「安積皇子」の薨ぜし時 | 雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈
カレンダー写真は「鴻上 修」氏撮影

 天平十六年 安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に作る歌

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも

 巻3 477 大伴家持

 

山の隈(くま)までも照り輝かせて咲きほこっていた花がにわかに散り失せてしまったようなわれらの大君よ

 「安積皇子」は聖武天皇の第二皇子ですが、第一皇子の基皇子(もといのみこ)が死去したため将来の天皇として期待(讃仰)されていましたが、17歳の若さで突然亡くなってしまいました。葬られて、地上の私たちの住む大日本(やまと)の国ではなく天上を治める身になってしまったと嘆かれています。陵墓は京都府和束町の茶畑の中にあります。聖武天皇の「難波行幸」に随行していましたが足の病で「恭仁京」に引き返した2日後に薨去したので「藤原仲麻呂」による毒殺ではないかという説があります。光明皇后の娘「阿倍内親王」が史上唯一の「女性皇太子」として立太子していることなどから藤原一族による陰謀の臭いがします(光明皇后は藤原不比等の娘。阿倍内親王は孝謙天皇、重祚して称徳天皇)。

 文法的には「だに・すら」は(さえ)、「さへ」は(添え)でその上にの意味なので「咲いている花のような大君」だけでなく、その上に山までも光り輝いているというニュアンスになると思われます。「薨ず」は皇族または三位以上の人(公卿)に使う「死す」の尊敬語です。

 私の母校である福島県郡山市にある「安積」高校と同名なので記憶に残る一首です。2025年から、進学実績の向上をめざして福島県初の県立「中高一貫校」になります。

※福武「古語辞典」によると、(さえ)の意味では「すら」は上代、「だに」は中古、「さへ」は中世以降に多く用いられたと書かれています。

【時代区分】

神代・・天地開闢から神武天皇即位まで

上古・・飛鳥時代中期(「大化の改新」頃)まで ※「乙巳の変」

上代・・飛鳥時代後期(白鳳時代)から奈良時代まで

中古・・平安時代

中世・・鎌倉時代から安土桃山時代まで

近世・・江戸時代