆頭といったところ、おらなければ寂しいが、かといって大関・横綱にはなれない。横綱や大関になるにはそれ相当の身体が必要なのです。満洲事変が起こったときは、ちょうどフランスにいましたが、ついに起こるべきものが起こったと思い、日本はいったん満洲事変に乗り出したからには、大陸に地盤を持ち、支那と手を握って大関にならなければならないと考えました。日本の周囲にはロシア、支那(*中国)、アメリカがいる。これをみんな敵に回すことはないので、そのなかのだれかと手を結んで大関の地位へ昇格しなければならない。では、だれと手を結ぶかといえば、私は当然、漢民族とであると思っていました。

 日本人は、とかく漢民族をバカにして「チャンコロ(*当時の表現:ママ)」といいましたが、聖徳太子の昔から明治初年まで概してその(*中華文明)文化の影響下にあり、東夷の立場をむしろ甘受していたので、現に日清戦争前には鎮遠という清国の甲鉄艦が長崎に来て、その乗組員が上陸して日本の子女をからかったりしたのを悲憤慷慨したものでした。それが日清戦争に勝ち、日露戦争に勝って調子に乗ってきた。その後、漢民族は革命をやり日に日に新たになってきている。革命をやった国の軍隊を、しろうととバカにしては大まちがい、旧套を脱却してこれほど恐ろしいものはないのです。だから、この漢民族の澎湃たる力を軽視して阻止しようなどというのは、もってのほかなのです。石原さんは、「東亜連盟をつくって、実力のある国が中心になったらいい」と言いましたが、さすがよいことを言うと思いました。

 ところが、支那(*日華)事変が始まってみると、兵隊全部に、やっぱり「チャンコロ」(*ママ)思想といいますか、漢民族をバカにしてかかる気持が横溢しているのです。なかでも、いちばんよくないと感じたのは支那(*中国)課の連中なのです。

 中村:石原さんは不拡大を唱え、また中央でも不拡大といいますか楽観論が支配的で、一撃を与えれば中国側は参るだろうといった考えもあり、現地でも強硬論が出るといった状態でしたが、結局はずるずると拡大していってしまったのですね。

 稲田:それというのも、いま言いましたとおり、第一に支那(*中国)課がダメなのです。支那(*日華)事変が始まったときの課長は、軍艦が渤海湾に行って示威運動をやったら、すぐに頭を下げるだろうなどと、実に幼稚なことを言っていましたよ。上海でも、上海をとったらすぐ手を上げる(*降伏する)だろう、大場鎮の場合も同じようなことを言うといった始末でして、実に先が見えないのです。

 石原さんの改正で第二部各課の班長はことごとく第二課(*戦争指導課)兼務になっていました。その会議の席上、事変の見通しを質問しても、満足な返事をもらうこともできませんでしたね。だいたい、陸軍の支那通(*中国通、対中国の専門家)というのは、たとえば蔣介石通とか、北洋軍閥通とかいうのであって、漢民族通(*中国全体の専門家)というものがいないのです。私の知っているかぎりでは坂西利八郎(*陸士2期、陸大14期優等、陸軍きっての支那通、のち中将)さんあたりの話は頭が下がるのですが、当時の課長以下景気のいい(*威勢のいい)連中の言うことは、さっぱりたよりにならなかった。古いところでは多田駿、土肥原賢二、岡村寧次など、みんな坂西さんに可愛がられた人たちでした。

 中村:どうして支那課は馬車馬的になってしまったのでしょうか。

 稲田:陸大の優等生組は欧米に派遣されますね。そして、次の次の組ぐらいの者が通常支那にやらされて(*中国に派遣されて)いたのです。派遣期間は二年でした。田中隆吉(*陸士26期、陸大34期)なども、もともとヨーロッパに行きたかったのが、とうとう支那に行ってひねくれてしまった。しかし、支那に行った人たちだって、けっして悪意をもってやるわけじゃないので、一生懸命に国のためを思ってやっているのです。

 〔石原莞爾の失敗〕

 中村:日華事変が始まった以後の石原さんは、いかがだったのでしょうか。石原さんには、なにか途中でほうり出すというようなところがあったのじゃありませんか。

 稲田:石原さんは頭は冴えているけれど、体が弱いのです。事変が始まってからは、夜はほとんど寝ていないでしょう。朝出てくると真赤な目をしているのです。夜通し石原さんのところには人が押しかけてくるものですから、とうとう女中が夜逃げしたりしましてね。河辺虎四郎さんが、「朝、部長の言うことは相手にするな」と言ったことがあります。当時作戦担当の武藤(*課長)とは、ことごとに意見が合わない。参謀本部一般の空気も一撃主義で、(*石原)部長は戦争阻止に孤軍奮闘していました。〔*一撃主義とは、日華事変拡大派の対中国攻撃積極論で、この際一撃すればすぐに降参するだろうという見方〕

