戦前日本の特に昭和期を検分するとき、当時の帝國陸軍の組織的な「政治・外交・事変・戦争」への関与を抜きにして、真の歴史を語ることはできません。わたくしも会員の末席を汚しております軍事史学会などで質問しても、旧帝國陸軍のこうした組織的関与については、「皆わかっていることだから」という反応が返ってくることが多いのです。しかし、21世紀になった今、戦後しばらくは「常識」として、暗黙に理解されていた事実や情況も、世代交代により、現代日本を生きる60代以下の年代の方には、充分には伝達されていないのではないか、という深刻な危惧を抱かざるを得ません。

   前回、前々回と、わたくしなりに、幕末維新から先の大東亜戦争開戦に至るまでの日本の歩みを、かいつまんで概観してみましたが、やはりあの戦争へと向かう大きな主体は、帝國陸軍の中央中枢にいたエリート陸軍中堅将校群と、彼らに持ち上げられていた陸軍将官群であることは、免れ得ない歴史的事実なのです。重箱の隅とまでは言いませんが、新奇な未発見の「従犯」ばかりを発見・発表することに一生懸命になるよりも、何よりも「主犯」をしっかり確定して、その歴史の幹の把握のもとに、その枝や葉となる「従犯」を位置付けるのでなければならないはずです。その意味で、わたくしの判定によれば、やはり「主犯」は昭和陸軍の中央中枢の人々であり、「従犯」としては開戦直前期の海軍首脳・中央中堅層、そして当時の「革新」的な、政治家・官僚、言論界・マスコミの人々が、挙げられるように思います。「本末転倒」という言葉がありますが、まずは「おおもと」たる大本命を捉え、その上で、枝葉末節を含めて実態を、全体的俯瞰のもとで正確に把握してゆくのが、正しい筋道であると存じます。

   このことは、決して単純・安易に「東京裁判史観」を肯定することを意味しているのではありません。むしろ戦勝国による「東京裁判」とは全く別に、日本国民自身が、あの戦争へと向かっていった戦前日本の道程において、どのような組織や人々が、その主体となって国家・国民を牽引していたか、を正確に知ることが肝要であり、それが未来の日本国民に伝えるべき「正しい史観」に基づいた、国史を形成する基幹的要因となるからです。

   ものごとには、必ず原因となる諸要素があります。その原因要素の大小・軽重・寡多は、様々にあるとしても、少なくとも無視し得ない、主導的な原因・要因は必ずあるはずです。わたくしの近年の研究によれば、やはり昭和以降の帝國陸軍(昭和陸軍)の動向を抜きにしては、戦前昭和期の「歴史の転轍点」ごとに、大東亜戦争へと向かっていった歩みの、真の要因論は語れません。

 それこそ数年前に軍事史学会でお会いしてから、親しくご厚誼を賜った名古屋大学名誉教授(法学博士)の川田稔先生には、主に数々のご著書を通じて、この昭和陸軍に関する知見を教えて戴き、わたくしは大変感謝致しております。海軍史は長年勉強をしてきましたが、陸軍史の敷居は高く、川田先生のご著書に巡り合うまでは、なかなか要領を得ませんでした。次々と交代して現れてくる陸軍の主導者が、多岐・多数に亙ることもあって、その人脈の系譜やつながりが、陸軍史の部外者・門外漢には、なかなか捉えにくい組織実態であったからです。

