昭和9(1934)年10月発表の「陸軍パンフレット(陸パン)」は、いわば戦前日本の設計図ともいうべき、日本を高度国防国家にするための方策が示されていました。永田鉄山少将が昭和9(1934)年3月に陸軍省の中枢たる軍務局長に就任し、翌年8月に皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されるまでの間、次なる世界大戦に備え、国家総力戦に勝ち残るための国家総動員体制を構築するために懸命の努力をします。そして部下の軍事課員池田純久少佐らに命じて原案を執筆させ、自らが点検・加筆して発表したのが「国防の本義とその強化の提唱」(陸パン)であり、累計十数万部が作成・配布されたといいます。

 永田将軍自身はいわゆるウォーモンガー(Warmongar:戦争狂)であったわけでは決してなく、過去に起こった主要列強各国の戦争と平和の期間の統計資料を作成して研究し、カントのいう永久平和は理想ではあっても、残念ながら未だ人類から戦争を根絶することはできないのが現実であると諦観していたのであり、「平和と戦争」は禅にいう「善悪不二、正邪一如」に似て人類が持つ二面性であると考えていました。彼は「合理適正居士」という渾名の通り、合理的なリアリスト(現実主義者)だったのだと思います。そしてこの永田将軍の指導で、資源や財源に乏しい人口過多の日本をこれからどうもってゆけばよいのか、現代の言葉でいう国家のグランド・デザインを描くという作業を帝國陸軍にておこなったということなのです。

 本ブログで再々ご紹介した川田稔先生(名古屋大学名誉教授、日本福祉大学教授、法学博士)のご著書群に多くを学びつつ本稿もまた書いているのですが、講談社現代新書の「昭和陸軍全史 1 満州事変」(2014年)「昭和陸軍全史 2 日中戦争」(2014年)「昭和陸軍全史 3 太平洋戦争」(2015年)の三部作と、川田稔編「永田鉄山軍事戦略論集」(講談社選書メチエ、2017年刊)に加え、特に今回は、川田稔著「昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐**」(中公新書、2011年刊)というご本から、この「永田鉄山の構想」を見てゆきたいと思います。もし読者の皆さんが一冊だけで昭和陸軍の軌跡の流れを把握したいのならば、この本が最適です。部分的に同書から抜粋・紹介させて戴きます。(*裕鴻註記)

・・・陸軍中央における皇道派と統制派の対立とは別に、この時期、各部隊に配属されている隊付青年将校の間にも、国家改造をめざす政治的グループが形成されていた。このようなグループは、一夕会など中堅幕僚層の動きとは別に、満洲事変前後から形成されてきていた。(*中略) 彼らは、満洲事変直前、一九三一年(昭和六年)八月の郷詩会の会合から、北一輝の影響を受けた元陸軍少尉西田税(*みつぎ)を結節点として運動を本格化させ、同年の十月事件にも一部関係していた。郷詩会とは、国家改造をめざす陸・海軍の隊付(*青年)将校グループと民間グループ合同の会合で、東京青山、日本青年館でおこなわれた。陸軍側は菅波(*三郎)、大岸(*頼好:よりよし)ら、海軍側は藤井斉(*ひとし)、三上卓ら、民間側は西田(*税)、井上日召(*にっしょう)、橘孝三郎らが出席し、相互の連携が申し合わされた。このときのメンバーが、翌年(*昭和7(1932)年)、血盟団事件(民政党有力者の井上準之助元蔵相、三井財閥トップの団琢磨三井合名会社理事長を暗殺)、五・一五事件(犬養(*毅)首相を暗殺)を引き起こす。

