自民党岸田政権の「新しい資本主義」の実質的中身が一体どうなるのかはわかりませんが、それは自民党に聞いて戴くこととして、ここのところ考えている経済の問題を、門外漢なりにこれから取り上げてゆきたいと思います。

 中野剛志著「富国と強兵  地政経済学序説**」(東洋経済新報社、2016年刊)に基づいて「貨幣」というものを理解しようとすると、もともと1934(*昭和9)年に制定された「金1オンス=35USドル」という交換レートを用いた「金本位制」に根ざす「IMF体制(*ブレトン・ウッズ体制)」により、第二次世界大戦後も「固定為替相場制(*1ドル=360円の時代)」による「世界の基軸通貨」としての米ドルは、現物の金と交換することができていたのですが、1971(*昭和46)年のニクソン・ショックにより金との交換が停止され、1973(*昭和48)年には為替の「変動相場制」に移行し、最終的には1978(*昭和53)年に米ドルは正式に金と交換のできない「不換紙幣」となりました。(*裕鴻註記)

   これ以降は「管理通貨制度」と呼ばれる各国政府の通貨当局が通貨の発行量を調節する制度となりました。当該国の政府・中央銀行が保有している現物の金や銀の量に関係なく、通貨当局が通貨供給量を増減させることができるようになったわけです。これ以前の「金本位制」による「兌換紙幣」の時代は、実際にその紙幣を現物の金と交換することができたため、各国政府が保有している金塊の量によって、その国の通貨の価値が裏打ちされていたわけですから、政府の通貨当局が勝手に通貨量を調節・増減することはできなかったわけです。

   この「金本位制」では、通貨の価値を「商品貨幣論」によって金などの貴金属の価値を根底にした「金属主義(metalism)」で捉え、その「信用貨幣」の主体は「市場」に置かれていたため、政府による通貨供給量の増減などの金融政策的対策もやりにくく、大恐慌などでの市場の乱高下による経済的混乱をもたらすことにもつながっていました。

 しかし一方で「管理通貨制度」に移行してからは、この「金塊の裏打ち」はなくなったのですから、その通貨の価値を保証しているのは根本的には「各国政府の信用力」なのです。つまり「商品貨幣論」における「市場」ではなく、「貨幣国定説」に基づく「国家」が、「信用貨幣」の主体となったのです。

   政府は「徴税権」を持っていますから、現在と将来に亙り国民や企業から一定の税金を徴収することができる「国家権力」を源泉として、「貨幣国定説」に基づく「表券主義(chartalism)」により「貨幣の価値の源泉は国家権力にある」という考え方に立っています。そして「信用創造」という仕組み、つまり「民間銀行が創出する銀行預金が貨幣として使用される」という「信用貨幣論(貨幣とは負債である)」と、上記の「表券主義」が結合した「国定信用貨幣論(Credit and State Theories of Money)」が、国家の司法機能と財政機能により支えられているのです。

 「信用創造」の仕組みをご説明すると、私たち国民や企業が銀行から融資を受けると、銀行は私たちの銀行通帳に数字を記入(*記帳)することによって、その金額の貨幣を実は「創出」しているのです。一般的には、私たち国民や企業が現金を銀行に預金し、その預金の総量の中から、融資という貸し出しを銀行は行っていると思われていますが、実はその預金量には直接リンクしない政府・中央銀行(*わが国では日本銀行)によって定められる各銀行の準備預金(*日銀当座預金)をその信用の裏打ちとして、各民間商業銀行は「融資による信用創造」を行っているのです。広義の「貨幣」は、「現金通貨(中央銀行券たる紙幣と鋳貨)」と「預金通貨(銀行預金)」から成り立っていますが、その中の大半の割合を占めているのは、実はこの民間商業銀行によって「創出」された「銀行預金による預金通貨」なのです。