 今回は、この川田稔先生のご著書『満州事変と政党政治** 軍部と政党の激闘』(講談社選書メチエ、2010年刊)を取り上げたいと存じます。読者の皆さんにも、ぜひこの本をご一読されるようお薦めする次第ですが、それは戦前昭和の日本の軌道を変えた、大きな転轍機が、やはり「満洲事変」であろうと考えられるからです。帝國海軍では、戦後の防衛庁戦史叢書「開戦経緯・海軍編」においても、この満洲事変を起点に、第一次上海事変、少し間をあけて、日華事変、第二次上海事変、そして大東亜戦争へと進む「事変・戦争の歩み」で、開戦経緯を捉えています。それは、大正11(1922)年のワシントン海軍軍縮条約のためのワシントン会議で、同じく締結された「九カ国条約」に、日本が違背する流れを生じたのが、この満洲事変からであると考えられるからです。前回も述べたように、九カ国条約は「中国の独立と行政的、領土的保全を約し、門戸開放と機会均等の原則を承認」するものであり、満洲国の建国や、日華事変の泥沼化後に日本が主導した汪兆銘(精衛)政権の樹立は、昭和天皇が国際条約の遵守をしばしばご注意されていたにも拘わらず、明らかにこの九カ国条約に違背するものだったのです。そして上記の大東亜戦争に至る道程において、昭和陸軍を主導し牽引する人々が、実に陸軍部内の「あるグループ」を淵源としていることが、次第に浮かび上がってくるのです。これに関連する記述を、川田稔先生著の上記書『満州事変と政党政治**』から読んでみましょう。(*裕鴻註記、尚横書き化に伴い若干表記を修正)

・・・陸軍中堅幕僚グループの台頭

 木曜会は、鈴木貞一参謀本部作戦課員ら陸軍中央の少壮幕僚グループによって、前年(*昭和2(1927)年)十一月ごろに組織されたもので、構成員は十八人前後であった。幹事役の鈴木をふくめ、石原莞爾、根本博、村上啓作、土橋勇逸ら陸軍士官学校(*陸士)21期から24期が中心だが、16期の永田鉄山、岡村寧次、17期で永田の腹心である東條英機も会員となっている。満洲事変の関東軍側首謀者として知られる石原莞爾も、第五回の会合(*昭和3(1928)年3月1日、於偕行社)には出席していなかったが、木曜会の会員だったのである。

 このグループは、すでに発足していた永田鉄山らの二葉会にならって結成されたものであった。二葉会の由来は、大正後半期にさかのぼる。1921年(大正10年)10月、ドイツのバーデン・バーデンにおいて、かねてから交流のあった、陸士16期同期の永田鉄山(スイス駐在武官)、小畑敏四郎(ロシア駐在武官、在ベルリン)、岡村寧次(歩兵第14連隊付、欧州出張中)らが会合(*翌日、陸士17期の東條英機ドイツ駐在武官も合流)。陸軍改革を申し合わせた。そこで、派閥の解消、人事刷新、軍制改革、総動員態勢などについて盟約したとされている(*いわゆる「バーデン=バーデンの密約」)。すなわち、当時陸軍の実権を掌握していた長州閥の打破と、国家総動員に向けての軍制改革が追求されることとなったのである。

 帰国後、永田、岡村、小畑らは、陸士16期を中心に同様の考えをもつ陸軍幕僚を加え会合を重ね、1927年(昭和2年)ごろ、その集まりを*二葉会と名づけた。(*当時渋谷道玄坂の西洋料理店「二葉亭」に集まったことから) 会員は陸士15期から18期にわたり、河本大作、東條英機、板垣征四郎、土肥原賢二、山下奉文など陸軍中央の中堅幕僚二〇人程度が参加している。いずれも昭和陸軍のなかで、その後重要な役割をはたすことになる。

 ちなみに、二葉会主要メンバーのうち、永田はのちに陸軍統制派の指導者となり、陸軍省軍務局長在任中に反対派の皇道派系軍人(*相沢三郎陸軍中佐)に暗殺される。岡村は、のち支那派遣軍総司令官。小畑は、皇道派の中心人物となるが、統制派との派閥抗争に敗れ、陸軍を去った。

 また河本は、さきにふれた張作霖爆殺事件によって退役。東條は、のちに陸軍大臣・首相となり、東京裁判でA級戦犯として刑死。板垣は陸軍大臣、土肥原は特務機関長などを務め、ともにA級戦犯として刑死。山下は、第14方面軍司令官としてフィリピン・マニラ軍事法廷で死刑判決をうけ、同じく刑死した。