 五・一五事件後の同年(*昭和7(1932)年)一一月、東京九段の偕行社で、土橋勇逸、武藤章、池田純久、片倉衷(*ただし)ら陸軍中央の一夕会系中堅幕僚(*陸大卒、参謀資格有り、佐官級)と、村中(*孝次:たかじ)、大蔵(*栄一)、磯部(*浅一:あさいち)らの隊付青年将校グループ(*尉官級)の会合がおこなわれた。ここで、「軍政掌理(*しょうり)者以外は断じて政治工作に関与すべきものにあらず」と主張する中央幕僚側に対して、隊付将校側は「軍中央部はわれわれの運動を弾圧するつもりか」と反論。これに対して幕僚側は「そうだ」と応じ、会議は決裂した。

 菅波、村中、安藤(*輝三:てるぞう)らの隊付青年将校の国家改造グループは、しばしば皇道派青年将校とも呼ばれている。だが、本来は荒木(*貞夫)、真崎(*甚三郎)、小畑(*敏四郎)ら陸軍中央の皇道派とは異なる問題意識と理念のもとに発足したもので、皇道派と密接な関係をもつようになるが、集団としてはまったく別個の存在であった。

 この隊付青年将校国家改造グループに関して、永田は、次のような考えをもっていた。近年、隊付青年将校の国家改造運動が相当の広がりをもっており、これが軍の統制を乱し、軍部による国家の改革を困難にしている。彼らの国家改造の志を否定するものではないが、そのような横断的結合による活動は、軍紀上許すべからざるものである。だが、軍規軍律に基づく強圧的な処置は、彼らを潜行させるか過激化させることになる。それに対するためには、軍首脳部は国家改革の具体案を作成し、これによって合法的手段で政府を指導し、国家改造を実現していかなければならない。また、その具体案作成のための研究機関を軍内に設置する必要がある、と。・・・(**同上書、100~102頁より部分抜粋)

 川田先生のご説明の通り、前回見た「陸パン」は国内に広くこれから日本が目指すべき広義の国防国家の方向性を示すとともに、陸軍部内ではこれら急進的な隊付青年将校たちに陸軍中央が取り組でいる国家改造の姿とその構想内容を見せて、彼らの過激化する政治行動を鎮静化する意図もあったものと思われます。しかし、その本質はあくまでも近代的国防国家、当時の用語でいえば「高度国防国家」の建設を主導推進することにその主眼がありました。以前取り上げた通り、後に激しく永田軍務局長を憎悪する皇道派の首領、真崎甚三郎将軍も、自分の第一師団長時代の直属の部下だった永田歩兵第三連隊長を高く評価しており、恐らくその時代に続く永田軍事課長時代(陸軍省軍務局軍事課、大佐時代)から永田参謀本部第二部長(情報部長、少将)にかけての時期辺りで永田将軍が真崎将軍に提出した文書が国立国会図書館所蔵の「真崎甚三郎文書」にあります。後に文書整理上「国防の根本義」と題されたこの真崎宛永田文書が、川田稔編「永田鉄山軍事戦略論集***」(講談社選書メチエ、2017年刊)に所収されていますので、その内容を見てみましょう。

・・・国防の根本要義は内は挙国一致の情勢をいたし、外は国際の関係を適良に導くにあり。いまや外の関係を姑(*しばら)く措くも、内人の和を得あらず。国として然り軍内また然り。戦争準備の最大欠陥なり。国防の根本を揺るがしつつあり。

 人の和を欠きあるは、政治経済社会の各部面にわたり欠陥多きに因するところすこぶる大なり。すなわちこの間に乗じ、赤化思想(*共産主義思想)の侵入、各種好ましからざる思想傾向の醸成せらるるあり。極左極右の対立、社会各層の闘争激甚にして、文武の間ようやく離反の兆(*きざし)あり。軍内上下の関係また背反の傾向あり。

 かくのごとくして近代的国防の目的は決して十全に達成し得べきにあらず。根本禍源の芟除に非常の措置を切要とす。国防のうえに国家隆盛のうえに根本の禍源をなすものは、すなわち政治経済社会における幾多の欠陥なること上述のごとし。しかしていまや禍根は深くして広く、これをいわゆる為政家のみに委して、これが芟除(*さんじょ)を求むるも、木に縁りて魚を求むるに等し。

