「〇〇語が話せる」って誰が決めるの? | 小さな町から韓国語

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田舎暮らしをしながら、韓国語教室を運営しているおばさん先生のブログ

世の中には、外国語を2つも、3つも話せる人がいます。

 

私も今までにそういう方に出会ったことがあります。

 

でも、そもそも何をもって「話せる」「できる」って言うんだろうか、と思いませんか。

 

試験、資格があれば「話せる」「できる」なのかというと、そうとも限りません。

 

TOEICのスコアが高くても、話せない人もいたり、

逆に、資格はないけれど、ペラペラ話す人もいたりします。

 

日本人なら、母国語の日本語については、自信をもって「話せます!」「できます!」って言えると思います。

 

でも、外国語になると、「日常会話レベルならできます」とか「ちょっとだけならできます」とか条件付きになってしまうのではと思います。

 

でも、その判断、その評価、誰がしたのでしょう?

 

話は変わりますが、私は過去に仕事で、アジアからのビジネスマンたちのお世話兼通訳をする仕事していました。

 

フィリピン、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、モンゴル、中国のビジネスマンたち。

 

共通言語は、英語です。

 

フィリピンやマレーシアなどの国は、英語が公用語なので、それらの国から来た人は、英語がかなり流暢です。

 

一方、他の国々の人にとって、英語は外国語でしかなく、彼らの英語レベルは、どうみても中学生、高校生レベル。語彙数も限られているし、文法もけっこういい加減でした。

 

でも、彼らはそれなりにコミュニケーションをとることができます。

 

だからなのでしょうか、それとも、「勉強をした」という事実があるからなのでしょうか、

 

はっきりと

 

「私は英語が話せます」

 

と言ってました。何の条件も付けてませんでした。

 

似たような話ですが、以前働いていた会社でベルギー人の方がいまして、彼は、英語、フランス語、ドイツ語、中国語、日本語が「話せる」「できる」ということでした。

 

でも、彼の日本語レベルは、基本的なコミュニケーションレベル。

 

でも、彼は「日本語ができる」「日本語が話せる」と言い切ります。そのノリでほかの言語も「できる」と言ってるのでしょう。

 

そうです、「できるかできないか」「話せるか話せないのか」は、試験が決めるわけでもなく、資格が決めるわけでもなく、ましてや、他人が決めるわけではありません。

 

「自分」が「自分」の判断で「自分」の能力を決めればいいのです!!

 

日本人は謙遜、謙虚になり気味です。

 

初級をもう終えようとしている生徒さんも、

 

「まだまだです」「なかなかできるようにならなくて」

 

とおっしゃいますが、もっと自信をもちましょう。

 

ハングル文字がよめる・・・それだけでも「できる」です。

初級のテキスト終わった・・・それで十分、会話は「できる」です。

ドラマの単語聞き取れた・・・それでOK、「できる」です。

 

いろんな「できる」があるのですから、いろいろひっくるめて

 

「私は韓国語ができます」と、

 

言っていいのではないかと思うのです。

 

そういう自信って、語学を勉強するうえでとても大切です、本当に。