   子飼いの戦争指導課だけが部長の味方だったので、よく私たちの部屋に来て石原一流の突飛とも思える注文を出したりしたものでした。弱い身体でと気の毒に見ていましたが、始めの動員だけは案外でした。橋本群(*陸士20期次席、陸大28期優等)さんがそのときの天津軍(*支那駐屯軍:天津駐留の日本陸軍部隊)の参謀長でしたが、ずいぶん苦労していました。実際、あとで、「あのときの動員だけはひどい目にあった」と言っていましたよ。なんといっても、せっかく事件収拾の運びがうまくいっていたのに、あの動員で事態はまったく根底からひっくり返ったのですからね。あの動員はまちがいでした。あれだけ政治のことを考える石原さんが動員に同意したというのは、京津地方(*北京・天津) 万一の場合を考えぬわけにはいかなかったといいながら、やはり疲れで、たぶん精神衰弱ぎみだったとしか思えません。

 戦後、私(*稲田中将)が巣鴨(*戦犯用刑務所)で柴山兼四郎(*陸士24期、陸大34期)さんと話し合ったとき、柴山さんは、「石原莞爾が支那事変に反対だったというのは大うそだ。もしほんとうに反対なら動員に同意するはずがない。あの場合、同意しなくても収拾できたはずだ」と言っていました。

 中村:二個師団動員のとき石原さんは、「貴公の兄貴(河辺正三)が全滅するのを見るにしのびない」と河辺虎四郎(弟)さんに言ったとか……。〔*河辺正三:盧溝橋事件当時少将・支那駐屯歩兵旅団長、陸士19期、陸大27期優等、のち陸軍大将/河辺虎四郎:盧溝橋事件当時大佐・参謀本部戦争指導課長、陸士24期、陸大33期優等、のち陸軍中将〕

 稲田:言いましたよ。河辺虎四郎さんは動員に反対しましたからね。もともと河辺さんは理論家で、筋の通らないことは頑としてきかないんですから。だから、石原さんをあまり高く買っていなかった。石原さんは満洲事変がちょうど手ごろで、第一部長(*作戦部長)は落第だというのです。

 石原さんは政治経済に関する関心も強く、とくに注文して支那駐在武官となって漢口に勤務したこともあり、変わり者でした。ですから参謀本部にきてからも、お歴々をおだてて使おうとはせず、「お前たちは束にして海にほおり込んでもよいんだ」などカンにさわることを平気で言ったりしていました。しかし満洲事変以来の石原さんの人気は、宇垣(*一成)内閣を強引につぶした以後は落ち目になったのです。そのころ隣の部屋で、私は宇垣内閣ができればよいと考えていたのです。ところが、そんなときひょっこり寺田(*雅雄)が来たものですから、「宇垣内閣をつぶして林銑十郎内閣をつくるつもりだろうが、阿部信行が林に忠告して絶対に止めさせると言っていたぞ」と話したところ、あとからすぐに石原さんが来ました。「稲田、ほんとうに阿部さんは、そう言っていたか」と聞くのです。それから石原さんは、阿部信行さんの家にとんでいきましたよ。

 このあと阿部信行さんが石原さんを評して、「石原莞爾は円周を四角か八角に歩く男だ」と言いましたが、うまい言葉ですよ。つまり、一つの目標から次の目標まで、弧を描かずに直接、まっすぐに行ってしまうのです。たとえば、産業五カ年計画を作成したときに飛行機の製作台数が問題になった。当時の日本ではせいぜい1000か1500機程度しかできなかったのですが、堀場一雄は3000機の案を苦心してつくった。ところが、石原さんは、その案を見るや「ダメだ、一万だ」と言うのです。まだ資材も産業能力もないのに、どうして一万機の案をつくり上げるか、堀場はずいぶん苦労していましたが、しかし、石原さんの一万機案は、けっしてでたらめでもなく、まちがいでもない。大東亜戦争が始まるころには、そのとおりだったのです。数理的にちゃんと見通しをつけているのです。

 〔*宇垣一成:陸士(*新制) 1期、陸大14期恩賜、陸軍大将、陸相のち朝鮮総督、拓相、外相/林銑十郎:陸士8期、陸大17期、陸軍大将、陸相のち首相/阿部信行:陸士9期、陸大19期恩賜、陸軍大将のち首相、朝鮮総督/堀場一雄:陸士34期、陸大42期恩賜、当時陸軍少佐のち大佐〕