 すなわち純正公明にして力を有する軍部が適正なる方法により、為政者を督励するは現下不可欠の要事たるべし。督励指導の方法は事により時に応じ適当にこれを選択し得べく、ここにもっとも切要なるは指導督励のための寸度をみずから把握するにあり。すなわち具体案を有するにあり。これ無くして抽象的に要望を数えんも場所少なし。

 現制国務大臣たる陸海軍大臣の補佐機関は、軍政を処理して余力少なき各局課以外にこれを有せず。政務官(*民間政治家)のごとき多く言を須(*もち)うるの要なし。すなわち現下の非常時に処し、とくに国務に関する専任の補佐者を置き前項具体案等の討究に当たらしむるの要、喫緊なるものあり。

 ただし叙上機関の存在は、これを(*陸軍)部外に対しては秘するをもって得策とするをもって、現軍事調査委員長軍事調査班の人事の運用と若干の増員(あるいは満蒙班の人員を流用)とにより目的の達成を期し、これに課する特別任務または秘密の取り扱いとするを可とせん。(『真崎甚三郎文書』二〇五四-一二、国立国会図書館所蔵)・・・(***同上書226~227頁)

 川田稔先生は、この文書の発出時期を「執筆時期は不明だが、内容から、一九三一(*昭和6)年九月から一九三三(*昭和8)年一一月の間に書かれたものと推測される。」(***同上書8頁)とされています。「陸パン」は昭和9(1934)年10月10日付ですから、ここに示された通りの構想に従って永田軍務局長が主導して作成させたものと思われます。そして汚職や腐敗にまみれた政党政治家ではなく、「純正公明」な軍人こそが、政府内閣の一員たる陸軍大臣の補佐機関として「国家政策」を立案・提起して国を動かしてゆこうとする根本的な国家改造に乗り出す積極的な姿勢を打ち出しているわけです。

 永田将軍は、大正13(1924)年12月に陸軍歩兵中佐で陸軍省軍務局軍事課の高級課員(*課長補佐)になって以降は、ずっと東京での陸軍中央勤務を続けているのですが、直接的な中枢的業務に課長以上で関わったポストだけを見ても、

(1)大正15(1926)年10月1日から昭和3(1928)年3月8日までの陸軍省整備局動員課長(中佐・大佐)時代

(2)昭和5(1930)年8月1日から昭和7(1932)年4月11日までの陸軍省軍務局軍事課長(大佐)時代

(3)昭和7(1932)年4月11日から昭和8(1933)年8月1日までの参謀本部第二(*情報)部長(少将)時代

(4)昭和9(1934)年3月5日から昭和10(1935)年8月12日(*死去)までの陸軍省軍務局長(少将)時代

の四つの勤務があり、これ以外の期間も第一師団の歩兵第三連隊長と歩兵第一旅団長として在東京勤務をしている関係で、腹心の部下たちとは公私に亙る連絡が常に可能な環境にありました。従って昭和初期の陸軍による国策策定には基本的に数多く関わっていたものと思われます。そこで永田将軍が直接的に又は間接的に作成したかは問わず、およそこの時期に陸軍で策案された重要国策に関する史料を次に少しみてみましょう。

 まずは陸軍が政府に提出した「帝国国策」陸軍案です。昭和8(1933)年10月2日提出のものです。(*裕鴻註記。尚同年9月22日案【*カッコ内】の部分は提出時には省略されたと思われるものの陸軍事務当局の考えがわかるので記載。)

・・・「帝国国策 陸軍案」

方 針 東洋平和確保の伝統的国是に鑑み満洲国の哺育発達に関する既定国策を堅持しつつ昭和十一年前後に於ける国際的危機を未然に防止し且つ万一の危機到来に際し安全を保障し得るに必要なる国家内外の態勢を整備するを以て帝国現下の国策根本方針と為す