 木曜会はこの二葉会にならって、陸軍中央の少壮幕僚らによって作られたのである。そして、この木曜会と二葉会が合流して、1929年(昭和4年)5月に、一夕会(*いっせきかい)が結成される。田中義一政友会内閣の末期、浜口雄幸民政党内閣成立の約一ヶ月半前である。構成員は四〇名前後で、陸士14期から25期にわたり、木曜会・二葉会会員に加え、武藤章、田中新一(*両名は陸士25期)などの少壮幕僚もメンバーとなっている。武藤は太平洋戦争開戦時の陸軍省軍務局長、田中は同時期の参謀本部作戦部長として、中央幕僚層の事実上のトップに立ち、東條英機首相とともに開戦決定に枢要な役割をはたすことになる。

 なお、武藤は東京裁判でA級戦犯として刑死。また、木曜会幹事であった鈴木貞一(*陸士22期)も、開戦時に企画院総裁を務め、A級戦犯として終身刑となった。

 東京裁判やマニラ軍事法廷などについては、現在さまざまな意見がある。だが、多くの一夕会メンバーが、そこで戦争指導者として訴追をうけた事実は、満州事変から日中戦争(*日華事変)、太平洋戦争にかけて、昭和陸軍のなかで、彼らが枢要な地位にあったことを示している。少なくともこの点は、それほど異論のないところであろう。・・・(**前掲書9~11頁)

 このように川田先生が指摘されている「一夕会」のメンバーは、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校という陸軍部内のエリートコースを進み、しかもほとんどが陸軍大学校を優等(*およそ6番以内の成績で卒業して恩賜の軍刀を拝領した人々で「軍刀組」と呼ばれた)で卒業し、欧州各国(特にドイツ)を中心に在外勤務(陸軍武官や武官補佐官など)をしたり、陸軍中央中枢である参謀本部の作戦系統や陸軍省の軍務局系統の各配置に就けられたりして、しかも陸軍将官(少将以上)に栄進することがほぼ約束されていた、少数のエリートの人々が主体でした。もちろん陸軍大学校を卒業するだけでも、幹部層である陸軍士官の中ではエリート(天保銭組と呼ばれる参謀徽章を胸につける人々)なのですが、その中でもさらに成績優秀者は、省部(陸軍省と参謀本部)と呼ばれる陸軍中央官衙のさらに中枢部課に配属され、帝國陸軍のみならず、大日本帝國自体を動かすスーパーエリートになってゆく仕組みだったわけです。

 さて、帝國陸軍では、軍政を担う陸軍省(軍務局が中枢)と、軍令を担う参謀本部(作戦部が中枢)と共に、教育を担う教育総監部(総務部が中枢)の併せて三つの中央官衙が、全ての陸軍組織を律していました。この三つの中央機関の長である、陸軍大臣、参謀総長、教育総監を「陸軍三長官」と呼び、大正時代から陸軍の将官人事やこの三長官人事などは、三長官会議で話し合って決める慣習ができました。のちにこの三機関の関係業務担任規定で明文化されましたが、これは勅命でも勅旨でもなんでもなく、あくまで陸軍部内で決めたインターナル・ルール(内規)です。ところが、この三長官全員が同意しないで三長官人事が決定されると、それを「統帥権干犯」だとして、あたかも天皇陛下に逆らうが如き批難攻撃が行われるようになりました。

   具体的には、昭和10(1935)年7月に、皇道派の真崎甚三郎教育総監を、林銑十郎陸軍大臣が更迭しようとした際のことを指して、のちに二・二六事件を起こした青年将校たちが「統帥権干犯」だと騒いだのですが、実はこの時の「三長官会議」では、当時の参謀総長であらせられた閑院宮載仁親王が、林陸相を支持し、真崎総監も流石に宮様には反対できずに更迭されたものです。

