何か辛い事や困難に出会った時、自分自身を悲劇のドラマの主人公のように感じる人がいます。
「なんで自分だけがこんな目に…」
そんなふうに被害者意識を持ってしまい、自分で自分の心をさいなむ。
しかし人は自分が被害者だと思ってしまうと、起こることのすべてを酷いことのように感じてしまうようになります。
起きることすべてを被害者の目で見てしまい、誰かや何かのせいにしてしまうようになるのです。
そうならない為にもまず自ら与える人であろう。
与えるものは与えられる。
与えるといっても何も難しく考える必要はないのです。
たとえば自分の為ではなく、誰か人の為に祈るだけでいいのですから。
「祈る」なんて聞くと何か宗教的な感じがするかもしれませんが、「祈る」自体に宗教は関係ありません。
神さまを信じる人は信じればいいし、信じない人は信じなくても構わないのです。
アメリカでこんな実験結果があります。
末期がんの患者を無作為に選び、AとBの二つのグループに分ける。
その人たちとまったく違う所に住んでいる十人の健康な人たちに、Aグループの患者さん十人の名前を教えて回復を祈ってもらった。
Bグループの患者には何もしなかった。
その結果、祈ってもらったAグループの患者さんはあきらかに回復力が高かったのだ。
祈ってもらっている患者さんは自分が祈ってもらっていることを知らない。
祈っている人も相手の名前以外は何も知らない。
それなのに何回実験しても同じような結果が出たのだという。
つまり祈りの効果に距離は関係ないのです。
そう、「祈り」には力があり、「祈り」は知らない人の心も癒すのです。
この実験のおもしろい所は、祈るほうが特定の宗教をしていたわけでもなく、特に信心深い人だったわけでもない所です。
人は不思議と自分の為に祈っても無心になれませんが、誰かの為なら無心な状態で祈れたりするのです。
それが自分より大変な状態にいる人なら、なおさら一生懸命になれるでしょう。
だから、祈ろう!
被害者意識を捨てて無心になって人の幸せを祈ると不思議と心が安らかになる。
「愛」というのは差し出す事により、いくらでも自分の中から湧いてくるものです。
見返りを求めるのではなく、ただ誰かの心が癒される事を願い、心から祈ってみよう。
自分のした事は自分に返ってくるし、与えるものは与えられる。
だから今こそ、誰かの為に祈ることです。
「祈り」は知らない人の心も癒すし、「祈り」には強い力があるのだから。