 極めて簡略的に平たく言えば、各民間商業銀行は融資を受ける国民や企業の預金通帳に金額を書き入れることにより、「預金通貨」を創り出しているだけなのです。そしてその「信用創造」の貸し出し限度額の総枠を設定しているのは、政府・中央銀行による「準備預金制度」であって、実態的な各銀行の銀行預金残高ではないのです。これを「信用創造」といいます。

   世界の銀行のなかの銀行ともいうべき「イングランド銀行(*英国の中央銀行)」は、「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である」と説明しています。(**上記書54頁) これが「信用貨幣論」と言われる「貨幣を負債の一種とみなす貨幣観」です。

   「貨幣」とは「負債」であり、つまりは「信用」なのです。A・ミッチェル・イネスは「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の理論のすべてである。」と述べ、社会学者のジェフェリー・インガムも、貨幣とは「計算貨幣の単位によって示された信用と負債の社会関係」であると述べています。(**上記書55~56頁)

 そして「負債」には「デフォルト(*債務不履行)」の可能性があるために、「全ての経済主体が信頼する借用書」の必要性が出てきます。つまり「負債のうち、デフォルトの可能性がほとんどないものだとすべての経済主体(*国民や企業)が信頼して受け入れるものだけが、交換手段としての役割を果たすことができる」わけなのです。これをイングランド銀行は次のように解説しています。「貨幣は、この信頼の欠如という問題を解決する社会制度である。それは特殊な種類の借用書であるから、交換手段としても有用なのである。特に、現代経済における貨幣とは、すべての経済主体が信頼する借用書である。」(**上記書56頁)

 「貨幣」には、「交換手段」「計算単位」「価値貯蔵」という三つの役割と機能がありますが、これは貨幣の本質ではなく、「貨幣が信用であり負債である」ことこそがその本質なのです。そして「不換紙幣」を用いる「通貨管理制度」を各国が採用している現代では、その貨幣の価値の裏付けは、各国の「国家権力」にあるのです。(*上述の「国定信用貨幣論」)

 国家(政府)は、「徴税権」により国民や企業から「税金」を徴収しますが、その際に「中央銀行券:紙幣や鋳貨(コイン)」をその受け取りに使用します。江戸時代以前の昔はコメなどの現物により「徴税」していたのが、明治以降は中央銀行(*日本では日銀)が発行する紙幣や鋳貨を以って税金を支払うことを認めているのです。つまり、中央銀行(*日本銀行)発行の紙幣や鋳貨は、この納税に使用できるという「国家・政府によるお墨付き」によって、その通貨としての価値が裏打ちされているわけです。もしも自分が勝手に発行した「裕鴻金券」という紙幣(紙切れ)で税金を払おうとしても、日本政府の徴税当局は「受領」しないわけですから、この個人紙幣(*一種の借用書)には国家・政府の信用がなく、また広く流通させることもできないのです。しかし「日本銀行券」である紙幣を持ち込めば、日本政府は税金の支払い手段として「受領」するのです。つまり日銀券なる紙幣の信用力は、日本国政府が裏打ちしているわけです。

 翻って考えてみれば、もし日銀券の紙幣で500万円分の札束を持っていたとしても、周囲何百キロに誰も住んでいないシルクロードの砂漠のど真ん中のやっと辿り着いたオアシスで、その飲み水の泉を管理している地元原住民が対価を要求した場合に、水一杯にいくら何十万円の日銀券を支払おうとしても相手がその紙幣の価値を認めなければ、使えません。また、人跡未踏の荒漠たる砂漠の真只中では、仮にリュックに金塊を10キロ分背負っていても、その金塊と真水10リットル分とどちらに価値があるかを考えてみれば、貨幣や貴金属なるものの価値というものを根本的に考え直すことができます。ギリシア神話のミダス王は、ディオニソスからご褒美として「彼が触れるもの全てが黄金になる」という能力を授かりましたが、その結果、最初は喜んでいたミダス王も触る食べ物も飲み物も全てが黄金になってしまうことに気づき、挙げ句の果てには愛する娘まで黄金の像となってしまったために深くその強欲を後悔して、最後はディオニソスにお願いしてこの「能力」を消してもらうというお話なのですが、黄金や金銭というものの「価値とは何か」を考えさせてくれます。