   そもそも陸軍将官・将校の人事は、参謀本部が握る参謀将校人事以外は、陸軍省人事局の所管であり、陸軍大臣に決定権があります。しかもこのような三長官会議自体が、大正時代から始まった慣行がもとなわけですから、教育総監がいくら自身の更迭に反対しても、本来の人事権者たる陸軍大臣の決定を覆そうとすること自体がおかしいのです。もし三長官全員一致が金科玉条となれば、例えば教育総監が自ら辞めると言わない限り、永久にその職にとどまることを認めることになってしまいます。

 そもそもこの三長官会議で陸軍の首脳人事を決めることになった背景には、明治建軍期から日清・日露両戦争を含め、帝國陸軍に君臨してきた山縣有朋(1838-1922)元帥陸軍大将とその配下の「長州閥」が、陸軍を牛耳ってきたことに原因があります。大正11(1922)年に山縣有朋公が没するまでは、長州出身の腹心の部下、桂太郎(1848-1913)陸軍大将や児玉源太郎陸軍大将(1852-1906)、そして田中義一陸軍大将(1864-1929)らの長州出身者を中心にした「長州閥」で、陸軍の主要人事を固める傾向が強かったため、陸軍部内では「長州にあらずば人にあらず」と言われていたとのことです。これに対し、長州出身者以外の陸軍大学校卒業成績優秀者たちの不満は蓄積していました。そもそも陸軍大学校への入学自体も、どうせ出世できないとして、長州以外の陸軍将校は諦めるムードがあったようです。

 田中義一陸相(のち首相)のあと、この長州閥(のちに宇垣閥)を受け継いだのが、ご本人は備前・岡山県出身の宇垣一成陸軍大将(1868-1956)でした。実は上記の「陸軍三長官の合意」による陸軍首脳人事の決定という慣行自体が、清浦奎吾内閣で宇垣陸相が誕生する時に、生まれたものだったのです。それは大正13(1924)年1月、長州閥の田中義一大将(前任の陸相)が、後任の陸相を選ぶに当たって、山縣有朋公亡きあとの陸軍長老であった薩摩出身の上原勇作元帥陸軍大将(1856-1933)に対抗して、のちの皇道派の元となるこの上原閥(九州閥とも呼ばれる)が次期陸相に推挙していた、肥前(長崎県大村市)出身の福田雅太郎陸軍大将(1866-1932)の陸相就任を阻み、宇垣大将を陸相に選定する根拠として、この「陸軍三長官の推薦」という理由を持ち出したことが、この陸軍首脳人事の慣行を生んだのです。

 しかし皮肉なことに、その宇垣一成大将は、後の昭和12(1937)年2月、ご自身(当時はもう予備役)が首相の大命降下を受けた際、この「陸軍三長官の合意」による陸軍大臣候補者を得られず、結局組閣を断念するに至ります。この直前の広田弘毅内閣で「陸海軍大臣の現役武官制」が復活した(山本権兵衛内閣時代に廃止されていたもの)ために、主に当時の石原莞爾参謀本部作戦部長心得や田中新一陸軍省兵務局兵務課長など、陸軍中堅幕僚層の反対によって、前任の寺内寿一陸相、杉山元教育総監、そして閑院宮載仁親王を参謀総長に戴く西尾寿造参謀次長などを動かしたものと見られます。石原莞爾・田中新一両陸軍大佐(当時)など当時の陸軍中枢中堅層は、これから陸軍主導で政治を動かそうと考えていたのですが、宇垣大将が首相になってしまうと、陸軍の統制や対米英協調外交を主導すると見て、宇垣内閣の組閣を阻止しました。

 石原莞爾将軍は、後年このことを人生最大級の間違いとして、反省していたといわれています。もし当時宇垣内閣が誕生していたら、恐らく日華事変泥沼化や対米英蘭戦争の方向に日本は進まなかったのではないか、と考えたからだといいます。一方の田中新一将軍は、後年の大東亜戦争開戦時は参謀本部中枢の作戦部長を務めており、対米英蘭開戦を主導しました。

