今回は「高度な平凡性」を用いて、日本と日本国民がこの21世紀をどうやって生き抜いてゆけばよいのか、それに必要な「国のかたちやあり方」を皆さんとともに考えてみたいと思います。

 戦後の日本は、「加工貿易立国」で繁栄してきました。日本は、資源に恵まれない狭い国土にしては過剰な人口を抱え、必要な食糧やエネルギー資源、生産用資源を外国から購入するために、外国から資源を輸入して、それを国内で生産・加工して製品を造り、それを国内で売ったり海外に輸出したりして、お金を稼いできました。江戸時代の日本の人口は三千万人、現在はその四倍の一億二千万人です。つまり基本的には鎖国状態で国内循環だけで全国民が食べてゆくとすれば、三千万人しか養えない国土に住んでいるのです。もちろん完全な後戻りはできませんし、現代の技術や様々な仕組みを用いれば、もう少し多くの国民が食べてゆくことはできるかもしれませんが、それでも何がしかを外国に輸出し、何かを売ったり提供したりすることでお金を稼ぎ、そのお金で国内だけでは賄えない石油や天然ガスなどのエネルギー資源とか食糧とかを買わないと生きてゆけない国なのです。

 最近は、外国人観光客を増やして日本でたくさん買い物をしたり飲食したり宿泊してもらって、お金を稼ぐとか、情報産業や映像産業などの製品や作品を販売したり提供したりして対価を稼ぐことによっても、その一翼を担ってはいるものの、果たしてこれだけで今後長期間に亙って、安定的に全国民が食べてゆくことができるのでしょうか。

 直接的な個人のレベルで考えれば、重要な要件は、とにかく「職があること」に帰着します。必要な数の「働き口」さえあれば、お給料をもらい、あるいは自らが商売をすることでお金を稼ぐことができ、その結果、自分と家族を食べさせることができます。しかし、働きたくとも職がなければ、生活の資を稼ぐことはできないのです。

 ひるがえって、現代は「グローバリゼーション」によって大企業はどしどし国内の工場を閉鎖して、人件費の安い海外に工場を建て、海外での生産を増やしました。その方がその企業にとっては生産コストを下げて儲けが大きくなりますし、また他の欧米や中国などの外国企業に国際競争力で負けないためにも、そうせざるを得ません。しかしその結果は、国内の工場がなくなり、そこで働いていた日本人従業員の大半は職を失うことを意味しています。つまりは「国内産業の空洞化:ドーナツ化現象」が生じたのです。

 本来ならば、そうやって儲けたお金を蓄積した、こうした大企業の「内部留保」は、次なる新製品の開発や新規事業の展開に「投資」されることで、国内に新しい別の工場が建てられたり、国内での新規のサービス事業が興されたりすることで、「新しい労働力の需要」が生じて、今までの職場を失った労働者が新しい職場で働けるようになるはずでした。しかし、その「内部留保」がこうした研究開発や新規事業投資に使われず、ただただ預金(いわば大企業のタンス預金化)などで蓄積されてゆくだけとなれば、当然にこうした「新しい職場」が増えることも「働き口」が増えることもなくなります。或いは、大企業がその「内部留保」を使って、さらに海外の工場を増やすとか、または外国の優良企業に投資したり買収したりした場合には、日本国内の「働き口」が増えることにはつながりません。

 もちろん現在のようなコロナ禍という緊急事態・非常事態を乗り越えるための非常用資金としての「内部留保」の意義はあるでしょうし、また従業員の給与を確保したり、将来的には給与を増やしたりする資金源としても重要な役割や機能を持っていることでしょう。もとより本来はもっと株主配当に回すべきだという考え方もあると思います。それは資本主義経済の下での「私企業」としては当然のことでもあります。しかしそれでも2020年度末の「内部留保」(但し金融・保険を除く)は、前年度末に比べ2%増の484兆3648億円あるのです。これは9年連続で過去最高を更新しています。(*2021年9月1日付読売新聞記事による) このお金が何割かでも日本国内での新規事業の「創業」に回らなければ、根本的に日本国民の「新しい働き口」は増えません。まして最近の産業ロボットや機械システムによる自動化の進展は、それまでの人間による手工業的労働を既にかなり圧縮しており、加えて今後はさらに事務職のデスクワークや窓口業務さえも人間からAIに、どんどん仕事が置き換わってゆけば、当然に「人間の働き口」はますます減少してゆきます。

 しかし、大企業といえども本来「私企業」である以上、こうした問題には基本的に対応ができません。彼らは株主や投資家に対する責任を背負い、また自社が雇用する労働者に対する法的な雇用責任の範囲内での対処を行うのみです。それ以外の大多数の日本国民が「食べられるか、食べられないか」は、「私企業」の責任範囲ではないからです。

