東大寺「廬舎那仏」 | 雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈
カレンダー写真は「鴻上 修」氏撮影

 天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あづま)なる陸奥(みちのく)山に金花(くがね)咲く

  巻18 4097 大伴家持

 天皇の御代が繁栄するだろうと 東国の陸奥の山に黄金の花が咲くように現れました

 749年5月に東北地方で砂金が採れたという話を伝え聞いた家持が、遠く「越中国」から捧げた「祝いの歌」といわれます。 

 「万葉集」時代の「東国」は、一般的には東海道では「遠江」より東、東山道では「信濃」より東をさしました(陸奥も含みます)。

「金花咲く」からは宮城県牡鹿郡の「金華山」を連想します。18世紀の初め仙台の儒学者「佐久間洞厳」はそのように解釈しました。しかし19世紀になって国学者の「沖安海(おきやすみ)」が史料、出土品、地理的環境などから「宮城県遠田郡湧谷町涌谷(わくや)字黄金迫」一帯の山であるという説を提唱しました。それが昭和32年の東北大学の発掘調査により証明されました。「黄金山神社」境内には、この歌が刻まれた最北の「万葉歌碑」が建てられています。

 晩年(65歳)、家持は、陸奥守として国府のあった「多賀城」に赴任しますが、この時はよもや自分がこの辺境の地に来ることになるとは考えてもいなかったと思われます。(背景には「藤原家」の隆盛)と「大伴家」の衰退があります。)

 東大寺の「廬舎那仏」(大仏)がこの金で「鍍金(めっきん)」され黄金色に輝きましたが2.2トンもの「水銀」に金を溶かして塗り、熱を加えて水銀を蒸発させるという「アマルガム法」だったため多数の人が水銀中毒で苦しんだことも歴史的事実として忘れてはいけないと思います。

 

「聖武天皇」の発願により天平17年(745年)に製作が開始され天平勝宝4年(752年)に「開眼供養会」が行われました。延べ260万人が工事に関わったとされ建設費は現在の価格で約4,657億円と推計されています。治承4年(1、180年)と永禄10年(1、567年)に2度焼失しましたが、時の権力者によりその度に再建されました。頭部は江戸時代、体部は鎌倉時代に再建されたもので創建当時のものはごく一部ですが「国宝」に指定されています。木造の仏像としては世界最大級です(像高は14 .98m)。