 さらにもう一つ皮肉な話は、もともと日露戦争時の海軍大臣として勇名を馳せた山本権兵衛(海軍大将)首相の第一次内閣において、この「軍部大臣現役武官制」を廃止し、予備役陸軍将官でも陸軍大臣になれる道を開いたときに、強硬にこれに反対したのが、当時陸軍省軍務局軍事課長であった宇垣一成陸軍歩兵大佐ご自身であったことです。広田弘毅首相は、二・二六事件の後始末として、当時の寺内寿一陸軍大臣から提起されたこの「軍部大臣現役武官制」を、二・二六事件に関与して予備役に編入された皇道派の将軍たちが、将来陸軍大臣として復活する道を塞ぐためだと説明されて、合意したのですが、実はこのあと陸軍の実権を握った統制派(東條英機将軍以下)にとっては、自分たちの気に入らない内閣の組閣を阻止したり、現に成立している内閣であっても陸軍の意向に沿わなければ倒閣したりする手段として、この「軍部大臣現役武官制」を悪用するようになります。

 この宇垣一成内閣の組閣阻止のほか、後の昭和15(1940)年7月には米内光政(予備役海軍大将)内閣を倒閣する際にも、この制度によって、畑俊六陸相を辞任させた後任の陸軍大臣を出さないことにより、実際に米内内閣を倒閣しました。このときにその倒閣工作の主導者となったのも、武藤章陸軍省軍務局長や岩畔豪雄軍務局軍事課長など陸軍の中央中堅幕僚層でした。陛下の思し召しで誕生した米内内閣は、日独伊三国同盟の締結にはあくまでも反対し、対英米国際協調路線を堅持していたため、これらに反対する陸軍によって倒閣されました。その直後の近衛文麿第二次内閣で矢継ぎ早に、松岡洋右外相主導のもと近衛首相と東條英機陸相も賛同して、交替したばかりの及川古志郎海相を説得し、日独伊三国同盟が締結され、また陸軍主導の北部仏印進駐も実施されました。

 さて、話をもとに戻しますと、こうした陸軍の政治的な動き、すなわち外交や戦争に関与する方向性は、上述の木曜会・二葉会(のち合同して一夕会)などの陸軍中枢・中央幕僚層の組織横断的活動が、その元凶となっています。尤も、彼らは悪いことだとは考えておらず、上述の通り当時「長州閥」が支配していた陸軍の改革や、埒の開かない「満蒙問題」の解決を、彼らの「ものの見方・考え方」によって推進しようとするものでした。しかし、すでにその中に、後年の満洲事変、日華事変、大東亜戦争へと進む方向性の、萌芽があったという歴史的事実が肝心なのです。

 この点について、もう一度川田稔先生著の上記書『満州事変と政党政治**』の冒頭部分から、次の記述を読んでみたいと存じます。(*裕鴻註記・表記修正)

・・・プロローグ 共同謀議 ―― 一九二八年(*昭和3年)三月一日「木曜会」

〔満蒙に完全なる政治的勢力を確立する〕

(*前略)その(*関東軍の河本大作高級参謀らによる張作霖爆殺事件の)約三ヶ月前の(*昭和3年)三月一日、東京・九段の陸軍将校クラブ偕行社で、第五回「木曜会」が開かれた。木曜会は、陸軍中央幕僚の小グループによる内々の集まりで、軍装備や国防方針をはじめ軍にかかわる多様な問題の研究などを趣旨としていた。当時の記録***によれば、この日の参加者は、東條英機陸軍省軍事課員、鈴木貞一参謀本部作戦課員、根本博参謀本部支那課員ら九名。中佐の東條を除いて全員少佐・大尉で、ほとんどが陸軍省・参謀本部など陸軍中央の少壮幕僚であった。〔***当時の記録:鈴木貞一「木曜会記事」『鈴木貞一氏談話速記録』下巻、日本近代史料研究会編、1974年刊、375~9頁〕