   また、古代より南太平洋のヤップ島では「石貨」というパラオ島産出の石でできた貨幣が用いられ、最終的には1931(*昭和6)年まで石貨が造られていたといいます。見方を変えれば、現代の「暗号資産(仮想通貨)」もこれに通じるものです。つまり大勢の人々が、価値があると信じ、互いの商品やサービスの対価として交換や計算や貯蔵に用いれば、それは「貨幣」としての役割と機能を持つことになるのです。その「お金」は、昔は金塊・砂金何グラムや金貨何枚を用いていたのが、その金貨と交換可能な金本位制の兌換紙幣となり、さらには金には交換できない不換紙幣となり、さらにはその紙幣の札束さえ要しない銀行通帳上の数字記載額となり、クレジット・カード決済やスマホ決済などの電子データとなってきています。現代では情報空間における「電子データ」が「お金」として通用しているわけです。もちろん時々「電子データ上の金銭残高」を銀行通帳に「記帳」して、その証拠として紙製の銀行通帳を持つこともできるわけですが、例えば某国から飛んで来た核兵器搭載のミサイルが高高度の上空で爆発し、強力な電磁パルス(*EMP)によって電力・通信・情報機器が機能を麻痺・停止すれば、当然ながら銀行のシステムも全て機能を喪失し、電子データ上の私たちの貴重な「お金」も一瞬にして消滅してしまうかもしれないのです。実際北朝鮮は2017年に、このEMP攻撃をできる熱核弾頭をすでに保有していると主張しています。

 もちろん金の延べ棒をいくら保有していても、いざという時にそれを交換手段として必要な食べ物や着物を入手できるかという問題は残ります。そのように考えれば、「お金」というものの根本的な価値は、平和な状態における社会・経済活動を前提にしているものに過ぎないことがわかります。ちなみに2017年の日本映画「サバイバルファミリー」(矢口史靖監督、小日向文世、深津絵里ほか出演)は、この電磁パルス攻撃ではなく、単に電気が使えなくなったらという状態を描いた作品ですが、これを観るだけでもその恐ろしさを感じることができます。ぜひ皆さんも観てみて戴きたいと思います。

 さて、話を「貨幣」に戻しますと、こうして「不換紙幣」は金との交換が保証された「兌換紙幣」ではないわけですから、その信用力は国家・政府という国家権力による信用保証によって成り立っているわけです。それは根本的にはその「不換紙幣」による租税の支払いを国家・政府が「受領」することによって保証されています。つまりは、「貨幣問題は、政治の領域にある」というゲオルグ・フリードリヒ・クナップの言葉(**上記書70頁)の通りなのです。

 このことからも、「貨幣」については「自由市場に委ねれば需給は常に均衡する」とか「供給はそれ自らの需要を生み出す」(*セイの法則)といった「市場原理」は、アダム・スミスの「商品貨幣論」に基づく主流派(*古典派・新古典派)の経済学の誤謬であり、そもそもワルラスの「一般均衡論」に見られるような「静的均衡」を前提にして組み立てられている「数理モデル」は、「デフォルト(*債務不履行)」の可能性が組み入れられておらず、人間の社会的活動では逃れることのできない「不確実性」が考慮されていないという欠陥を持ち、その不安がゆえに人々が行おうとする「貯蓄」を、説明することができないと中野剛志先生は指摘しています。(*上記書75~77頁) 経済も市場も本来的に、閉じられた「静態的(*static)均衡」の世界ではなく、常に開かれた「動態的(*dynamic)変動」の世界だというのです。そして次のように中野先生は書いています。

