そのまま、しばらく時間が過ぎた。張りつめていた緊張が弛緩したように、群衆の輪がゆるんで、うんざりしたようなため息が聞こえてきた。
と、そのうちにまた、ひとしきりドヤドヤと乗客が降り立ってきた。まだ車内にこんなに人が残っていたとは信じられないほどだった。いったい何ごとだろう? もしかすると全員をいちど降ろして、それから待ち人の乗車がはじまるのかもしれない・・・・。ジリジリしながら様子を見守っていると、どこからともなくヒソヒソとおびえたようなささやき声が、さざなみのように空気をふるわせ、次第に大きくざわめくのが聞こえてきた。
「おい、どうしたンだ!」
「ええっ、なにがあったンだ!」
ささやき交わす声のなかには、思いがけずポルトガル語も聞こえてくる。ではこの男たちのなかにはブラジル人もいたのかと驚きながら、わたしもまた不吉な予感にゾッとしながら成り行きを見ていると、いつのまにかロベルトが、細っそりした小さなからだをすり寄せて、わたしのかたわらに立っていた。彼は、例のボソボソした声を、秘密を漏らすときのようにいっそう小さくして、精いっぱい背伸びをしながら、わたしの胸元にささやいた。
「何かあったらしいよ。バスは当分発車しないだろうって」
「どうしたのかしら」
「わからない」
好奇心と興奮を織りまぜてロベルトが言う。
なってこった! ダメだダメだ、ナニ、どうしたって! おい、どうしたってンだ・・・・怒声や投げやりな声があちこちらあがると、やがて男たちが三三五五、トランクを引きずって店内に戻っていった。
そんな男たちの姿を眺めていると、いつか彼らに対する恐怖心が、氷が融けるように溶けていくのを覚えた。かつて見たことのない不思議な人種だと思っていたが、彼らもやっぱりただのオトコでしかない。空席を争うためにはなりふり構わない、ただの、普通の男性でしかなかったのだと!
すこし気が楽になって、思わずわたしはロベルトと目を見交わし、肩をすくめ、荷物を抱えて店内のテーブルに戻った。それにしても、いったい何があったのだろう?
しばらく苛立たしい時間が過ぎていった。かなりの時間だった。
するうちに、フイにまた、店頭のあたりがドッと地鳴りのようにどよめき立った。テーブルの男たちが驚いたように立ちあがり、店頭に飛び出していく。わたしもはじかれたように腰を浮かせると、ロベルトが興奮に目をかがやかせ、振り向きざまに言う。
「待っておいでよ、ユキ。おいらが見にいってくる!」
座っている気にもなれず、ソワソワと立ち上がっては店頭に近づき、男たちの後ろから息をひそめてあたりをうかがっていると、ロベルトが駆け込んできた。
「警官がきたンだ。きっと何か起こったンだ!」
そう言うと、また人垣を縫って駆け出していった。
もの見高い男たちのわき腹をすかして覗いていると、たしかに警官の姿が見える。カーキ色の制服を着たいかめしい警官は、白いサファリルックの制服姿の車掌と、険しい表情で話しこんでいる。その二人を遠く取り巻くように、丸い人垣がバスの横手に伸びていた。
店の明かりは、舗道の隅まではとどかない。暗くかげった人溜まりを遠く眺めながら店内につったっていると、ロベルトがまた人垣をすり抜けてやってくるのが見えた。消然と肩を落とし、暗い、凍ったような瞳をまばたきもせず、大きく見開いたまま、じっとわたしをみつめながら近寄ってきた。そうして、ほとんどからだがくっつきそうに間近に立ち止まり、精いっぱい背伸びをして、真正面からわたしの胸元にささやいた。
「誰かが死んだンだって・・・・」