 会合では、まず、根本(*陸軍少佐)による「戦争発生の原因について」と題する報告がおこなわれ、そのあと討論に移った。議論は多岐に及んだが、そこで出された意見をある程度まとめるかたちで、東條(*陸軍中佐)がつぎのような趣旨の発言をおこなった。

 「国軍の戦争準備は対露(*ソ)戦争を主体として、第一期目標を、満蒙に完全なる政治的勢力を確立する主旨のもとに行うを要す。ただし、本戦争経過中、米国の(*同戦争への)参加を顧慮し守勢的準備を必要とす。この間、対支(*華)戦争準備は大なる顧慮を要せず、単に資源獲得を目途とす。」

 すなわち、戦争準備は対ロシア(当時ソ連)を主眼とし、その当面の目標を「満蒙に完全なる政治的勢力を確立する」ことに置く。そのさい中国との戦争のための準備は、それほど大きな顧慮を必要とせず、たんに「資源獲得」を目的とする。そう意見を整理したのである。

 また、東條はその「理由」として、「一、将来戦は生存戦争なり。二、米国は生存のため(*米州)大陸にて十分なり」、とさきの発言に付け加えた。

 つまり将来の戦争は、一般に国家の生存のための戦争(*総力戦)となる。アメリカは、その生存のためには南北アメリカ大陸で(*資源獲得は)十分であり、アジアに本格的には軍事介入してこないだろう。そのようなふくみで付言したのである。

 この発言にたいして、完全な政治的勢力を確立するとは、「取る」ことを意味するのか、との質問が出された。それにたいして東條は、「然り」と答えている。形式はともかく、実質的には日本が満蒙をみずからのものとすることを想定していたのである。

〔 露、中、米、英への情勢判断 〕

 当時東條は、陸軍省軍事課高級課員(課長補佐)であったが、一週間後の三月八日には陸軍省動員課長となる。三月一日の会合のころには、すでに内示をうけていたと思われ、内心期するところがあったであろう。(*中略)

 また、その「理由」として、ロシア(*ソ連)、中国(*中華民国)、アメリカ、イギリスにたいする情勢判断を、つぎのように示している。

 日本が「その生存を完(*まった)からしむる」ためには、満蒙に政治的権力を確立する必要がある。それには、ロシアの「海への政策(*不凍港の確保)」との衝突が不可避となる。中国から必要とするものは、対ロ戦のための「物資」である。中国の兵力は「論ずるに足らず」、それに対処するための日本側兵力は、半年で整備可能である。(*見下した見解) また、満蒙は中国にとって「華外の地」(*万里の長城の外側)であり、したがって彼ら(*中華民国)が「国力を賭して」戦うことはないであろう。アメリカの満蒙に対する欲求は、「生存上の絶対的要求」ではない。それゆえ満蒙問題のために、日本と国力を賭けた戦争をおこなうことはないだろう。ただ、さきの大戦(*第一次世界大戦)に参加した経緯から考えて、日本とロシアの戦争に介入することはありうる。したがって、「政略」によって努めてアメリカの参戦は避けるが、その介入も考慮して「守勢的準備」は必要とする。イギリスは満蒙問題と関係はあるが、軍事以外の方法で解決可能である。それゆえ対英戦争準備はとくに考慮する必要はない。このような情勢判断のもと、「満蒙に完全なる政治的権力を確立する(*つまり満洲国につながる)」こと、すなわち満蒙「領有。」方針が申し合わされたのである。

〔 中国の主権を完全否定――木曜会・満蒙領有論 〕

 この「判決」は、同年(*昭和3年)十二月六日の第八回会合でも再確認され、木曜会の「結論」とされた。ここに満蒙領有方針が、木曜会の共同謀議として、陸軍中央内で初めて本格的に提起されたのである。(*中略)