要 綱 一、対外政策 帝国の安全並に対満国策遂行を目標として列国との間に多辺的親善関係の確立を図ると共に万一の危機に際し努めて戦争の範囲を局限する如く施策す 之が為対主要列国策を大要左の如く定む

1、対満(*洲)策 曩(*さき)に閣議決定の満洲国指導方針要綱に拠るべきも特に指導の統一強化を図り速に建国の精華を内外に顕揚するに努むると共に国防施設並国防上緊要なる交通及産業の開発を促進するものとす

2、対蘇(*ソ連)策 帝国の対満国策遂行に伴ふ実力を活用し日蘇間に存在する各種懸案の解決を促進し殊に極東方面に於ける蘇国兵備の増強に依る対皇国脅威を除き並に第三「インター」(*国際共産党、コミンテルン)の思想的攪乱を解消する為め全幅の努力を為す【*其結果対蘇国交悪化し開戦の已むなきに至らば機を失せず蘇国の極東兵備を覆滅し国交の安全を確立す】

3、対米策 政治経済両方面に亘り国際関係殊に極東問題に関する日米の利害を明徴ならしめ帝国国策に理解を与へ直に平等的立場に於て両国国交の親善を策す 但米国にして極東に対する制覇慾に駆られ飽く迄帝国の対満国策を否定し【*日蘇開戦の機に乗じ武力を以て我に迫らんとするが如き形勢となるに於ては之と一戦を辞せざるものとす】我に干渉するに於ては対抗の策を取る

4、対英案 英国の世界制覇慾と其国際的立場を洞察善用し帝国の対満国策を阻止妨害せんとするが如き企図を防遏(*ぼうあつ)し帝国の直面することあるべき危機に際し力めて英国をして之が圏外に立たしむる【*已むを得ざるも対米開戦初期直に米国側に立たしめざること】を以て対英外交の基調たらしむ 従て対英経済問題其他各種問題亦之に立脚して調整せらるべきものとす

5、対仏独伊策 欧洲政局上に於ける仏国の安全要望独逸の勃興並此間に介在する伊国の地位等に基く欧洲方面国際政局の動向をして【*英国を牽制し其対米接近を抑制し以て帝国の対英策遂行の資たらしむるものとす 殊に仏国の孤立的動向の利用を策す】我国策遂行を容易ならしむる如く施策す

6、対支策 対日政策の実質的転向を助長強化し以て日支経済関係の調整を期し帝国の【*対第三国戦に於て少くとも開戦初期一定期間中立を保持せしめ万已むを得ざる場合に於ても北支方面に一緩衝地域を設定せしむることを以て対支政策の基調たらしむ】危機に際しても努めて広く親日地域を設定せしむることを以て対支政策の基調たらしむ之が為特に支那の分立的傾向に即応し親日分子の養成及之が組織化を促進するを要す

7、対軍縮策 帝国の地理的特殊性に立脚する国防の安全性を毀損せざる範囲に於て軍縮問題解決に協力す 華府(*ワシントン)及「ロンドン」条約改定に就ては予め関係諸国と諒解を遂げ以て有利なる解決を期するも已むを得ざれば【*該条約より離脱するも国防安全率((統帥部の自信兵力))の確保を期す】会議の決裂を意とすることなく国防の安全を確保す

 二、対内政策 皇国精神に立脚する全国民の自覚的団結力を強化し現下の外交政策並に万一の場合に於ける国防力の根基を強固ならしめ且此団結力の下に諸般の準備に遺憾なからしむることを期す 之が為主要政策を定むること左の如し

1、外交機能の刷新 帝国の対外政策遂行に遺憾なからしむる如く人事の上に将た亦(*はたまた)組織の上に外交機能の一大刷新を断行し外交動員を行ふを要す

2、兵備の増強及改善 対蘇米脅威国に対する兵備の完璧を期す即ち昭和十一年前後に於て此等に対し安全なる兵備を保有すると共に支那に対しては単に威力を保持し得るに足る兵力を準備するに努む