 〔陸軍に対する海軍のジェラシー〕

 中村:稲田さんが(*陸軍省軍務局)軍事課に行かれたのは、(*日華)事変勃発直後ですか。

 稲田:そうです。(*昭和)十二年 (1937年) の七月下旬、河辺さんが日曜日にちょっと来てくれというので訪ねてみたら、「君、軍事課にいかないか」と言うのです。軍事課は一番の(*日華事変拡大派の)主戦論ですから、私が軍事課に行くと主戦論になりますよ、と言いましたよ。自分はいま戦争してはいけないと思うが、石原さんが逆立ちしたって防ぎようのないご時勢だし肝心の近衞(*文麿)首相がしっかりした態度をとっていないありさまだ。参謀次長も一撃論者である。軍事課にいったら積極的にはやらないまでも、主戦論を抑えることは止めますよ。しかし、いま(*日華)事変を進展させてはならないのだから、軍事課にいかせることは再考してほしい、と返事して別れたのです。ところが、河辺さんはまた私を呼んで、どうしてもいってもらいたいというものですから、それでは、いままでの私の態度が変わるけれども承知しておいてもらいたいと言って軍事課にいくことになったのです。しかし、軍事課で仕事をするといっても、その前にまず国の方針 ―― 国策というものがはっきり決められていなければ仕事のやりようがありませんよ。

   そのころ班長会議、高級課員(*課長補佐)会議をやっても、こんな意見が多かったのです。佐藤賢了、吉田喜八郎なども出席していたのですが、簡単に考えているようだが、北支五省といえば広大なものだ、それをどのようにやっていこうというのか、と質問すると、吉田喜八郎が言いました。「一省一個師団で五個師団あれば結構だ」と山東省の人口がどのくらいあるかも知らないのですよ。山東省には三千万の人口があって、満洲国の総人口と同じなんです。それに有名な水滸伝以来、匪賊の巣窟となっている土地でしょう。とても一個師団(*約1万5千~2万名)程度の兵力でなにができるものですか。「そんなことはない、北支は五個師団あれば十分だ」と景気のよいことばかり言うのです。どうしても国策が定まっていなければ、いきおい、出たとこ勝負になります。

   中村:それをコントロールするものはなかったのでしょうか。

   稲田:私も、これではどうにもならないと思いました。そこで、大本営をつくろうと考えたのです。私の構想では軍事独走ではなく、政治が軍事に容喙できるような組織をつくりたかったのです。参謀本部は賛成しました。いちばん喜んだのは陸軍大臣の杉山さんでしたね。しかし梅津さんは「そんなものはつくらなくても、いまのままでやっていける」と言って反対でした。それは、現在はこのままでやっていけるかもしれませんが、将来万一ロシア(*ソ連)と日本の戦争でも始まった場合、国家の戦争指導機構がしっかりしていなかったら、どんなことになるかわかりません。そのための小手調べに支那(*日華)事変を使うといえば語弊があるかもしれませんが、この際に現行の純作戦関係の大本営条令というものを改正して戦争指導機構のようなものをつくり、国策建設をしなければならないと考えたわけです。しかし海軍は断固として反対しました。

   中村:そのとき海軍が大本営設置に反対した理由は、なんだったのですか。

   稲田:ほかにいろいろあったでしょうが、一番の理由は、海軍は陸軍を抑えるのが仕事だと思っているからです。大本営を利用して陸軍がリードしようとするのではないかと考えたのでしょう。米内光政さんが反対しましたが、当時の海軍では山本五十六さんがその代表です。海軍で陸軍を抑えることのできるのは自分だけだ、と思っているのは事実そのとおりなのですが、海軍自身に利益になることだったら、逆に陸軍をおだててやらせるのですよ。もちろん海軍が、常に海軍のことに一生懸命になるのはよいのですが、政治に対する態度がいけなかったと思います。・・・(**前掲書214~224頁)

   まだもう少し、この稲田正純陸軍中将との対談は続くのですが、それは引き続き次回に取り上げることとします。また最後に出てくる、日華事変での大本営設置問題は重要です。本来、日清・日露など戦争の時にのみ設置される大本営を、日華事変という、戦争(War)ではない武力衝突事件の延長線上にある事変(Incident)において設置する、ということの意味と、その具体的な結果・効果が、のちの対米英蘭開戦につながってゆくことになるからなのです。この点を含めて、上記の内容に関する検討も次回行うことと致します。いずれにせよ、こうした帝國陸軍中央中枢の内部で、どのような動きや議論がなされていたか、が肝心な「歴史捜査」の手掛かりとなるのです。