 これは明らかに日本の国家、政府、政治家の責任範囲です。今後の日本国は、大多数の国民がちゃんと職に就いて、自らが働いて家族全員が食べてゆけるような国造りをどのように進めるのか、つまりはかつての高度経済成長期の「加工貿易立国」に替わる「この国のかたちとあり方」をどうするのかという「グランド・デザイン」の基本設計構想が絶対に必要です。そうしなければ、いくら少子高齢化を憂いていても、若い世代が安心して子供を産んで育てることができません。

 国際競争に打ち勝って大企業のみが生き残っても、それで大多数の国民が食べてゆける経済・社会構造にはならないのです。まして、その大企業さえ本社を法人税の安い外国に移してゆくことになれば、日本には何も残らなくなります。当然にそうした大企業による法人税さえも減ってゆくことになります。一方で大企業としては、今後日本に本社を置いておく必要が果たしてどれだけあるのかという命題も出てきます。当該企業の効率化と合理化、コスト低減と収益の向上を、関税も含め国境の垣根が極めて低くなりつつあるグローバリズムの世界で考えたとき、「新自由主義」に基づく経済は、結局はこのような日本を形成してゆくのではないかという懸念を拭うことはできないのです。そして日本の国家経済の基盤が弱くなれば、当然に税収も減少し、社会福祉費のみならず防衛費も含めた国家予算が逓減してゆく結果を招来します。つまり左翼的観点のみならず右翼的観点からも、日本の国民と国家の経済基盤の衰退は大きな問題となるのです。

 これは、「新自由主義」経済の本家本元のアメリカを見れば、一目瞭然であり、いわゆる「ラスト・ベルト:錆びた地帯」など国内の製造業を中心とする工業生産は深刻な構造不況に見舞われました。もちろんシェール・ガスや高度先進製造産業などの勃興はありますが、米連邦政府としては財政赤字が積み重なり、2021会計年度の財政赤字は2兆2580億ドル(約240兆円)、連邦政府の累積債務残高も28兆5千億ドル(約3000兆円)規模となり過去最大を更新しそうだと報道されていました。(* 2021年2月12日付日経新聞記事より) その後、本年7月6日付のJETROビジネス短信によれば、2021年度の財政赤字額は約3兆ドル(約319兆円)に達したとのことです。もちろんコロナ禍の影響も大きいとは思いますが、それだけではないもっと大きな構造的問題がその背景にはあるのではないかと思われます。それはレーガン大統領時代の1980年代以降、財政収支と経常収支の「双子の赤字」が常態化してきていることです。そしてこのアメリカの財政赤字の姿は、明日の日本の姿に重なります。平たくいえば、いくら国内に本社がある多国籍企業が海外の生産工場で儲かったとしても、国内の雇用創出や、国家単位の財政健全化にはつながらないということです。まだまだ根強い人気を維持し、次期大統領選挙への出馬も狙っているトランプ前大統領を支持する岩盤層もこうした問題を背景としているのです。ご参照: 

『トランプ氏善戦の意味』

 であるからこそ、ちょうど船出したばかりの、岸田文雄新総理大臣のおっしゃる「新しい資本主義」の中身が一体どのようなものになるのかに注目し、かつ期待せざるを得ないのです。何故ならば、上述の通り、今までの新自由主義的な「経済・社会モデル」は、もはや通用しない時代状況になっているのではと深く懸念されるからです。


 ここで「温故知新」ではありませんが、日本が終戦後、新しく再出発するにあたり、昭和23(*1948)年から24(*1949)年にかけて刊行された文部省著作教科書「民主主義**」という本を、角川ソフィア文庫が2018年に再刊していますので、その中から次の部分を読んでみたいと思います。(*裕鴻註記)

・・・資本主義のたてまえを変えずに、しかも経済生活における民主主義を実現するためには、前に述べたような社会政策のほかにも、なおいろいろとなすべきことがある。その中で、特に心がけなければならないことは、適正に経済統制を考え、かつその統制を民主的に行うということである。

 資本主義の社会でも、国民経済に対するある程度の国家の統制や干渉を行う必要がある。もちろん、資本主義の下では、企業の自由は、原則として尊重されなければならない。しかし、さればといって、それはけっして無制限の自由を約束するものではない。自由企業制度に伴なう弊害を防ぎ、社会一般の福利を守るためには、私企業に対して統制のわくをはめなければならない場合が起る。統制は経済上の自由に制限を加える。しかし、前にも述べたように、民主主義の重んずる自由はけっして各人のかって気ままを許すことではない。