3、思想浄化調整 人の和の重要性に鑑み之が根基を為す思想の浄化調整を促進す 之が為には思想其のものの浄化策の外之と牽聯(*けんれん)する経済社会問題の対策を実行するものとす

4、教育の刷新 思想浄化策と併行して教育機能並教育の指導等教育の全般に亘り一大刷新を断行す 特に教育の営利化を断滅す

5、社会政策殊に農村振興 思想浄化と併行して徹底せる社会政策を実行するを要す 而して此種政策は国民の自律的なる勤労的創造力を強化することを主眼として実行せらるるものとす

 農村振興の為には農産品の価格維持及農民の金銭支出縮小を目途とし兼て都市勢力の農村浸潤力を適宜抑制する如く施設す

6、戦時所要資源の貯蔵 【*戦時二年間を目途として重要資源戦時の急需に応ずる為】重要資源就中(*なかんずく)不足原料燃料の貯蔵を為す 而して此の種貯蔵に於ても亦社会政策的対策と相調和する如く実行するものとす

7、金融統制準備 戦時経済を基調とする金融統制に関する諸般の準備を促進す

8、財政計画の基調

 (1) 戦時【*二年間に応ずる所要経費約二百億円(*現代の金額なら40~60兆円位か)と予定し】所要の経費を予定し之に基き戦時財政計画を予定立案す

   (2) 昭和十一(*1936)年に到る三年間の財政は暫行的に外交国防に主点を置き之を立案予定す

 (3) 昭和十一年前後の危機を突破せば茲(*ここ)に民力休養期に入る

   (4) 地方財政亦前各項の趣旨により之が指導監督を為す

・・・(「現代史資料(8)日中戦争(一)****」島田俊彦・稲葉正夫 解説、昭和39年みすず書房刊、11~13頁より)

 【カッコ内】の事務局案はかなり強硬ないし本音的な内容が含まれているため、最終的な提出時点までに上層部により削除または修正されたものと思われます。前回にも見た通り、思想・教育や経済の統制化とともに、農村振興と社会政策の徹底など国内政策を取り上げていますが、ここで改めてわたしたちが認識しておかねばならないのは、ワシントン及びロンドン(第一次)海軍軍縮条約による日本の海軍力の比率制限(米英日の主力艦比率が10対10対6)となっていることに関し、これが中国大陸に於ける侮日排日を促進する政治的影響があると陸軍が捉えている点です。川田稔先生もご著書の中で指摘されていますが、これは海軍の内部での対米六割艦隊か七割艦隊かという、実際の海軍戦略・戦術面での勝敗論争に止まらず、海軍力、なかでもその象徴としての戦艦の比率が、国際政治上は「国力と軍事力のバロメーター」としての影響力を強く持っていたということです。しばしば「昭和11(1936)年の危機」に言及されているのは、同年でワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約の期限が来るからであり、条件を改定して継続となるか軍縮脱退となるかによる海軍力すなわち日本の「力」がどうなるかという岐路を迎えるからでした。結果としては日本の希望した条件は通らず、軍縮から脱退することになり、その後各国の海軍建艦競争が再開されます。

   今日の核戦力の有無が、国際関係に於ける「力」を意味する側面があるのと同様に、「アメリカやイギリスの六割に海軍力が抑え込まれている日本」というイメージが、中国大陸では日本を弱体視する姿勢に繋がっているため、陸軍としては海軍軍縮からの脱退を厭わない、つまりは海軍の艦隊派の主張に与するということであり、二・二六事件で襲撃された斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、岡田啓介首相という海軍OBの条約派提督とは陸軍の立場・思想が大きく異なるという点です。また、現代の北朝鮮がどうして核戦力の保持に強くこだわるのかという理由と、当時の日本での海軍力の消長や軍縮を巡る衝突が、根本的には「国際政治的な力の原理」として連なっていることに、現代のわたくしたちも注目しなければならないのです。(今回はここまで)