人とコミュニケーションしてると思うこと。


特に女性性が強い人は共感を強く求めてくるなあと思う。

私もそうだったけど、自分を受け入れることができるようになってきてからはそんなに求めなくなった。

私の感覚は大勢の人とは違うと少しずつわかり、大人になると感覚は個性、本当に十人十色だとわかるようになった。

同じ目線で話せる人は、少ないとわかってるからこそ、自分も相手も尊重したい。


この世界で生活していて、わかるものは共感するけど、過度に求めてくる人はなんだか困る。

自分と同じという安心感を得たいのと仲間意識をもちたいのかもしれない。自分の感覚が合っているのか探してるのかな。不安なのかな。

無理強いする人もいるし、その人の世界はそれが全てなのかもしれないとも思ったりする。

そして、昔の私が体現されて相手として現れてるのかもしれないとも思う。


共感は直接じゃなくてもネットでも、アートでも音楽でも感じること。間接的なほど自分都合で共感できてしまうこともある。

私はそれを頼りに自分だけ苦しいんじゃないと知ることができて救われた。


日本のコミュニケーションは不思議。

直接的に感情表現あまりしないわりに、感情が繊細だし、察して文化だし、そこが面白いし、難しいこともある。

相手のことを考えるという文化は本当は自分のことを第一に考えることから始まることを忘れていないかい?

相手にすることは自分に対してしていることやしてほしいことだったりするから。


それから、余談だけど、日本では自分のアイデンティティが年齢、環境や社会的役柄に依存していることも強く思う。そういうのもコミュニケーションとる上で大きく関わったりするから。

そういう肩書きだけで、判断するのは情報処理が甘くないか。

私はそういうのは人間の生活する上での便宜上の役割なだけで、誰でも何でもなれると本当に思ってる。変わる部分を見ても、ただ私は現状把握してるだけ。

なぜ上っ面だけで、自分と合うか合わないかを判断するんだろう。これは子どもの時から不思議なこと。

大人になってから、この感覚に適した言葉をやっとみつけたけど、私は相手の魂の個性に集中してものごとをみてる気がする。唯一変わらないところだと思うから。


モヤモヤも居心地悪いのも

感じ切れてなかっただけかもしれない

気分が悪いのを体感するのは大変だけど

私の場合トラウマを感じきるのと同じ要領で

十分感じればいつかはなくなるものなんだと思います


生きてる限り

何かが生まれて消化されて

それは体の細胞と同じで

心も順繰り巡って

悪いものが入ってきたら

毒素を分解して綺麗にするまでに

痛みが出るものかもしれない


モヤモヤして落ち込んだりするのは

多分明るいところとの差をつけるため

しあわせの感度あげるため

全部感じるためのプロセスかもしれない

落ち込んでしまうこと自体何も悪くない


どうしても愛すべきところに目を向けにくいのは

なぜだ

自分の中が澄んでないと他人のいいところ見えないのかもしれない

自分の愛を感じないと感じないのかもしれない


こういうことに捕まって考えるのは

自分のいい子でいるためじゃなく

自分と仲良く生きていくために

あるがままで

ありのままで

最高の私だから


欠けているところも愛らしくて

人らしいなと

人間に生まれたこと間違えたと思ってた12歳の私よ

私は生まれてよかったなと思うよ

ずっと大好きなものが音楽で変わらない。

音楽は心の居場所で安心できるところだと思ってたけど、最近なんかちょっと違う感覚になってきた。

もっと探ってみたら、

心の中で置き去りにしてるものとか

誰も気にかけてもらえなかった思いとか

気づかなかったこととか

自分で大事に扱いきれなかったものを

音楽が掬い上げて、声をかけて、撫でて、抱きしめて、本来のピュアな気持ちを大切にしてもらってるんじゃないかと思った。

だから、気持ちいいし、共感してもらえるし、寄り添ってもらえるし、元気もらえるんだと思う。

私の場合、五感の中で、聴覚が1番敏感に感じるので音楽は心を扱ってもらうのに最適なんだと思った。


辛かった人生で音楽がいつもそばにいたこと

音楽がたくさんあるこの時代に生まれたこと

宇宙は完璧にプログラムして

私をここに落としたんだと

なんか直感的に思った。

音楽を好きになることは当然のように生きていたから、いろんな場面で私を守ってくれた存在だった。


そんなことふと思ったので記録してみました。