この夏、小布施とこの笠岡、そして8月の終わりに猪苗代を訪れました。いずれの町でも感じたのは「地元の人の姿を見かけない」ということです。

外からやってくる観光客ではなく、その町で生活している人や自転車の通行を、ほぼ目にすることがありませんでした。とにかく町が静かなのです。



過疎化や人口減と見ることもできますし、また高齢者は朝早くに活動して、日中や夜は自宅に居るからかも知れませんね。


経済で物事を測る嗜好の人たちは、そこに負の要素を見て取るのかも知れませんが、別の角度からは「この国も成熟した、落ち着いた社会になってきたのだ」と言えると思います。



経済の規模や成長率の大小を、よその国と比較しては一喜一憂する「昭和の幸福度」の基準から抜け出す時期なのでしょうね。


平成の時代ですらなかなか想像できなかったほど、多様な国々に住む大勢の外国人が「ぜひ行ってみたい」とワクワクする国が、今の日本なのですから。



笠岡には吉岡と伏越の二つの港があり、それぞれ高速船とフェリーを運行しています。


片岡義男ファン「Appleciders」の集いが行われる白石島には、往路は伏越港から渡ることにしていたので、港から近い「荷葉」でお昼を頂いた後、少し歩いたところにある「竹喬美術館」を訪ねました。


小野竹喬は日本画の代表的な画家の一人です。明治22年に笠岡で生まれ、14歳の時に京都の竹内栖鳳に師事、二年後には雅号を授けられていますので、早くから才能を認められていたのですね。



館内の撮影が許可されているか分からなかったので、HPから写真を拝借します。こちらは代表作のひとつ、大正5年29歳の「島ニ作」で、第10回文展の特選作です。



こちらは昭和22年の「中秋の月」で58歳の作品です。この年、日本芸術院会員に任命されています。



この作品は昭和49年の「樹間の茜」で、晩年にあたる85歳の画、この4年後に89歳の時、75年に渡る画業を営んだ京都で没しました。



竹喬が生きた時代は、この国が戦争をしていた時期でもあります。


日清日露戦争から満州事変の頃までは、国の外が戦場でしたが、太平洋戦争に至り、国そのものが焦土になりました。


そうした中で、画家は何を考え、何を思って創作活動に従事していたのでしょうか。



左の「鴨川の夜景」は、川床に灯が入った宵闇の情景を描いた作品、祇園祭の粽(ちまき)が共に飾られていました。



竹喬には、今の言葉でいう「日本の原風景」に題材を取った作品が多くあります。


何気ない里山の情景、季節がうつろいゆく山や樹々、田畑の朝の明るさや暮れゆく穏やかな空など、画布に写し取られた景色に気持ちが和みます。




カブトガニは岡山県から福岡、佐賀県にわたる瀬戸内と九州の北岸に生息している由。笠岡市には博物館があります。


いつも思うのですけれど、生き物には様々な形があって面白いですね。まさに神秘だと思います。




[カバー写真] 


竹喬美術館は、今回の展示を終えた8月末から、来年の3月半ばまでメンテナンスのため休館になりました。その意味では、とても良いタイミングで訪問できたと思います。


来年の夏もまた、笠岡へ行く機会に恵まれれば、再開した竹喬美術館を訪ねてみたいと思います。



(傍記) 

先日の台風13号、マチサガは幸い影響はありませんでしたが、千葉県から茨城、福島県の太平洋岸にかけて大きな被害が出たようです。被災された方々にお見舞いを申し上げます。