個人的な話で恐縮いたします | 雪太郎の「万葉集」

雪太郎の「万葉集」

私なりの「万葉集」解釈
カレンダー写真は「鴻上 修」氏撮影

 母は大正10年3月の生まれでした。令和4年2月、もうすぐ満101歳という時に亡くなりました。昨日は、母の5歳下の叔母の葬儀に出席いたしました。満97歳でした。総じて母方は長寿で兄弟姉妹は皆90歳を過ぎてから亡くなっています。自分にも「長寿遺伝子」が伝わっていることを願っています。父方の実家は「日蓮宗」ですが、母方の実家は「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞した「玄侑宗久」氏が住職をつとめる三春町の「臨済宗・福聚寺」の檀家です。通夜の席で大きな紙を床に広げ「戒名」を達筆な筆遣いで書かれる姿が印象に残っています。叔母の家は「真言宗」でした。時折サンスクリット語らしいお経になるのは何故なんだろうと考えながらお経を聞いておりました。家に帰ってから調べてみました。「真言」は本来人間の言葉では表現できないが便宜的にサンスクリット語を使っていることなど新たな知見を得ることが出来ました。

 母の人生には苦労が多く、「尋常小学校」を卒業するとすぐ「口減らし」の意味もあり近くの村(都路村)の裕福な家に「子守りの奉公」に出されました。冷たい水仕事もさせられたのか凍傷で指先を1本失っていました。家族のため一生懸命働いてくれました。わからない漢字は辞書を引きながら数十年、日記を書き続けました。そのせいか記憶力はしっかりしておりました。結婚した「父」は「高等小学校」卒で元々は壮健で川口で「鋳物工」をしておりましたが「戦争」ですっかり虚弱体質になってしまいました。戦後は郡山にあった「吸音盤」を作る工場に勤めていました。病気で入退院を繰り返し、私が二十歳の時に五十歳で亡くなりました。私の両親は学歴があるわけでもなく裕福な家庭に育ったわけでもありません。私も大学を卒業するまではお風呂も付いてなく共同トイレしかない「棟割長屋」で育ちました。大学も奨学金とアルバイトで苦労しながら卒業いたしました。県立高校教員となり同じ職場で出会った「家庭科」の教員をしていた妻と結婚したあたりからようやく人生が好転しはじめ「貧乏の連鎖」から逃れることができました。今は「年金生活」で裕福ではありませんが不自由もなく穏やかに暮らしております。「万葉集」の世界に浸っている時間は心が豊かになるかけがえのない「ひととき」です。人や物など様々な出会いに感謝しています。

 個人的な話で恐縮いたしました。