 (*前略)木曜会の満蒙領有論は、そこでの中国(*中華民国)の主権を完全に否定するもので、まったくの新しいスタンスに立っていた。一般に、満洲事変は、世界恐慌下(一九三〇年代初頭)の困難を打開するため、石原莞爾ら関東軍によって計画・実行されたものとの見方が多い。だが、じつは一九二九年(*昭和4年)末の世界恐慌開始より一年半前に、陸軍中央幕僚のなかで、満洲事変につながっていく満蒙領有方針がすでに打ちだされていたのである。

 したがって満洲事変は、その企図の核心部分においては、世界恐慌とはまた別の要因によるものだったといえよう。後述するように、世界恐慌は満洲事変を計画した軍人たちにとって、かねてからの方針の実行着手に、絶好の機会を与えるものだったのである。この木曜会の満蒙領有方針は、たんに陸軍の当該小グループで考えられ、その内部だけで密かに抱懐されるに止まるものではなかった。・・・(前掲書**4~9頁より部分抜粋)

 東條英機陸軍中佐は、この昭和3年当時はまだ満43歳ですが、この時に形成されていた「基本的なものの見方・考え方」や「対処のスタンス」は、もう確立されたものであって、十数年後に陸軍大臣として、また首相として臨んだ大東亜戦争(対米英蘭)開戦の決定に際して、四囲の国際情勢は勿論変わってはいましたが、その考え方やスタンスの骨格は、大きく変わっていなかったと見ることもできます。

   もっとも、この昭和3年時点での、東條中佐以下陸軍中央幕僚たちの情勢判断に反して、中華民国(蔣介石政権)は思っていた以上に、しぶとく徹底抗戦を続けており、日華事変は泥沼化していましたし、アメリカは自国植民地であったフィリピンの防衛はもとより、中国大陸や東南アジア情勢を踏まえて、石油禁輸を含む厳しい経済制裁を課して、帝國陸軍に中国と仏印からの撤兵を要求してきました。そしてすでにナチスドイツとは必死の交戦中でしたが、イギリスは、香港やシンガポール・英領マレーなどのアジアの自国植民地を防衛する意志を決して崩してはいませんでした。何より米英は不可分であり、当時の米国政府は、英国の敗戦をなんとしても防ぐ決意をしていたのです。

   昭和陸軍の描いたグランドデザインや戦争準備計画については、本ブログの次の記事も、ぜひお読み下さい。

ご参考:大東亜戦争と日本(31)帝國陸軍の描いたグランドデザイン

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12636671279.html

大東亜戦争と日本(32)石原莞爾将軍の戦争準備計画

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12637133770.html

 

   尚、読者の皆さんには、この川田稔先生の『満州事変と政党政治**』のみならず、講談社現代新書の「昭和陸軍全史 1 満州事変」(2014年)「昭和陸軍全史 2 日中戦争」(2014年)「昭和陸軍全史 3 太平洋戦争」(2015年)の三部作を通読されることをお薦めします。また、やや専門的ではありますが、川田稔編「永田鉄山軍事戦略論集」(講談社選書メチエ、2017年刊)という良書に、永田将軍自身の手になる主要な文献史料が所収されています。そして同書巻末の川田稔先生の素晴らしい解説「永田鉄山の軍事戦略構想」には、昭和陸軍並びにその後の戦前日本の歩みに大きく影響を及ぼした、永田将軍の基本的国家戦略というべき構想がよく整理されて纏められています。この永田路線を、永田将軍の没後、東條英機将軍以下の統制派が受け継いで実現しようとした、というのが、基本的な昭和陸軍の流れなのです。これらに加え、もし読者の皆さんが一冊だけで「昭和陸軍の流れ」を把握したいのならば、川田稔著「昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐」(中公新書、2011年刊)が最適ですので、ご一読をお薦めします。川田稔先生の一連のご著作は、統一した視点で昭和陸軍史を眺め、その全体像を適確に理解することができる良著が揃っているのです。(次回につづく)