[ペロゥタスの夜の徒花]  21 | るんるんゆき姐の玉手箱

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「誰かが死んだンだって・・・・」

 予想外な言葉だった。ヘエーッと言ってロベルトを見ると、凍りついたようなロベルトの顔には表情がなく、放心したように唇が半開きになっている。

それからまた、思い出したように店頭へ走りだすと、すぐさま戻ってきた。またからだがくっつきそうに真正面に立ちはだかると、例によって胸元に顎をのばし、かすれた声でささやいた。

「死んでるンだ、ユキ、きてごらんよ。見えるンだ。鼻から白いものがいっぱい出てるンだ。ボールみたいに丸くて白いンだ」

 小さなロベルトの冷たい手に引かれ、わたしもおずおずとバスに近寄っていった。店内からの光もおよばず、ほの暗い陰になったバスの前から五、六席目あたり、濡れたように光るガラス窓に、ぼんやりと白い風船のようなものが張り付いていた。

突然、亡霊が浮かび立つように、窓ガラスに頬をもたせた男の顔が見えた。彫の深

い、威厳に満ちた老男の顔だった。中世の貴族のような険しい風格をそなえていた。隆と突き出した鼻、高く張りだした眉かさの下はえぐったように黒々と影をやどし、その影に光る黒い目は、いまは閉じられている。黄土色をした強靭な皮膚は、ガラス越しのせいかいっそう黒ずんで、緑色を帯びている。深い深い、深い眠りに落ちているようだった。これが・・・・ふたたび目覚めることのない眠りというのだろうか。もう二度と笑いかけることも、しわがれた声で語りかけることもないのだろうか。とてもそうは思われない。耳元で大声で呼べば、去りかけた彼の魂が戻ってきそうだった。

 しかし、よくよく見ると、窓ガラスにもたせた頬は、ぞっとするほど冷たそうだった。皮膚は死肉に張り付いて、ブロンズの彫像のように変にツヤツヤと光っている。白い風船は鼻穴から少しずつ吹き出したのだろう。ピンポン玉のような、泡だつ塊がガラスにへばりついていた。

  ガラ空きになった車内では、大柄な老男が、警官の事情聴取を受けている。その隣で、やはり大柄な、鼻の高い立派な老婦人がハンカチを顔にあて、しきりに洟をかんでいるのが見える。

「隣に座っていた人は気づかなかったのかね」

「眠っていると思ったのじゃありませんか」

 わたしの背後で、スペイン語が言い交わしている。

 それからまた背後で、誰かが驚いたように言うのが聞こえた。

「心臓麻痺だそうだ!」

「冷たい空気が窓から入って、それが原因だったらしい・・・・」         

 わたしは、超現実(シュール)の絵画の画面が、現実となって貼りついているのを見ている気分だった。静止した時間、音のない漠とした静寂、何事か恐ろしく深い意味でも語りかけているような、冷たく青ざめた顔。その顔をみていると、いつか自分までが、音のない黄泉(よみ)の国へと迷い込んでいる気がした。なぜか懐かしいような、甘い安らぎに満ちていた。大勢のひとびとや、賑わしい風景に囲まれながら、声がとどかず、たったひとり、もどかしげに叫んでいるような、奇妙で魔可不思議な感覚だった。

  やがて、医者がくるはずだ、という声が聞こえた。気品のある大柄な老婦人が、大柄な連れと一緒にバスをおり、警官にみちびかれて、石だたみの路上を闇のなかに消えていった。面倒な事情聴取、あるいは検死などといった手続きに、立ち会わねばならないのだろう。

 こうした光景の一部始終を見とどけた観衆は、二人三人と店内に戻っていったが、わたしは吸い寄せられたように、青ざめた死人の顔に釘づけになっていた。汗ばむほど暑いのに、手足が冷たくなって、わたしもまた、遠い浄界にたたずんでいる気分だった。

 いつか・・・・いつか人は、みな、このように死ぬのだ・・・・何度も何度もそう自分に言い聞かせたが、あまりに突然のためか、あまりに近く死者を見ているせいか、不思議と衝撃を感じなかった。青銅色の青ざめた男の顔は、いつまで見ていても見飽きることがなかった。眠ったような顔に、彼の肉体に宿った束の間の生、その生を散りばめた無数の事件が、星くずのようにまたたいているのが見える気がした。そのまたたきのひとつひとつを解きあかそうとすれば、きっと何年も何十年もかかるだろう。生まれ出てから見た世界、幼年時代、少年時代、そして熱い血にのたうつ恋の試練、そして・・・・そして‥‥美しい死者の顔は誰よりも多くを語っているように思われて、わたしは目をそらすことができなかった。もっと聞きたい、もっと語って欲しい・・・・死者を凝視し、彼の声に耳を澄ませよう、そうすれば「人生」というものが、わたしが探し求める「生きて在る意味、あるいは生きて在る無意味さ」が、ハッキリするかもしれない・・・・わたしはだから、時を忘れて死者に見入っていた・・・・。