なんてない日帰り出張だったけど、
ついでに実家に帰省してきました(^^♪
 

私、今年会社に入社して25年が経過したのでリフレッシュ休暇が貰える年なのです。

貰える権利は平日10日間の休暇と20万円のJTB旅行券クーポンです。

 

 

平日10日間(土日をいれると16日間)休む権利は、夏休みにキリマンジャロで使ったけど、

 

 

20万円のJTB旅行券クーポンがまだ余ってて、今年中に使わないといけないから、母にどこか旅行にでも行こうか?

ってお誘いしました。

 

3年前はこんなところに両親と3人で親孝行の旅にでかけました。

 

 

14年前、母は祖父の長年の介護も終わって時間も出来たので、私がアフリカから帰国した時に行った母子2人ハワイ旅のお話はこちら。

 

 

13年前、日本に帰国してスピード結婚した私はイタリアのベネチアで双方の両親とともに結婚式を挙げました。

 

そしてその帰り道、

 

母が生まれた中国大連に生まれ故郷を探す旅に行ってきました。

 

今日はそんなお話をしたいと思います。

 

本題とは関係ないけどポーン

 

ベネチア(+南イタリア+フランス)には、アシアナ航空のビジネスクラスで行ってきました(^^♪

 

その帰りの便でのこと、美人なCAさんが何やら顔パックらしきものを持ってきておいで

 

 

じゃんチョキ

 

 

着陸直前に乾燥肌に顔パックしてくれるサービスが当時ありました。

女性向けだと思うのですけどね。

妻(当時)と一緒にやってもらいました笑い泣き

 

そしてインチョンで中国南方航空?か何かに乗り換えて大連に向かいました。


仁川からは妻や義両親、そして父と別れ母子2人旅です♪


 

戦前、死んだじいちゃんが当時満州だった大連で仕事をしていたのですよね。

 

母は戦後ばあちゃん(母が高校生の頃?に亡くなりました)と2人で日本に引き揚げてきたようです。

祖父はシベリア抑留され、さらに何年かして日本に帰国出来たようです。

 

そんな母がたぶん5~6歳くらいまで育った大連。

 

死んだじいちゃんは、母には大連の話はしていたようですがいかんせん母の小さいころの記憶も怪しく、大連の家の玄関前で撮った写真は私も見ましたが、玄関しか写っておらず、街の風景が何も分からない状態で訪問しました。

 

唯一の手掛かりは、母がじいちゃんからよく聞いていた「聖徳街」という街の名前だけ。

 

前日に宿泊したホテルに昔日本人が住んでいた場所を案内できるガイドさんをお願いして行ってきました。

 

 

戦前聖徳街と呼ばれた通りは、「民生街」に名前が変わったようです。

 

 

当時というか、2000年代初頭、新聞に大連の開発が進み、日本人が住んでいた町が取り壊されているニュースはよく見ていました。

でも、当時私はその辺に行く感覚で海外に行く感覚がなかったから、祖父と母を連れて行こうなんて思うことなく、なんとなく遠い世界の出来事と思ってたのですよね。

 

そして時は過ぎ、

 

私が母と大連を訪問したのはじいちゃんが亡くなって数年経った2010年の夏。

 

 

日本人が住んでたような街並みはもうありませんでした。

 

 

ガイドさんとこの辺りかなぁ。

日本人がいっぱい住んでいた場所は。

とか会話したのだと思います。

 

 

 

 

「親孝行したいときには親はなし」

 

って言うけど、私が海外赴任した当時、2003年頃だったら、まだじいちゃんを連れて行けたし、戦前の街並みが残っていたラストチャンスだったのだと思います。

 

結局、なにか母の記憶の欠けらを思い出させるようなものは何ひとつなく、半日くらい周辺をぶらぶらして母の生まれ故郷を探す旅は終わりました。

 

午後は日露戦争の舞台となった旅順を巡ります。

 

 

 

 

ロシア建築の旅順駅。

 

 

 

ふるさとっていいですよね。

 

自分の心の拠り所になる故郷。

今、本当にそう思ってます。

 

最近は都会のマンション育ちのお子さんも多いと思いますが、そんな子供たちが大人になった時、今の大人の人が持つ自分の心の拠り所になるような故郷って感情を持つことってあるのかな?

 

そんなことを想った、中国大連 母の生まれ故郷を探す旅でした。

 

生まれ故郷、私は大好きです。