・・・主流派(*古典派・新古典派)経済学が想定する「経済人(*homo economicus)」とは、「自己の物欲を満たすという利己的な目的を達成するために、利害損得を合理的に計算して自律的に行動する個人」である。主流派経済学の方法論は、経済現象をこの「経済人」に還元して説明しようとする。それは、あたかも物理学が、物理現象を「原子」に還元して説明するかのようであるため、「経済人」は「原子論的個人」とも呼ばれる。しかし、原子論的個人として行動する「経済人」なるものは、現実にはあり得ない存在である。実在する人間というものは、社会の中で共有されるルールに従って行動する「社会的存在」であり、他者との人間関係を結ぶことなしには存在し得ない「関係的(relational)存在」である。したがって、歴史の中に見出せる「市場志向型」行動様式とは、売買契約の遵守や私有財産権の尊重といった市場社会のルールに従う「社会的存在」としての人間の行動様式なのである。・・・(**上記書178~179頁)

 ヴィクトール・エミル・フランクル博士は、その精神医学・心理学・実存哲学の世界において、こうした要素還元主義的な議論を「ホムンクルス主義」として戒めています。ゲーテの「ファウスト博士」の中に出てくる人造の小人間「ホムンクルス」に因んだ命名なのですが、実体的かつ総体的な実存としての「人間存在」とはかけ離れた、人間を矮小化した理念的な「人間モデル」を前提にした理論研究や議論は、矮小化した人間観を基盤とした歪曲した社会観に基づくものとなることを警告していました。これはヒューマニズム(*人間尊重主義)ではなく、「サブ・ヒューマニズム」(*ニセモノの、貶められ劣化した擬似人間観主義)だというのです。そして、こうした「矮小な人間モデル」を用いたある専門分野の理論を、過度に一般化したり単純化したりして、広く人間社会全般に関する理論として敷衍することは、心理学を心理学主義に、生物学を生物学主義に、そして経済学を経済学主義に転化してしまうと警告するのです。(*「意味への意志 ロゴセラピイの基礎と適用」大沢博訳、1979年ブレーン出版刊より)

 まさしくこの意味と文脈において、主流派(*古典派・新古典派)経済学が想定する「経済人(*homo economicus)」は、人間の実在ではなく、理念的な矮小化された人間モデル(*ホムンクルス)を基に、しかも仮想的な「閉じられた静態的(*static)均衡の経済社会」モデルを前提にして組み立てられた理論上の世界に他ならず、生身の生きた人間の集団がその不安や欲望や道徳などの「非経済合理的行動」をも選ぶことのある実社会とは、かけ離れた仮想的世界での理論であるということになります。加えてこの実社会は、常に変化・変転する「開かれた動態的(*dynamic)変動の経済社会」なのです。今までは、微分方程式などの数式で表されるような如何にも「科学的」経済理論に対する畏敬や憧憬が、理論経済学を権威づけてきたかもしれませんが、人間の不安や欲望や道徳を微分方程式で全て記述することが困難であるように、こうした数理経済学的理論の限界もまた存在することを、私たちは認めなければならないのではないかと思います。それは十九世紀的な決定論的哲学に基づくパラダイムなのです。つまりこの宇宙の森羅万象は一つの科学的な決定論的法則体系から成り立っており、それらの「科学的法則の束」を全て解明すれば、この世界の動向を全て予測することが可能であると考える研究方法態度です。しかしこの決定論哲学が拠り所にしたニュートン物理学の古典的な力学的法則の世界を超える、相対性理論や量子力学が二十世紀に登場した後の量子物理学の現代においては、こうした決定論的世界観自体がすでに揺らいでいるのです。私たち人間は、十九世紀的な思い上がりから離れ、人間という不条理性を持つ実存的存在を前提にした世界観に立ち、これに基づいた新たな二十一世紀的な経済学や政治学を打ち建てる研究が求められているように思えてならないのです。(次回につづく)