 したがって、公共の利益のために自由経済に統制を加えたからといって、それが民主主義の原則に反することはない。問題は、ただ、その統制をどういう目的のために行い、それをどこまで民主的に運営するかにある。

 日本でも、戦時中盛んに経済統制が行われた。それは、一般国民の需要に応ずる生産を極端にきりつめて、戦争のための軍需物資を増産することが目的であった。そういう目的のための統制がもはや行われるはずのないことは、もとより言うまでもない。現在も、今後も、経済統制が行われるとすれば、それはもっぱら国民生活を安定させ、生活水準を向上させるためでなければならない。その中でも、一般に必要と認められているのは、社会福祉を目的とする統制と、景気対策を目的とする統制との二つであろう。

 経済生活における民主主義を実現するために、労働者の地位を向上させることを目的として、いろいろな社会政策が行われるということは、前にも述べた。そのうち、国家の法律によって労働賃金その他の労働条件の最低を公定することなどは、それらの事柄を、雇う側と雇われる側との自由な約束だけに任せないという意味で、やはり経済生活に対する一種の統制である。そのほか、国家は、多くの財産収入のある者には重い税金をかけるとか、公債を発行するとかいう方法によって財源を作り、それで、失業手当・社会保険・救貧扶助(*ママ)などの施設を行って、恵まれない人々を救済する必要がある。経済組織の欠陥のために貧富のへだたりが大きくなればなるほど、このような社会政策の必要は大きくなり、その使命は重くなる。それだけ、経済に対する国家の統制も増大することにならざるを得ない。

 これに対して、もう一つの(*国内)景気対策のための統制は、資本主義経済に伴ないやすい景気の変動をおさえ、特に不況によって生ずる失業その他の民衆の生活難を取り除くために行われる。無統制な自由経済だと、生産が多すぎたり、需要が減退したり、内外の景気変動の影響を受けたりして、急に不景気に見まわれることがある。その結果として、一度にたくさんの失業者が出て、民衆の生活が窮迫した状態におとしいれられる。企業家の協定による独占は、景気に応じて一つの産業を伸ばしたりちぢめたりすることによって、ある点までこれを防ぐ役にはたつが、そういう自治統制では、前に言ったような独占の弊害がつきまとうから、これに国家による統制を加えて、公益を主とする立場から景気に応じて産業を調節することが必要になる。

 それとともに、不景気のときには、国家が公共の土木事業などを起して、失業者をその方面の仕事にふりむけたり、金利を引き下げて産業界に活を入れたりする。アメリカで行われたニュー=ディール政策などは、この種の統制の模範を示したものといってよい。ともかく、失業は、国民から勤労の権利を奪い、生きる権利をさえおびやかすものであるから、国家は常にその対策を考えて、いわゆる「完全雇用」を目標として、あらゆる努力をしてゆかねばならない。

 資本主義の下で統制を行う目的には、このほかに、緊急の場合を切り抜けるための非常統制が考えられる。たとえば、激しいインフレーションが起ったり、戦争などによって生産が破壊されたりした場合には、生産力を回復させ、物価の安定を図り、国民生活の危機をきりぬけるために、かなり思いきった統制を加える必要がある。今日の日本の状態(*終戦直後)は、まさにそれである。(*コロナ禍の現在もこれに相当するであろう。)  それによって企業の自由が制限を受けても、その目的が国民生活の建て直しにおかれているかぎり、民主主義の精神には反しない。

 もしも企業の自由を重んずるのあまり、必要な統制が行われず、そのために国民がいっそうみじめな状態に陥るならば、それこそ民主主義の目的に反することになる。

 これで、ある程度の統制が望ましいことはおよそわかったが、それでは、その統制をどういうふうに行っていけばよいか。どうすれば、統制を民主化することができるか。

 この点はひじょうにむずかしい。なぜならば、統制を経営者の自治に任せておくと、先に述べた独占的経営の弊害を避けることができない。そこで、統制は国家の手で行うほかはないということになるが、そうすると、今度はいわゆる官僚統制の弊害に陥る。すなわち官吏が国民生活の実情と、産業の実際問題とをじゅうぶんに知らないで、法律一点ばりの融通のきかない統制をやる危険がある。また、統制に伴ないがちな公務員の不正や、統制の網をくぐるやみ取引が行われる。そうなっては、どんなに適切な統制の組織を作っても、とうていその目的を達することはできない。そういう欠点を除き去るためには、いろいろな方法が考えられる。第一に、統制を官庁だけに任せておかないで、国民の代表者である国会の監督と発言とを強くすることが必要であろう。それがよく行われれば、統制のいき過ぎや不徹底を除き去り、実情に適した統制が実施されるようになるであろう。第二には、官庁の組織の中に、民間のりっぱな人物や学識経験者をどしどし起用し、国民として実際に体験したところを、経済統制の上に活用してもらうこともたいせつである。更に、第三には、役所の統制事務が果たしてすみずみまでよく行われているかどうかを監視する組織を作って、それに、一般国民、特に消費者の代表を参加させるという方法も、適当であろう。このようにして、国民が統制の必要を理解すると同時に、統制の実行のうえに国民の目がよくとどくようにして、これを民主主義的に行うことが、これからの経済統制には何よりもたいせつである。

 このことは、国家が自分の手で行う国営事業についても、あてはまる。資本主義の社会でも、鉄道や電信や電話などのように公益的な色彩の強い事業は、国家の手で経営される場合が多い。それが、社会主義の方向に近づいてゆくと、鉄鋼業や炭鉱や電気事業なども、次第に国営に移される傾向がある。それは、産業の中でも特に重要なものであるから、もしそれが国家の独占に移された結果として、独占的経営と官僚統制との二重の弊害を生むようになったならば、その及ぼす悪影響はひじょうに大きくなるであろう。だから、この場合にも、すぐれた学識を持つ人々や、責任感の強い消費者の代表などが、じゅうぶんに意見を述べうるような組織を作って、国営事業が正しく経営されるように監視しなければならない。国民が国民自らの利益のために政治に参与するという民主主義の原則は、こういう点にも大いに生かされなければならない。

・・・(**同上書206~211頁)

 今から70年以上前の教科書ではありますが、当時の政府・文部省はこうした内容を記述し、国民を教育していたのです。「統制経済」を害悪の面のみで捉えるのではなく、ある場合には必要なものでもあるという観点は、たかだか1980年代のレーガノミクス以降に蔓延した「新自由主義(*ネオ・リベラリズム)」或いは「市場原理主義」だけが「資本主義のかたち」ではないことを改めて確認させてくれます。そこで次に目指すべきステージは一体どのようなものになるのでしょうか。

 また今後の「資本主義」は、「貨幣」というもの自体の存在と機能・役割が再検討されてゆくことになるのかもしれませんが、それは現時点の筆者の論考可能な範疇を超えますので、今回はここまでと致したいと存じます。またこれに関連して、BI(ベーシック・インカム)の導入なども含めた社会政策の再検討も必要かもしれません。いずれにせよ、自由放任ではない「公益性」の観点が、より重視されなければならないように思います。

 中国やベトナムが採用してきた改革開放路線が、平たくいえば「政治は共産党の一党独裁、経済は資本主義的市場経済」という組み合わせであるとすれば、別の組み合わせとしての「政治は自由民主主義なるも、経済はある程度の統制を伴なう修正資本主義」という形態も成り立ち得るのかもしれません。いずれにせよ自由放任のレッセ・フェールの市場経済は、大恐慌などのいろいろな問題点を露呈したがゆえに、ケインズ的経済政策が出て来たという過去の歴史を振り返れば、新しいケインジアンの経済政策が出て来てもよいはずです。かつての日本の高度経済成長の成功要因は一体何であったのか、それを甦らせるためには基本的に何をどうすればよいのか、という視点は忘れられるべきではないと思います。もちろん単純に元に戻せるものではないとしても、構造的要因をよく解析して、それを活かした新しい経済成長の時代を構築してゆくことは、健全なナショナリズムの回復とともに重要な施策であると思います。日本の国家経済がしっかりしてこそ、国民の福祉も必要な防衛政策も達成できるのですから、左・右両翼ともに目指すべき方向性であるとわたくしは思います。今こそまさに、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一のような人材の輩出と活躍が求められているのです。そして、この令和日本に、古くて新しい「公益資本主義」の思想が再生することを、わたくしは期待しています。


 これからの三年間は、本格的な日本経済再生に向けて、与野党ともに様々な政策論議や論戦がなされるものと思いますが、耳触りのよいお決まりの消費税減税論議や目先の給付金配布などの短期的な対症療法の繰り返しなどではなく、根本的に「21世紀の日本」をどうやって建て直し、どういう国造りを未来に向けてしてゆくのか、若い世代や子どもたちのためにも、そういう根本的な「グランド・デザイン」をしっかりと示す長期的政策案の競合となるように、各政党ともぜひとも注力して戴きたいと、「たった一票されど一票の一国民」ですが、衷心より願っている次第です。


ご参照:『日本のグランド・デザインよ「青天を衝け」』社会学の巨人、マックス・ウェーバー(Max Weber:1864-1920)の名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、西欧社会におけるキリスト…リンクameblo.jp